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第14話

 何を話すべきだろうかと口にすると、彼もまた同じようなことを呟いて、少し困ったように笑った。  さて、私は彼に対して、何を語るべきなのか。今日の朝から混乱続きだ。特別有能ではないと自負している頭は、もはや壊れた機械のようなボンクラっぷりだ。  私は説明が苦手だ。  私には普段、なにかを説明すべき友人や親類が近場にいない。人と話さない私は、人に話すべき言葉を忘れてしまっている。  とりあえずは目に見えるものから、少しずつ整理しよう。  私が提案した言葉に対し、ノルは二度ほど瞬きしてから、また笑う。 「いいですね、目に見えるものからゆっくりいきましょう。えーとまずは……僕の目の前にはラティーフが見える」  その言葉に、私も少し肩の力を抜いた。 「ああ、私の目の前にも、ノルがいる。今日の君はいつもよりも洒落た髪型だ」 「チリの悪戯ですってば。あなたはいつも通り、すごくラフで格好良くてあーもうなんですかそのサングラス格好良い!」 「太陽は苦手なんだ。……そのシャツ初めて見るな。アブダビにはもってきていなかった服?」 「一張羅ですよ~だって旅行だとか言うから。大富豪のバカンスのお供なんて初めてなんです。絶対にレストランとか連れていかれると思って慌ててチャックと選んだのに、まさか、砂漠のど真ん中に連行されるなんて」  ノルの言う通り、目の前に広がるのは赤褐色の大地だ。  少々の岩山と狭間には、灼熱の砂が涼しい顔で横たわる。空気は熱くからりと喉の奥まで焼くことだろうが、幸いにも、私の肌を撫でる風は涼しい冷房だ。  私にとっては馴染みのある光景だ。だがここはアブダビではない。  私は旅行が好きではない。海外どころか国内の移動ですら億劫だと思っている。バカンスの時期に特に興味もない海外に出かけるのは、ラティーフ・オマール・アブドゥッラーはそんなに金がないのかと余計で腹の立つ詮索をされない為、つまりは見栄と体裁の為だ。  毎年、バカンスの予定は行き先から宿まで、全て有能な秘書に丸投げしている。  何処にたどり着こうとも、今年の私は宿から一歩も出る予定はなかった。旅先で読む本は紙と電子書籍で揃えてある。あとはルームサービスさえあれば、私にとって何の不自由もない素晴らしい旅行になる。  なにもない、静かなバカンスになる筈だった。  それなのに私はいつのまにか、ロンドンのど真ん中のアパート前に立っていた。  まさかと思う暇も、一体ここはと口を開く暇もなく、すたすたと歩く秘書を追いかけて行った先で、想い人との予期せぬ再会を果たした。  久しぶりに目にしたイギリス人の青年は、相変わらず細く白くしなやかな草食動物のようで、けれどアブダビに居た頃よりも幾分大人しく思えた。  恐らく彼も戸惑っていたのだろう。大きく見開かれた目から零れそうなブルーの瞳を見ていれば、この急な再会について彼もまた何も知らされていなかった事は容易に想像できる。  手を引いていたのはイーハと、そして意外な事にチャールズ・ヘンストリッジだと言う。  そう言えばリトル・ヒューストンへの荷物はチャールズ宛てで送られたし、私の家からの配達手配は全てイーハがこなした。連絡先を知っている二人が何かしらのやり取りをしていたとしても、不思議ではない。  私達はフラットの住人に歓迎されたものの、リトル・ヒューストンでの滞在時間は三時間にも満たなかったし、正直何が何だかわからないうちにまた追い立てられ、タクシーに押し込まれ、空港でチケットを握らされた。  常ならばどこに行くにも完璧に計画を練る仕事の出来すぎる気持ちの悪い秘書が同行するのだが、この時私の座席の隣に座っていたのはノルだった。  そして今も、彼は私の前にいる。砂漠の街、ヨルダンの真ん中で、私達は言葉通りの二人きりだった。  ヨルダンのワディラム砂漠のど真ん中にある、近未来的なドーム型のガレージホテル。今年の私のバカンス用にイーハが手配したのは、サンシティホテルのマーティアン・ドームだ。  地面から半分顔を出したボールのような球体のテントを模した宿泊ドームは、半分がガラス張りとなっている。開けた視界に広がるのは、赤味をおびた岩と谷と砂の大地だ。  砂漠のど真ん中のというシチュエーションは同じではあるが、アブダビのリゾートホテルとは趣がかなり異なる。アナンタラは砂漠のオアシスだ。しかしここは、荒々しい大地をそのまま、ダイレクトに感じる。  私はヨルダンという国にあまり馴染みがない。普段のイーハならば、夏の休暇くらい少しは神様から離れろと言わんばかりに北欧やアジアに私を放り投げる。イスラム圏であるこの場所を選んだのは恐らく、同行者であるノルの為だろう。  マーティアン・ドーム。この名前は、『火星のドーム』という意味だ。  目に見えるものから一つずつ、現状を整理していったノルはガラスの向こうの大地を眺め、そして小さなドームの天井を眺め、腰掛けていた広いベッドに倒れ込んで『すごい』と呟いた。 「すごい。……僕はここの事を知っています。SF映画でよく見る。僕の好きな火星を舞台にした映画も、この砂漠で撮影したんです。地球上で一番火星の環境に近い場所……は、実はカナダの無人島だって話なんですけど、たぶん外見上ならここが一番、火星っぽいと思います」  彼の隣に腰掛けて、外を眺める。日が暮れる前の赤い太陽は、荒れた岩山を赤褐色に照らす。 「君は、ここに来る事を知っていたのか?」 「いいえ。知っていたらちょっと高いシャツなんか着てきませんよ。だって何もない。レストランもないし、高層ビルもないし、お洒落な人間たちもいない。誰もいない。一緒に居るのがラティーフだけなら、僕はもうちょっとラフな格好を選びます」 「勿体ない事を言うな。そのシャツも髪型も似合っているのに」 「外見を褒められるの苦手なんですよぅ……。それにあなたは、僕がどんな服を着ていても、えーと……僕の事、嫌いになったりしないでしょ?」 「…………まあ、それは。うん」 「あ。それとも単純にアレですかね!? ティーシャツよりなんかこういうボタンついてるシャツの方がお好きって話ですか!? そういうことならシャツを選んでくれたチャックに感謝です! それから僕は帰ってから似たようなシャツをたくさん買い込む事にします」 「いや、何もそこまで」 「シャツの僕とティーシャツの僕、どっちがお好きですか?」 「……それは、あー……シャツの方が、私は似合っている、と思うが。思うが――」 「だってラティーフ、心が広すぎて、どんな僕でも全然幻滅しないし、どんな僕でも大体受け入れちゃいそうだし。だからちょっとでもあなたの好みがわかるのは嬉しいです」  確かにその通りだったので返す言葉が見つからない。  私の心が広いかどうかはともかく、ノルがどんな服を纏っていようが彼に対する感情が変わる事はないと思う。  身体を起こしたノルは、後ろに両手をついてもう一度『すごい』と口にした。 「こんな素敵な事、もうないかもしれない。そりゃ他に宿泊客はいるでしょうけど……でも、此処には、ほとんど僕達だけしか人類はいないんです。孤独な宇宙みたいに」 「宇宙程寒くはないけどな。冷房は冷たすぎないか?」 「……寒い、って答えたら、あっためてくれたりしますか?」  思わず、息を飲んでしまった。  私の息とともに空気すら一瞬止まった、気がする。普段のノルならば、冗談ですよと笑うかもしれない。けれどこの時は、ただ張り詰めたような緊張感が漂うだけだった。  ふと息を吐いたのはノルが先だった。  ああ、だめだ、きっと彼は笑って『冗談ですよ』と言うつもりだ。そう思ったから私は、彼が言葉を紡ぐ前に咄嗟に手を握った。 「…………、っ……え、ちょ……、……!」 「…………私の神は同性愛を禁じている」 「ラティーフ、あの、勿論それは、存じていますし、ああああの、手、手がですね……え、うそ、僕達もしかして、手握るのも、初めて?」 「握手以外では、初めてだよ。私は一切君に触れなかった。触れれば私の脆い理性は神に背きたくなると思ったからだ。だが考えてみれば、それはただ私が苦しむだけの話だ。君には何の関係もない」 「え、いや、関係はありますよだって僕あなたの事が好きなんだから……好きな人が苦しむのは嫌です。でも、じゃあ諦めて友達に戻りましょうって言われても嫌だと思うから僕は多分ワガママなんです……そういえば結構好きに生きてきたなーって思うし、我慢できない性格なのかも。あなたとは正反対……あのー、我慢できない子なんであんまり手ぎゅっとされてるとーそのーどきどきしちゃうん、です、けど」 「ああ、そうか……よかった」 「え。よかった? なにが?」 「――胸が高鳴っているのは私だけではないんだな、と、思って」  たかだか手を、つないだだけで、と自嘲していたところだった。  私は浮かれて笑ってしまいそうで、けれど視線を上げた先のノルはこちらが更に動揺する程に赤い顔をしていたし、なんだかよくわからない言葉をたくさん吐いてからへなへなと私の肩口に沈んでしまったから、きっと彼も同じように浮かれ、同じように恥ずかしいのだろうと思うことにした。  肩の上に乗ったノルの額が熱い。彼が息をするだけで、私の服が暖かく揺れる。人の気配をこれほど近くに感じたのはいつぶりだろう。子供の頃は臆せずにイーハとじゃれた。  いつから私は、人と触れ合う事を止めたのか。いつから私は、人に惹かれる事を止めたのか。心が揺れ動く瞬間が一度もなかった、とは言わない。触れ合わずとも心が動く事はある。  私はノルに恋をした。彼の言葉に。彼の真面目さに。彼の、少し孤独で寂しく、そして壮大な宇宙への夢に。 「ノル、顔を上げてくれないか」  私は人付き合いが得意ではないから、こういう時にスマートに顔を上げさせることができない。仕方なく言葉で懇願するも、顔を伏せてしまった青年はかすかに身じろぐだけだ。 「ノル」 「……だめ。だめです、ええと僕、みんなに言われた事今一生懸命思い出してるんです……なんだっけええと、太陽神が理性の神さま? だから、アポロンの目を隠しておけばいいんだっけ。あ、違う、えっと、夫婦はフィフティーフィフティーだから、ラティーフに僕の宗教にちょっとだけ改宗してもらって、隙を作って殴りこめ? えーこれ絶対違う殴り込めって言ったの絶対チリコだ、うわーなんだっけ、オフェリア、あの、オフェリアに電話していい……?」 「君は、あれだな。……パニックになると随分とかわいいな」 「あーあーもう、あの! いきなり手とか繋いじゃったと思ったら今度はそうやっていきなり、こう、ダイレクトにそういう、僕があーあーしちゃいそうな事言うのどうかと思うわけですよどうしちゃったんです!? さっきあなた、神様は同性愛禁じてるって言ったばかりじゃないです!?」  確かにその通りだ。  だから私は、その後に続く私の決意を、噛み締めるように口にした。 「私の神は同性愛を禁じている。そして私は、私の神に対して誠実でありたい。……だが、君に対しても誠実でありたいんだ。私は、随分と我儘だ」 「……あなたはちょっと頑固ですけど、我儘じゃないですよー……だって、すごく、優しいし、すぐに、譲るし」 「ノル、顔を上げて」 「………………」  観念したように顔を上げた青年は、視線は伏せたまま赤い顔を晒す。真っ赤な顔が愛おしくて仕方がない。  私は心の中で神に謝罪する。アッラーを敬愛している。アッラーを信じている。その教えを必ず守ると誓っている。しかし私が人間として生きていく上で、一つだけ禁忌を破る事を決めた。 「おそらく私は、どれだけ言い訳しようとも罪悪感を振り切れない。何度も君に触れる勇気がない。だが今だけ、この一度切りと言い切る自信も覚悟もない。一年に一度でいい。一年に一度程しか、私は勇気を出せないかもしれない。そして私はその苦を、君にも背負わせてしまう事になる。……それでもいいならば、という言い方は、少しズルいが……」 「それでもいいです」 「ノル、早い、落ち着け」 「落ち着いていられないですだってこれ、愛の言葉でしょ? ね、そうでしょ? なんかすごく回りくどいし死ぬ前のメッセージみたいだけど愛の言葉でしょ? 信じられない、僕、あした死ぬの?」 「縁起でもない事を言うもんじゃないよ。君が死んでしまったら私は誰を愛したらいいんだ。君が良い。……君だけだ」  私が禁忌を冒し、愛するのはオリヴァー・グレイただ一人だ。  私の言葉を最後まで聞いたノルは、泣いているような笑っているような不思議な顔で暫く口を開けたり閉じたりしていたが、やがて本当に涙を滲ませて私に思い切り抱きついてきた。  暖かい。そう言えば人間は暖かいものだ、ということすら忘れていた。私には友人がいない。仕事のできる秘書は適切な距離を保つし、抱擁するような家族とは意図的に疎遠な状態を保って生きている。  息が詰まる程抱きしめられ、私も思い切り抱きしめた。 「僕も、あなたがいいです。僕は変人で、宇宙が大好きで、喋りだすと止まらないし、我慢が出来ないし、好きなことばっかりやって生きてるダメなイギリス人です。ラティーフにはちょっと似つかわしくないかもしれない。でも、僕もあなたがいい。二兆個の銀河の中で、七十五億の人間の中で、僕はあなたと出会った事に結構本気で感謝しています。あなたは最初からずっと厳しくて優しくて正しい素敵な人でした。今も勿論その通りの人です。あとハンサムで格好よくてちょっと抜けているところがキュートで最高です。最高にかわいい。好き。大好きです。ええとすいません他にもいっぱい言いたい事があるのにちょっとわけがわからないです」 「いや、もういい……もう、十分恥ずかしい。君の言葉は本当になんというか、ストレートだな……学者だからかな」 「ロマンティックな方がよければ善処します! ええと、あなたの琥珀色の瞳ってばすごくセクシーで、」 「いや口を閉じていい。本当に。君の気持ちはわかった、あー……少しずつ聞く。私も話したい。誰かに、言葉を偽らずにすべてを告げるのは、初めてなんだ」  いつでも私の傍には偉大なる神がいる。勿論今もいる。ヨルダンはイスラム圏だからよりその気配は濃厚だ。  後にどうしてヨルダンだったんだ、とイーハを問い詰めたところ、『アジアに行こうが南極に行こうがあなたは「アッラーは何処にでもいる」と言うじゃありませんか。もうそんなのどこでもかまいやしないと思いまして、ノルの行きたそうなところを優先させました』と言われた。まったくもって、私の事をよく理解している男だ。  しばらくお互い競い合うようにどこが好ましいか、矢継ぎ早に言い合った。時にあまりの羞恥に言葉を失い、愛おしさに息を呑み、胸を詰まらせて抱きしめる手に力が入った。  ノルは油断しているとすぐに宇宙の話を初めてしまう。しかし私は彼の宇宙の話を聞く時間を愛している。いつまででも喋っていそうなノルを愛おしく抱きしめていると、途中で脱線してしまった事に気が付いたノルが自分で軌道修正し、何も言わずに話を促した私を何故か叱りつけたりもした。  そのうちにあたりは静かに暗さを増した。ドームの外のテラスにオレンジ色の明かりが灯る。  しばらく静かに外を眺めていたノルが、何かを思い出したように声を上げた。 「……あ! あー! 火星! そう、火星の宗教です!」 「火星の宗教?」 「あなたを神さまから奪う話!」  言われてからやっと、リトル・ヒューストンで繰り広げられていた熱い討論の事を思い出す。あれは私とアッラーとそしてノルの話だった。だが当事者である私はむしろその話を聞かぬようにしていたし、ノルは降って湧いた旅行の準備で必死だったはずだ。  しかしノルは私が空港で手続きをしている間に、リトル・ヒューストンの面々と話したらしい。 「火星には宗教があるのか? 人も住んでいないのに? まさか古代文明の痕跡が……あったら君はもう少し盛大にはしゃいでいるな。一体何の話だ、それは」 「えっと、説明しますね。まず、あなたを神さまから奪うのは不可能、って結論に至ったそうです。チリコはわりと粘ってたみたいですけど、イーハの参戦でそこは無理、と結論付けられたみたいで」 「だろうな。私の頑固さをアイツほどよく知っている者はいない」 「というわけで、僕の方の宗教にちょっと配慮してもらって、改宗とはいかずとも一日くらい僕の宗教に寄り添ってくれたらいいんじゃないのって話になったみたいです。そのー、なんていうか。夫婦は、えっと、ほら、権利平等、みたいな……そっちにも譲るからこっちにも譲れよみたいな……」 「……夫婦」 「そこは聞き流してください。いえあの僕はその、あなたの神さまと世間といろんな条件が許せば入籍だって構わない心持ちですけどそれはおいといて……おいといてくださいね?」 「実現するかどうかは置いておいて、今私は浮かれて踊り騒ぎたい気分だ」  縋るように確認する青年の愛おしさは言うまでもないが、確かにこの話を続けていては私の顔面がだらしなくなる一方だ。 「ところで君の宗教はキリスト系じゃないのか? 同性愛はなんにしても禁忌だろう」 「まあ正式にはそうなんですが、僕が最近真剣に祈りを捧げているのは実はイエス様じゃないんですよね」 「ああ。……火星」 「そう、火星です。遠くて、近くて、寒くて、暑くて、何もない赤い星。宇宙人が存在するかどうか、そんなハチャメチャな数式に希望をもたらしてくれるかもしれない星」  確かにノルはよく祈っていた。私が祈りを捧げる横で、彼は火星に向けて祈っていると言った。火星の信者。そんな風に彼を称した事もある。 「火星に祈りを捧げる宗教もまあ、探せばあるんでしょうね。世の中いろんなもので溢れていますし、宗教や思想はそれこそ人間の数だけあると思いますから。僕の祈りに関しては、今のところ信者は僕一人です。だからこれから僕の祈りにもっともらしい理由をつけて、ちょっとした宗教の体裁を整えて、そしてあなたをちょっとだけ引きずり込んじゃえって言われました」 「……君の宗教は同性愛を許す、ということ?」 「うーん。……というか、罰しない、と思います。罰は、一方的に悪いものではないし、必要なものだとは思います。でも僕は星を追いかける事に必死なので、罰を与えたり罰を受けたりする時間がもったいないから、とりあえず勝手に好きに生きて! って感じです」 「奔放な精神だな……」 「でも、思想でしょ? 『勝手に好きに生きて』。だって人間の寿命って宇宙の時間に比べたら、本当に光速なんてもんじゃないくらい一瞬なんです。人類はすぐに死んじゃう。文明なんて一瞬の花火みたいなもんです。勝手に好きに駆け抜けないと、瞬きしているうちに終わっちゃう。というわけでラティーフもこの滅茶苦茶な僕の宗派にぜひ一日改宗を……って誘うつもりだったんですけど」  ノルが火星の宗教の言い訳を思い出す前に、私が先走り彼の手を握ってしまったわけだ。  随分と無茶苦茶な言い訳だ。けれど、悪くはない。  勿論厳密には改宗は不可能だし、異教徒に譲るという感覚は実はあまりうまく理解できない。できないが、ノルにばかり私の宗教を押し付けるのは良いことではないというのは確かに、その通りだ。  微笑ましいようでいて若干物騒な提案だが、私は彼と、彼の友人達のその提案を少しだけ飲み込む努力をしようと思った。  一年に一度、いや、数回くらいは。こんなにも他人の幸福に対し真剣に口を出してくれる人々がいるのだから。  腕の中の恋人は、やっぱり少し寒いですねと笑う。冷房を弱める為に立ち上がろうとした彼の手を引き、もう一度腕の中に収める。インドアな青年の身体は、思っていた以上に細い。 「……あの、ラティーフ、冷房……」 「…………君はいつか、冷たい宇宙に旅立つんだろう。このくらいなんともない筈だ。火星はもっと寒い」 「宇宙船にも火星居住区にも暖房はありますよー暖房の燃料問題ってやつも宇宙の旅のネックの一つでー……いや違う宇宙は関係なくて、だってこんな砂漠のど真ん中で風邪ひいたらおもしろいし、チャックにめちゃくちゃ笑われ」 「一秒たりとも君を離していたくない」 「……急にかわいいこと言うのやめてくださいもー……」  へなへなと寄りかかってくれるノルは私の我儘に応え、腕の中に納まってくれる。勿論私もノルに風邪をひかせたいわけではない。彼には慌ただしく輝かしい未来が待っている。バイタリティ溢れるグレンジャー教授と共にドイツに渡り、そして皆が期待する以上の成果を出すことだろう。  私の我儘はあと五分。五分だけ抱きしめたら、冷房を弱めてそしてイーハに持たせられた旅行鞄の荷解きをしよう。私の荷物を圧迫している書籍を開く暇はなさそうだ。  電子書籍も紙の本も必要なかった。宇宙の話も、火星の話も、せがめばせがむだけ延々に説明してくれる専門家がいるのだから。  しかし抱きしめ直した冷たい腕が、流石にかわいそうに思える。仕方なく一度身体を離すべきかと考えた私が腰を浮かす前に、腕の中のノルがこちらを向いた。 「……あの、ラティーフ。お願いがあるんです」 「うん?」 「僕、実は今結構頑張ってるんです。ドイツ語の勉強。それでですね、ええと、頑張ってるからってのもアレなんですけど、もうちょっと頑張れる為にご褒美っていうか、応援っていうか、そのー……」 「勿論、私にできる事ならば、いくらでも、なんでも」 「…………………キスしてラティーフ」  囁くような、木の葉のざわめきのような、かすかな声だった。  恥じらい伏せられた睫毛の愛おしさに、私は眩暈を覚える程だった。心臓が本当に止まったかと思った。  手を繋いだだけで、抱きしめただけで有頂天になるような私は、どんな顔をしていたのかわからない。わかりたくもない。きっとだらしない、格好悪い顔をしていた事だろう。  ロマンティックな雰囲気など、どうやって作っていいのかわからない。手はどのように添えたらいいのかわからない。何しろ私は、誰かにキスをしたことがない。  私は緊張する手が震えていないかどうか、それだけを心配したし、それ以外はノルへの愛を伝える事に全てを注いだ。  静かなキスだった。それでも初めて他人の舌を感じたし、他人の口内の熱さを知った。キスの合間に漏れる息の艶やかさを知った。  くったりとしなだれかかるノルにそのことを伝えると、僕も初めてキスしましたと笑う。あまりにも愛おしくて、また冷房の事を忘れそうになった。 「時々でいいんです。ていうか、時々じゃなくてもいいです、なんていうか……僕が頑張って昇進した時とか。ちょっとすごい事があった時とか。そういうお祝いに、キスしてほしいです」 「……そんな謙虚なお願いでいいのか?」 「だって、抱きしめて好きだよってあなたが言ってくれるだけでも奇跡だってこと、わかってるし。僕も恋人の宗教に配慮しなきゃ。権利はフィフティーフィフティーですから」  ちいさなリップ音を残して私の額にキスを残したノルは、腕から逃れると冷房のスイッチを切る。外に行きましょう、と笑う。そこには恐らく、アブダビの砂漠で見たものに勝るとも劣らない星空が待ち受けていることだろう。  宇宙の話を聞きたいと思った。だから私は宇宙の話をしてほしいと言った。ノルは笑う。少しだけ赤さの残る顔で、軽やかに。 「宇宙の話をしましょう! あ、でも、三十分に一回くらいは、恋の話もしたいです! だって好きなんです。宇宙の事も、あなたの事も!」  軽やかな青年の正々堂々とした愛の言葉につられて、私も久方ぶりに笑った。

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