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ランドルフ1
汽車を降りた瞬間鼻をついたのは、大勢の体臭と無機質で人工的な香りだった。
土や緑の気配は感じられず、あるのは圧倒的な熱量と湿度だけ。
見知らぬ風景と嗅ぎ慣れない空気に、ただただ圧倒されていると「ランドルフ!」と、己の名を呼ぶ声がした。
振り返った先にいたのは、一ヶ月ほど前に初対面を果たした従兄弟だ。
「フレッド」
ランドルフは腕と黒い尾を大きく振って、応答する。
「遠路はるばる、よく来てくれた」
フレッドの焦げ茶色の尻尾がブンブンと動く。自分の訪れを心から歓迎しているのだとわかり、ランドルフは内心安堵した。
満面の笑みを浮かべるフレッドと握手を交わし、促されるまま駅の外へ出たランドルフは、見慣れぬ乗り物を発見して目を丸くした。
「もしかして、これが自動車?」
「そう。今、都市部で大流行の蒸気自動車だ。乗るのは初めて?」
「ええ。田舎ではまだ馬車が主流ですから」
蒸気自動車の存在は新聞などを読んで知っていたが、彼が生まれ育った田舎町では、ついぞお目にかかることなどなかったのだ。
自動車には運転手が待ち受けており、ふたりが後部座席に着くとすぐに車が動き出した。
騒音同然の大きな音と、激しい振動に目を丸くするランドルフを見て、フレッドがクスリと笑った。
「驚くのはまだ早いよ。数年前から水道も徐々に普及し始めてね。一般家庭でも井戸水を汲む必要がなくなったんだ」
水汲みはかなりの重労働だ。それをせずに済むとは、都会はなんと便利なところだろうと、ランドルフは驚嘆した。
「それから夜になると街のいたるところでガス燈が灯って、まるで日中のように明るくなる。だから遅い時間でも通りは人で溢れかえって、夜に営業する店も多いよ。たとえばあそこ」
そう言ってフレッドが指さした先には、レンガ造りの重厚で圧倒的な建物があった。
柱や壁のいたるところに精密な彫刻が施され、正面上部には天を仰いで腕を伸ばす女神の彫刻が鎮座している。
「もしかして、これがかの有名な」
「ポリュムニア・シアターだ」
それはポリュムニア座という劇団が有する、この街で一番豪奢な劇場だった。
演者は全て美貌のオメガのみで構成されており、公演が始まるとチケットは即完売するほどの人気を誇る、新進気鋭の劇団だ。
「昔は街外れの小さな小屋で上演していたのが、ある俳優が初舞台を踏んで以来、評判はうなぎ登りでね。ついに一昨年この一等地に、巨大な劇場を建設するまでに至ったってわけさ」
「もしかして、“ノア・ヴィーナス”?」
「ご名答。彼の名が、君の住む町にまで広まっていたなんて、驚きだな」
劇団の看板俳優であるノアの名は、新聞の社交欄に掲載されることがたびたびあったため、都会から遠く離れた田舎町に暮らすランドルフでも知っていたのだ。
名前とともに掲載されていた写真はたしか、唸るほど美しかったように記憶している。
「実は今夜、この劇場に席を予約しておいたんだ」
「えっ、でもここはチケットが高いと言うことでも有名な劇場ですよね」
「まぁたしかに安くはないな。しかし、ようやくヒギンズ商会の次期後継者が決まったんだ。祝賀会だと思えば安いものだよ」
「後継者だなんて……俺はまだ、後継者候補のひとりに過ぎません」
「“候補”が取れるのも時間の問題だ。数いる後継者候補の中で上位のアルファは俺と君だけ。しかも君は俺よりもさらに上位と来ている。結果は目に見えるだろう」
「あなたはそれでいいんですか?」
幼いころから大商会の後継者候補として、フレッドは研鑽を積んできたらしい。
フレッドだけではない。
実父の傍らで育てられた子どもたちは皆、商会に尽くすために並々ならぬ努力を強いられたのだと聞き及んでいる。
そんな彼らを差し置いて、ポッと出の自分が候補者筆頭に躍り出るなんて……ランドルフの戸惑いは大きかった。
「たしかに俺は商会を継ぐために、長年努力してきた。だがな、この世で最も尊くて強いアルファの力に比べたら、そんなものは微々たるものだ。君にはその力が備わっている」
「しかし」
「商会の仕事はこれから覚えていけば問題ない。それに俺のことが気懸かりなら、君の補佐として隣に置いてくれないか。総領の片腕というのも、案外悪くなさそうだ」
屈託なく笑うフレッドに、ランドルフは少しホッとした。
彼らを乗せた自動車はポリュムニア・シアターの前を通って、一路ヒギンズ商会を目指す。
劇場を通り過ぎる瞬間、ランドルフは改めて荘厳な建物を仰ぎ見た。
――この美しい女神の像はたしか、ノア・ヴィーナスをモデルに作られたと、新聞に書いてあったっけ。
端正な顔立ちをした美しい女神は、写真で見るよりも輝いて見えた。
ノアという俳優はよほど美しいオメガなのだなと感嘆しきりのランドルフは、その女神こそが自分の運命を大きく変えることになろうとは、このときはまだ気付いていなかったのである。
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