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犬飼君ちの家庭の事情・二

○  その日の夜七時すぎ、敬太はダイニングの椅子に腰を下ろし、スマートフォンを見ていた。風呂から上がり、下はボクサーパンツを身につけているが、上半身は裸のままだ。暖房をつけているので、寒さは感じない。  優樹菜が言っていた、教師と生徒のドラマのホームページを見てみる。たしかにおもしろそうだったが、観る気にはならなかった。  タオルで髪を拭きながら、ペットボトルのポカリスエットを飲む。新しいスニーカーを買いたいなと思い、しばらくネットで通販のページを見ていた。  そのとき、足音がした。  幸太郎がひょこっと顔を覗かせる。敬太は思わずダイニングテーブルの向こうで、椅子の上に立てていた膝を縮めた。 「と、父さん……走ってくるって言ってたのに」  幸太郎は犬のようにふるふると首を振った。しずくが飛び散る。 「急に雨に降られたから帰ってきた。春の嵐になるかもしれないな」  たしかに窓の外に風の音がする。幸太郎は濡れた体でとことこと敬太のそばに寄ってきた。 「ごめん、タオル貸して。……あれ? 敬太……」  そう言って、じっと見つめてくる父親に、敬太の胸で鼓動がうるさいほど音を立てる。 「な、なんだよ」  無愛想に言うと、幸太郎はうれしそうに笑った。それに合わせて笑いぼくろが動く。敬太はそのほくろの魔術にかけられたようだった。 「敬太、昔より筋肉ついたね。ひょろっとしてると思ってたのに」 「……最近、鍛えてるから」 「父さんといっしょにプール行くか? 走りに行くのもいいね。晴れてる日は気持ちいいよ。……敬太?」  敬太は飢えた心と肉体でじっと父親の姿を見ていた。雨でトレーニングウェアが濡れ、逞しい胸に貼りついている。胸筋のラインが裸同然だ。下になにも身につけていないのだろう。乳首が少し勃っている。  敬太の目は下に移動する。ぴたっとした、スパッツ同然のトレーニングパンツの下に浮かびあがる、父親の逞しい男の印。  母親と家を出ていくまでは、父と風呂に入ったりもした。でも、そのときの裸は思いだせない。家に戻ってからは、いっしょに入ったことなどなかった。  父親の裸同然の姿を見たのはこれが初めてだった。  自分の目つきがどんどんおかしくなっていく気がして、敬太は怖かった。視線を落とす。スマートフォンの画面は暗くなり、待機状態になった。幸太郎は息子がうつむいて押し黙っていることに心配になり、「敬太?」と尋ねる。敬太は顔を上げた。笑って、「なんでもないよ」と言った。 「おれ、部屋に行ってる」  そう言って腰を上げ、風呂から出た格好のまま、父親に背を向けた。幸太郎は首に借りたタオルを掛けたまま、「……うん」とつぶやいた。 ○  自分の部屋で、敬太はボクサーパンツの下から取りだした、いきり勃つ分身を手で扱いていた。怒張はまるで叶わない思いを絶叫しているようだ。手に包み、上下に擦ると、快楽の印が透明な粘液となって漏れ出てくる。  敬太はイヤホンをして、それをスマートフォンに繋ぎ、こっそり購入したお気に入りのゲイポルノを観ていた。逞しい中年の男が、年下の青年に犯されるビデオだった。その中年男に、敬太は父親を重ねていた。犯している青年はもちろん自分だ。中年男は快楽に落ち、もはや抵抗もなく、二人はベッドの上でけだもののようにまぐわっている。  中年男の喘ぎは低く、大人の男という感じで、敬太の肉欲と手の動きを煽った。父さんはどんな声で鳴くのだろうと、そのことばかり考える。敬太がこのAVを買ったのは、セックスのシーンがハードであること、そして最終的には和姦になるとレビューで読んだからだった。それは敬太の願いだった。  敬太のソコは長い。逞しくなった男根を濡れた手で扱きながら、ビデオに集中しようとした。しかしそのたび、父親の顔がちらつく。そしてあのぴったりとした胸。あの股間。敬太は淫らな格好をしていた父を罰するように、手の動きを速くしていった。  そのとき、扉が開いた。  敬太は呆然とした。動いた拍子にイヤホンが外れる。幸い、音はそこで止まったので聞かれることはなかったが、父親の足元まで飛んだスマートフォンの画面に映る、裸の男たちが濃厚に交わる映像は彼にしっかり見られてしまった。  幸太郎はかがんでスマートフォンを拾うと、それを伏せて敬太に差しだした。敬太は無言で受けとった。顔が真っ青になっている。男根は外に飛び出たままだ。 「敬太」  幸太郎が口を開いた。彼はまっすぐに息子を見つめた。 「敬太が同性愛者でも、おれ、気にしないからね」  敬太は無言のままだ。スマートフォンの画面を黙って床に押しつけた。体の中が無数の鋭い針に満ちて、それに終わりなく刺されているような感覚に襲われた。 「ノック、しないで悪かった。ごめんね」  うつむき、敬太はまだ無言のままだ。しばらく固まったあと、うつむいたまま言った。 「……父さん。出てって」 「うん」  幸太郎は背中を向け、扉を閉めた。  一人になると、敬太の体にどっと汗が噴きだした。体が熱く、同時にひどく冷たい。顔が真っ赤になり、目に涙がにじんだ。ばれたと思った。体から力が抜ける。恥ずかしさと罪悪感と自己嫌悪で押し潰されそうだった。指先がぴりぴり痛み、心臓が張り裂けんばかりに動いている。閉じた扉を見て、そこに頭を何度もぶつけたい気分だった。だから自分の頬を平手で激しく叩いた。  痛みが頭を少し冷静にした。下を見ると、性器は萎えていた。高熱にやられたときのように浮遊感を感じながら、下着を履き直す。  父さん。おれがあんたを犯したいと思ってることには、気づいてないのか。  そうであってほしいという思いと、いっそ気づいてくれと思った。父親に自分の思いを打ち明けたいという衝動が、破裂せんばかりに高まっていた。  敬太はしばらく固まったあと、のろのろと服を着こんだ。財布とスマートフォンを上着のポケットに入れ、部屋を出る。ダイニングでは、父親がテレビを見ていた。敬太は背中に声をかけた。 「出掛けてくる」 「ごはんは? もう用意できてるよ」 「外で食べる」  父親が用意してくれた料理を敬太が断るのは滅多にないことだった。敬太は言い訳がましく言った。 「友達に急に誘われたから」 「いいよ。行ってきて。気をつけて」 「うん」  敬太は父親の顔を見ず、部屋から出た。幸太郎は振り向いて、出ていく息子の背中を見ていた。  その夜、敬太はファミレスでハンバーグを食べた。今日の夕飯はなんだったんだろうと思いながら。 ○  家に帰ると、幸太郎はパジャマに着替え、ダイニングテーブルで本を読んでいた。夜十一時を回っている。彼は顔を上げると、敬太に向かって微笑みかけた。 「おかえり。おいしいもの食べたか?」 「うん」  敬太はダイニングの入り口に立ったままでいる。幸太郎は本に視線を向けた。 「父さん、明日も早番だからもう寝るな。館長がいなくて『責任者』になってるから、鍵開けないと」 「わかった」 「敬太はもう寝る?」 「風呂入って、寝る」 「ん。おやすみ」 「おやすみ」  幸太郎は本にしおりを挟むと本を綴じ、手に持ったまま腰をあげた。敬太とすれちがうとき、にこっと笑った。  敬太はすぐに視線を逸らした。  十一時四十分。幸太郎は布団の中で眠りについていた。この家に唯一ある和室で、彼の寝室兼自室だった。壁には背の高い本棚がとりつけられている。その本棚が隙間なく本で埋まっていた。布団の横のランプにはオレンジ色の明かりが灯っている。  ふすまががたがたと動いた。 「父さん?」 「……ん……」  幸太郎は寝返りをうつ。眠りについていても、敬太の声は聞こえた。ふすまに向かって、「なに?」と寝ぼけた声で尋ねる。遠いこだまのように声が返ってきた。 「いっしょに寝ていい?」 「いいよ」  そう言って、幸太郎は端にずれる。ふすまが空いて、スウェット上下に身を包んだ敬太が顔を覗かせた。その顔は強張っていたが、幸太郎はほとんど目が開いておらず、気がつかなかった。布団に顔を押しつけたまま、「ん」とさらに横にずれる。  敬太は黙って布団の中に入ってきて、毛布をかぶった。二人はほとんどくっつかんばかりだった。布団の中は幸太郎の体温であたたかかった。それだけで、敬太の目に涙がにじみそうになる。そして、脚のあいだはますます飢えていった。 「……父さん。話しかけていい?」 「いいよ」  幸太郎は眠い目を擦り、起きていようとした。息子がなにか重要なことを言いたいのだとわかっていた。ただ、それはゲイであることを告白したいのであって、自分に対する恋慕や欲情はあくまで想定外だった。 「はい」  寝返りをうち、天井を向いて、幸太郎は手探りで息子の手を探す。触れたその手を握ると、敬太はおずおずと握り返してきた。 「敬太は昔から、大事な話は父さんの布団の中でしたもんな。部活を辞めること。いじめられてたこと。高校受験。初めての彼女のこと。大学受験も留学のことも、モデルになることも、ダイニングで座って話したから、もうあの癖は抜けたのかと思った」  敬太は強く父親の手を握り返した。 「言いたかったら言って。でも、むりしないで」  そう言って幸太郎が励ますと、敬太はこくりとうなずいた。 「……父さん。おれ、留学してたよな?」 「うん」  天井を向いたまま、柔らかな明かりが灯る闇の中で幸太郎がうなずく。敬太も天井を見ていた。 「父さんは、おれが留学から帰ってきて変わったって前に言ってた。しっかりして、自信が出て、大人の男になったって」 「うん」 「あのときは外国で一人暮らしをしたからだって答えた。確かにそれもある。でも……ほんとは、おれ、あのとき年上のゲイの男と寝て、自信が持てたんだ」  幸太郎の手の力が緩まる。それに敬太は焦った。しかし、天井を見つめたまま言った。 「おれ、ゲイじゃなくてバイなんだ。父さんも知ってると思うけど、彼女も何人かいた。男を好きになることは、留学していたときにやっと少し受け入れられた」 「……きっと、今まで苦しかったな」  敬太は黙った。しかし、手を握る手に励まされてまた話しはじめた。 「おれがバイでも、父さんは許してくれる?」 「許すとか、許さないとかじゃないよ。おれは敬太がそうなら、それでいいと思う」  幸太郎は振り向いた。じっと息子の目を見つめて、その体を抱きしめた。敬太の体がびくっと弾み、強張る。逃げようとする体を掻き抱くように、幸太郎は逞しい腕で抱きしめた。指に、まだ少し湿っている短髪が触れた。さら、と撫でる。 「話してくれてありがとう。なにがあっても、敬太は父さんの大切な息子だ。そのこと、忘れないで。なにがあっても、おれは味方だから」  敬太の喉で音が鳴った。彼は唇を噛んで、「……ん」とうめき声のような声を漏らす。  そのまま、父親を布団の上に組み敷いた。  天地が逆転して、幸太郎は目を見開く。なにが起こったかわからなかった。しかし、見上げると目の前には敬太の顔がある。きれいな顔が爆発寸前のように強張っていた。 「父さん、あんた、わかってないだろ」  敬太は父を睨みつけていた。 「おれがどんなに父さんのことが好きか。わかってないだろ」 「……え?」 「ほんとは、ずっと欲情してた。父さんを自分のものにしたい、ずっとセックスしたいって思ってた。知らなかっただろ」  幸太郎は目の前の顔を見上げた。敬太の顔には獰猛な、けだもののような影が躍っていた。幸太郎は怖くなった。目の前の息子が知らない男のように思えた。思わず手足を縮めた。  敬太は父親の前髪を掻き上げた。幸太郎は動かず、息子の顔を見ていた。敬太の手が幸太郎の髪をくしけずる。その手つきは愛おしそうだった。  敬太の手は震えていた。父親の目の底を見つめ、唇を噛み、壊れたロボットのように起きあがった。布団に尻もちをつく。幸太郎は布団の上に仰向けになったまま、視線だけで敬太の顔を見ていた。 「……ごめん。レイプはしたくない。父さんのこと、傷つけたくないんだ」  敬太は両手で顔を覆った。ごしごしと擦った。 「ごめん。気持ち悪いよな。ごめんなさい。おれ、もう、家、出ていきます」 「行かないで」  幸太郎の手が敬太の肩をつかむ。敬太は両手に顔を埋めたまま固まった。幸太郎がささやいた。 「行かないで、敬太」 「で……も……」 「たしかにびっくりしたけど、大丈夫」  幸太郎は肩を握る手に力をこめた。うつむいてしばらく黙ったあと、顔を上げて笑う。 「大丈夫。出ていく必要はない」 「で、も……っ、おれ、こんななのに……っ」  幸太郎は息子の手首をつかんだ。敬太の手首は垂れた涙で濡れていた。 「出ていかないでくれ」  幸太郎は息子の肩に顔を寄せ、ささやいた。 「おれ、花ちゃんとおまえが出て行ってから、もう二度とこんな思いはしたくないって思ってた。だから二度と結婚はしないと決めたんだ。そのあと、敬太は戻ってきてくれたね。でもそれからあと、おまえがなんらかの事情でまた出ていくことがあると思ったら、おれは怖くて。出ていかないでくれ」 「だって、おれ……」  敬太は両手を下ろした。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。彼は鼻水をすすって、涙は垂れ流しにしたまま父親の顔を見た。 「おれ、こんな、クソみたいなことしか考えてないのに……っ」 「いいんだよ、敬太」 「父さんを襲っちゃうかもしれないのに……」 「襲われたくはないけど」  そう言って、幸太郎は罪滅ぼしをするように笑った。 「言ったよな? なにがあっても、敬太はおれの大切な息子だって」  その言葉、ほんとに言えるかわからせてやろうか。敬太の体の底に黒い炎が噴きあがった。しかし、彼はそれを抑えた。血の涙を流しながら殺した。 「ありがとう、父さん」  そう言って、涙を拭く。幸太郎は枕元のティッシュぺ―パーの箱から二枚引き抜いて、敬太に渡した。敬太は黙って鼻をかんだ。 「ごめん。嫌いになった?」 「ならないよ。びっくりしただけ」  気持ち悪いと思っただろ? 執拗に訊きたい気持ちを抑え、敬太はもう一度「ごめん」と言った。 「おれ、部屋で寝る。邪魔してごめん」 「いいよ。なあ、敬太。これからも、今までみたいにいられるかな?」 「……今までみたいに、って?」 「同じ家に住んで、いっしょにご飯食べて。たまにはいっしょに映画観て、くだらない話して。敬太の学校の話や仕事の話を聞いて。そんなふうにいられるかな?」 「いられるよ」  敬太はくぐもった声で答えた。 「明日からも、同じだよ。ごめん、父さん。おやすみ」 「ああ、おやすみ」  敬太は静かに部屋から出ていった。  閉まったふすまを見て、今さらながら幸太郎の体は震えはじめた。息子のけだもののような顔を思い出すと、その飢えた目を思うと、怖くなる。気持ち悪いというよりは、怖かった。他人からあんな目で見られたことなどなかった。  ただ、そのあと何度も謝っている様子や、冷静になった姿を見て、たぶん大丈夫だろうと思った。  おれのほうが逞しいし、本当になにかされそうになれば、おれから距離をとればいいんだ。  息子がむりやりなにかすると思うのは嫌だった。幸太郎にとって、敬太はやさしくてしっかりした息子だった。自慢の息子だった。  幸太郎は布団をかぶった。またふすまが開くのではないかと思い、しばらく眠れなかった。風の音にも神経質になった。けれどもいつのまにか眠っていて、気がつけば朝の六時だった。   ○  昨夜の嵐も過ぎ去り、春の日差しがキッチンの小窓から射しこんでいる。葱を切りながら、幸太郎はぼんやりしていた。  背後に物音がする。さっと振り向くと、敬太が目を擦りながらあくびをしていた。父親の顔を見ると笑った。 「おはよ」 「……ん。おはよ。玉子焼きできてるよ」  敬太はのっそりとダイニングテーブルにつく。 「今日は早いね」  幸太郎が味噌汁に葱を散らしながら声をかけると、敬太は「ん」と言った。 「よく眠れたか?」  父に尋ねられ、敬太はまた「ん」と答えた。 「父さんは?」 「おれもよく寝た。雨やんでよかったな」 「今日、帰るの遅くなる。撮影で」 「わかってる。ごはんはいる?」 「いる。八宝菜食べたい」 「了解」  幸太郎は味噌汁のお椀を手に振り向くと、手に持ったそれを敬太の前に置いた。 「いっぱい食べろよ」 「今、食ってる」 「敬太はもりもり食べるから、父さん好き」  敬太は視線をちらっと上げて父の目を見ると、また視線を皿に戻した。 「ありがとう」 「ん。でも、ゆっくり食えよ」 「わかってるよ。いいかげん子離れして」 「わかった」  幸太郎も箸に手をかける。味噌汁をゆっくり飲んだ。少し出汁が薄かったようだ。いつのまにか敬太が彼のほうを見ていた。 「味噌汁、うまいよ」 「ありがと」  二人は黙って味噌汁をすすった。  その日、学校と撮影に出かけた敬太は、その途中で不動産屋に寄った。表の看板に出ていた物件をチェックし、話を聞く。  しかし、契約はしなかった。彼は一日を終え、また父親の元に帰ってくる。  二人の関係が動くのは、まだ少し先の話だ。

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