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犬飼君ちの家庭の事情・一

 犬飼(いぬかい)家の朝は早い。 「敬太(けいた)、おはよう! ベーコンエッグできてるよ~」  お気に入りのブルーのエプロンを身につけて、湯気のたつベーコンエッグとほうれん草のソテーが乗った皿を手に、幸太郎(こうたろう)が明るく言った。  息子の敬太は寝癖がついた短髪を押さえながら、「……おはよ」とぼそっとつぶやく。寝起きで声が低く、聞きとりづらい。幸太郎には聞こえなかったが、いつものことと軽くうなずき、エプロンを外した。 「さ、おれも食べよう。今日早番なんだ」  そう言って、幸太郎はダイニングテーブルについた。敬太もスウェット上下のまま、幸太郎の向かいに腰を下ろした。ちらりと父親の格好を見る。  薄手の黒いセーターか。  ごくり、と生唾を飲み込んだ。水泳と規則正しい生活の賜物の豊かな胸筋が、フィットする素材のせいでぱつーんと盛り上がり、下からそのラインを露わにさせている。  敬太は無意識に自分の脚のあいだに触れ、分身の動向を確かめていた。まだ大丈夫。ここで大きくなるわけにはいかない。  しかし、幸太郎は天性のよく気がつく性格でそれに気づいた。箸を持つ手を止めて、遠慮がちに「トイレ、行ってきたら?」と言った。敬太はびくっとする。顔が真っ赤になりながら、ぶっきらぼうに「大丈夫」と答える。 「朝勃ちじゃないのか? 父さんも男だから遠慮しなくていいんだよ」 「そんなんじゃない」  十四歳に戻ったみたいだと思いながら、敬太は箸を手にとった。目の前のベーコンエッグを睨みつける。 「食べよう、父さん。おれも一限から授業だし」  幸太郎はそれ以上もうなにも言わなかった。大きな手で茶碗を包み、炊きたての白米を口に入れる。 「きょうは授業だけ?」  父親の質問に、敬太は熱いほうじ茶を飲みながらこくりとうなずいた。幸太郎は朝食を食べながら、いそいそと尋ねる。 「撮影はいつだったっけ?」 「明日」 「載るのはいつ?」 「来月号」 「またいつもの雑誌? 見せてね」  敬太は顔を上げた。目の前で、父親がのほほんとご飯を食べているのが憎らしい。逞しい喉仏が上下している。思わず反抗した。 「別に、いいだろ。毎日顔見てるんだから」 「雑誌の敬太は別だよ。だってとてもかっこいいから!」  そう言って笑う幸太郎に、敬太の「犯したいゲージ」はどんどん指数を増していくが、なんとかその心を押し殺す。欲情を蹴飛ばして、「そういうの、いいから」とまた反抗した。幸太郎はきょとんとしている。 「いいからって、なにが?」 「おれ、もう二十一だよ父さん。子離れしてほしい」 「……一人暮らししたい、とか?」  寂しそうな顔になる幸太郎に、敬太の胸がつきんと痛む。思わず、「そこまでは思ってない」と言った。 「いっしょに住ませてくれるなら、そっちのほうがおれも有難いし……」  ぼそぼそ言うと、幸太郎は明らかにほっとした顔になった。 「なんだ、よかった」  そう言って、昨夜の残りの、茄子と長葱の味噌汁をすする。敬太はため息が出そうだった。もりもりと咀嚼していく父親の顔を眺め、ぼんやりする。そんなにハンサムではないのだが、なぜかとてもかっこよく見える。まだほんの子どものころは、父親のことを世界一かっこいい人だと思っていた。あれから長い年月を経て、海外留学やモデルの仕事をはじめて、いろんな経験を積みいろいろな出会いや別れを繰り返してきた今、一周してやっぱりいちばんかっこいいのはこの人だと感じる。  敬太は静かに味噌汁をすすった。味噌の具合がちょうどいい。出汁も顆粒の元などではなく、幸太郎が鰹節から煮出したものだ。  こんなに贅沢な時間を過ごしている大学生はおれだけかもしれない、と敬太はちょっとした感慨を覚える。しかも、大好きな人が目の前にいる。贅沢すぎる贅沢だ。しかし、同時に叶わない思いの相手でもある。それを思うと、引き裂かれそうに苦しくなった。  幸太郎は呑気に、よく焼けた白身を頬張っている。敬太は味噌汁を飲み干すと、ご飯の最後の一口を食べ切って、腰を上げた。 「父さん、コーヒー飲む? おれは飲むけど」 「ん、ありがとう。味噌変えたの気づいたか?」 「うん。去年まで使ってたやつ?」 「そう。出戻っちゃった。敬太はなんでも気づいてくれるから嬉しいな。花ちゃんに似たんだな」  別れた、そして亡くなった妻の名前を口に出す幸太郎に、敬太はうなずいた。 「おれ、母さん似だから」 「顔も花ちゃんに似てよかったね。おれ、ハンサムじゃないし。花ちゃん、子どものときは『リボンの騎士』って呼ばれてたんだって。ぴったりだよね」 「たしかに、母さん凛々しかったな。小柄だけど、宝塚とかにいそう」 「また、三人で暮らしたいな」  ぽつりとつぶやく父親に背中を向け、敬太はコーヒーの入った黒い缶を開け、豆をフィルターにセットしていく。そんな日は二度と来ないとわかっていた。そして、それがうれしかった。  自分の薄情さに自己嫌悪を覚えつつ、コーヒーメーカーの電源を入れる。こぽこぽと軽やかな音を立てながら、沸騰した湯が豆に落ちていく。キッチンの小窓から、朝の日差しがシンクに柔らかく注がれていた。  敬太はやり場のない昂りを抱えながら、コーヒーが落ちる音を聞いていた。  幸太郎は黙って朝食を食べていた。 ○  犬飼家は父子家庭である。  サラリーマンとして多忙だった幸太郎が家庭をかえりみなくなり、妻の花は敬太を連れて出ていった。彼が五歳のときである。それから母親の実家で暮らすことになった。一年後に正式に離婚。敬太は母親と祖父母に育てられたが、彼が十四歳のときに母親が死去した。祖父母が病気がちだったこともあり、敬太はふたたび幸太郎と暮らすようになった。  長身の父親に似て、敬太はぐんぐん大きくなった。とはいえ、一八七センチの幸太郎には届かず、一八五センチだ。それでも長身で、目立った。外国人風の目鼻立ちをしていた母親の血を受け継ぎ、彫りが深い美貌をしている。そのため、一年の海外留学を終えて帰国したころからモデルをはじめた。騎士のように凛々しいその姿から、守ってもらいたいと思う女性ファンが多い。  幸太郎は現在四十四歳。多忙を極めたサラリーマンを辞め、子どものころから本が好きなことから、現在は神投(かんなげ)市立波崎(なみざき)図書館で図書館司書をしている。役職は副館長である。趣味の水泳で鍛えた体は、息子のひょろっとした体とは違って厚く逞しい。本を扱うという、体力面でも意外とヘヴィーな司書の仕事もてきぱきこなしていた。  とはいえ、ふだんの性格はおっとりしている。仕事を離れるとどちらかというとのんびり屋さんである。あまり深刻にならないが、不安や弱音を溜め込む性格だった。自身の観察眼の通り、そこまでハンサムではない。しかし、左側の口元にある笑いぼくろがどことなくセクシーで、妻の花もそこに落ちたのである。  息子との二人暮らしはうまくいっている。敬太は多少、秘密主義者だが、二人は他愛ない話をよくした。会話が多い家だった。  幸太郎は趣味であり特技でもある料理の腕を活かし、常に息子の敬太を食の面からもサポートしている。息子を溺愛し、高校二年生までバレンタインに手作りチョコレートを渡していたくらいだ。母親の代わりをしたかったらしいが、敬太には「いいかげんにやめてくれ」と言われて恒例行事が終わることになった。  息子に対するしつけは意外と厳しかったが、叱ったあと抱きしめるやり方で、それは今でも変わらない。  なんでもよく気がつく癖に、息子に欲情されていることには気がついていない天然である。 ○ 「敬太、優樹菜(ゆきな)ちゃん、来たよ」  インターホンに接続された受話器を握って、幸太郎が言った。敬太は寝癖を直しにシャワーをしに行って、髪を乾かしているところだった。 「もうちょっとかかる。上がってもらって」  敬太がバスルームから大声を出すと幸太郎はうなずき、玄関の扉を開けた。黒髪が美しいゼミのクラスメイト(と言っても敬太は一年留学していて進級が遅れたので、一つ下)、美女の浅田優樹菜が顔を覗かせる。パーカーを身につけキャップをかぶってスポーティな格好だ。 「ごめんね。敬太、まだなんだ。中で待っててくれる?」  優樹菜はうなずいて、お邪魔しますと元気に言ってスニーカーを脱いだ。 「浅田、ごめん。服に歯磨き粉がついて取れないんだ。着替えるから待ってて」 「いいわよ。大丈夫、まだ時間あるし」  そう言いながら部屋の隅に立っている優樹菜に、幸太郎は椅子を勧めた。可愛い子だなと思う。幸太郎の目から見ると、息子と優樹菜は美男美女のベストカップルだ。おれがいるからって、名字で呼ばなくてもいいのに、と敬太の照れ隠しを微笑ましく思ったりする。  しかしそれは幸太郎の勘違いでほんとうは友人同士であり、優樹菜には彼氏がいるのだった。  自室から駆け下りてくる敬太のばたばたした足音が聞こえてきた。 「しまった、辞書失くした。たぶん、教室の机に置きっぱなしにしてきたんだ。もう回収されてるよな」 「落とし物ってどこに集まるの?」 「たぶん、学生課。でも先に図書館で借りる。いや、辞書ってふつう禁帯だっけ?」  父親のほうを見ると、幸太郎は優樹菜にお茶を出しながらうなずいた。 「禁帯だけど、版が変わったもので古いほうは貸し出し可になってたりするよ。うちの図書館の場合はだけど」 「じゃあ、図書館寄ってみる。浅田は学校着いたら先に教室行ってて」 「わかった。先生マジで怖いから急いでね」  敬太はうなずく。リュックの中にスマートフォンの充電器や本を突っ込みはじめた。幸太郎は二人の会話を聞きながら食器を洗っている。  お茶を飲みながら、優樹菜がふと敬太に言った。 「月九のドラマ、観てる?」 「え? なんだったっけ」 「先生と生徒の禁断の恋」 「観てない」 「けっこうおもしろいよ。最近、禁断の恋系多くない?」 「そうかな?」 「うん。先生と生徒とか、男同士とか」  敬太の胸にちくっとした痛みが走った。荷物を詰める手が止まる。幸太郎の視線が、その止まった手に注がれていた。優樹菜はさらに言った。 「近親相姦ものはさすがにやってるの見たことないけど」 「……母と息子とか?」 「兄妹とかね。あたしお兄ちゃんいるけど、あいつを男としては見られないわね。兄妹だから当然だけど」  敬太は視線が父親のほうに突き進みそうになるのをなんとか阻止した。それでも、伏せた横目でちらりとうかがう。幸太郎は食器を洗っていた。 「おれは兄弟いないから、そういうのはわからないよ」 「いたってわからないわよ」  そう言ってお茶を飲み、「できた?」と尋ねる優樹菜に、敬太は慌ててうなずいた。 「じゃあ父さん、行ってきます」 「ん。お弁当持って行ってね」  幸太郎が指差した場所には、弁当箱がすでに緑のチェックのふろしきに包まれて準備してあった。 「いつもありがとう」 「気をつけてね」  手を振る父親に向かってぞんざいに片手を挙げ、そそくさと出ていく敬太に、優樹菜は笑った。 「お父さんとほんと仲良いわね。微笑ましい」  敬太は「ふつーだよ」と言って、玄関にしゃがんで靴を履いた。 ○  敬太の望みは、これから先も父親といっしょに暮らすことだ。それがずっと続けばいいと思ったりする。  たまに荒唐無稽なことを考えもする。一人暮らしをすると言って、家を出る。整形して、別の男として戻ってくるのだ。息子ではなく、恋人として。  でも、そんなのむりだよなと敬太は思う。おれがいなくなったら、父さんは落ち込むだろう。とてもとても落ち込むだろう。  敬太は父に深く愛されていることをちゃんとわかっていた。そして、母親が亡くなったときのことを思い出した。もう別れたというのに、父親の悲しみはそれは深いものだった。それでも息子が誰よりも悲しんでいると察し、父親らしく振舞った。あのときのことを思うと、敬太はまるで父が太い木の幹のようだったと思う。抱きついたら受け入れてくれ、嵐に嬲られても倒れない。だから敬太は父に恋したのだ。  太い木の幹、まるで父さんの腰みたいだなと思い、手は勝手に脚のあいだに這っていく。自慰をしたあと、虚しくなりながら、父さんはそんなこと微塵も思っていないのに、と苦しくなった。ただのいい父子関係では満足できない、それを壊したくなる自分を呪った。  それに、そもそも父さんはノンケだしなと思う。  整形の妄想は妄想のままだった。

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