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変わらないと言ってくれ・一
敬太が父親の幸太郎に思いを告げてから、一週間が経った。
二人は一見、敬太が思いを告げる前と変わらなかった。幸太郎は毎日息子のために料理を作り、敬太はそれをおいしいと言って食べた。食後はダイニングでいっしょにテレビを観たり、他愛ない話をしたりする。
そうだ、なにも変わっていないんだ。幸太郎は毎朝敬太のために作ったお弁当を詰めながら、そう自分に言い聞かせる。敬太は意地っ張りで、照れ屋で、よく食べ、笑顔を見せ、さりげなくおれのことを気遣ってくれる。
敬太はなにもかもが変わってしまったと思っていた。父親と話をした次の瞬間にはその表情をうかがい、そこに嫌悪や軽蔑がないか執拗に確認した。
幸太郎は敬太の頭を撫でるのをやめた。
それでも二人は一つ屋根の下で、父と息子として暮らしていた。
◯
四月も半ばに差し掛かったある日の夜七時過ぎ、敬太が犬飼家に客を連れてきた。
ちょうどそのとき、幸太郎はキッチンでキュウリのピクルスを漬けていた。保存用にとジャムの空き容器を鍋で煮沸消毒していたとき、扉が開いて、敬太が顔を覗かせた。
「父さん、ただいま」
「ん、おかえり」
今日は撮影はないけど、事務所寄ってくるって言ってたな。そんなことを思いだしながら幸太郎は火を止めて振り向き、目を丸くした。
「お客さん?」
「うん」
敬太が横によけると、彼よりは背が低い(それでも一八〇センチはある)青年がこちらを見ていた。染めた長めの金髪、緑のカラーコンタクト、少々色黒の肌と、どことなくチャラい雰囲気である。スタイルがよく、なぜか黒いスーツに黒いネクタイを結んでいた。とてもいいにおいがする。
「お葬式帰り?」
幸太郎が思わず言うと、青年はにっと笑った。
「法事帰りです」
意外と低音の声だ。幸太郎はまじまじとこの青年を見た。
「きみ、見たことあるよ。雑誌に載ってた。モデルさん?」
「敬のモデル仲間です」
「綾辻由鷹 っていうんだ」
敬太が紹介すると、由鷹はまたにっと笑った。
「よろしくお願いします、おとーさん」
「うん、よろしく」
その間、敬太はバッグから取り出したペットボトルの麦茶を飲んでいたが、蓋を閉めるとこう言った。
「父さん、車貸してくれないか?」
「車? どこか行くのか?」
「人身事故で電車が止まってて、タカが帰れないっていうから送っていこうと思って」
「そっか。いいよ。あ、でも」
幸太郎は振り向いて、由鷹のほうを見た。由鷹はどことなく狼のような風貌である。チャラい見た目とは違って、なかなかいい子なんじゃないかな、と幸太郎は直感する。
「タカ君、もしよかったらうちでご飯食べていかないか? でも、おうちの人が用意してくれてるなら、遠慮なく断ってね」
「えっ、いいんですか?」
由鷹の目がきらきらと輝いた。
「おれ、一人暮らしなんです! めちゃんこ嬉しいです! 敬がおとーさんの料理めちゃんこ自慢してたからうらやましくて!」
幸太郎がちらっと息子のほうを見ると、敬太は赤くなって凛々しい眉を吊り上げていた。
「めちゃんこめちゃんこうるさいな」
怒ったように言うのが照れ隠しだとわかり、幸太郎はくすっと笑う。
「ありがとう、敬太」
そう言うと、敬太は明らかにむすっとした。由鷹の前に仁王立ちになる。
「おれは、自慢してない。ただ、弁当は父さんが作ってくれてるって言っただけだ」
「おれの好きなものばっか入ってる、って言ってただろ」
「あれは感想だ。自慢じゃない。父さんもなにニヤニヤしてるんだよ」
「いや、可愛いなあと思って」
「やめろよ、親バカは」
「敬は可愛いですよねー、おとーさん!」
由鷹が振ると、幸太郎はにこにこ笑った。
「うん、可愛い。タカ君は見る目あるねえ」
「意気投合するなよ二人とも!」
いいじゃん~と唇を尖らせる由鷹に対しムキになる敬太を見て、幸太郎は微笑ましく思った。そして、やっぱりなにも変わっていないと思った。
敬太はちらりと父親の顔を見た。柔らかい笑顔だ。お気に入りのブルーのエプロンを身につけ、シャツの袖をまくり、逞しい二の腕を剥き出しにしている。
その無防備な笑顔に、むらむらと欲情が掻き立てられる。この男をめちゃくちゃにしたい。床に押し倒して、その体をまさぐりたい。
由鷹がじっと敬太を見ていた。敬太はその視線に気がついて我に返った。魔力が解けたようだ。
おれは今なにを考えていた? 自分のことが怖くなった。同時に感じる、自分が汚らわしいという感情。それに嬲られそうになり、敬太はふるふると頭を左右に振った。幸太郎が驚いた顔をする。
「……大丈夫。ちょっと、立ちくらみ」
敬太が笑ってみせると、幸太郎は心配そうに、「疲れてるんじゃないか?」と尋ねた。
心配してもらったことがうれしくて、敬太の心が底のほうからあたたかくなる。同時に感じる、脚のあいだの疼き。その場所に陣取るものの存在感に、自分のすべてが支配されてしまったかんじだった。
敬太はまた頭を振り、由鷹のほうを振り向いた。
「タカ、食ってくか?」
「おー。めちゃんこ嬉しいな。いただきます」
「今日はロールキャベツとシーザーサラダ、コーンスープだからね。タカ君の口に合うといいんだけど」
「すげえ……レストランじゃん……マジ好物です」
尻尾を振っている由鷹を見て、敬太はかすかなため息をついた。同い年で、出会ったのは去年だが、由鷹は敬太にとってまるで幼なじみのようだった。ただ、人懐こいがトリッキーな性格で翻弄される。人がいいのはわかっているし敬太も彼のことが好きなのだが、少々いじってくるのだ。しかし、父親は彼のことを受け入れ仲良くなったようだ。由鷹は幸太郎に手伝えることがないか訊いた。幸太郎は「座ってゆっくりしててね」と言って、グラスに敬太と由鷹の分のほうじ茶を注いだ。
「タカ君、座って。敬太も。ピクルス詰めたらご飯にするから、ちょっと待っててね」
「急がなくて大丈夫です、おとーさん。敬太も座れよ」
先に由鷹がダイニングテーブルの椅子に座っていた。そこおれの席なんだが、と思いながら敬太は向かいの幸太郎の椅子に座る。幸太郎はグラスを二人の前に置いた。
「タカ君、雑誌によく出てるしテレビにも出てたよね。すごいね」
シンクの前に戻ってピクルスを詰めながら感心したように言う幸太郎に、由鷹は笑った。
「ありがとうございます。モデル歴五年です」
「敬太もいつかテレビ出られるかなあ?」
敬太はむすっとしていたが、それを顔に出さないように頑張っていた。由鷹に子どもだと思われたくないのだ。ただ、幸太郎に向かって言った口調はすねた子どもっぽかった。
「やめてくれ、父さん。三者面談みたいだろ」
「敬君はかわいーねえ」
由鷹はニヤついている。敬太は眉を吊り上げた。
「おれは、テレビには出たくない。そういうのは苦手なんだ」
「なにが違うんだ?」
まじまじと見てくる由鷹を、敬太は軽く睨んだ。
「モデルはただの被写体だ。撮られたり、見られたりするだけ。でもテレビは内面が出るだろう。そういうの、探られたくない」
「敬太は秘密主義者だからなあ」
ロールキャベツの入った鍋を火にかけながら幸太郎がなにげなくつぶやくと、敬太は目を伏せた。
「嫌なんだよ。見知らぬだれかに過度な興味を抱かれたり、消費されたりするのは」
「モデルやってる時点でそれはむりだよ」
由鷹はそう言って、上着のポケットを探った。幸太郎がそれを見て声をかける。
「煙草?」
由鷹はにっと笑った。
「さすがおとーさん。吸っていいっすか?」
「いいよ。ただうち灰皿ないから、代わりのもの探すね」
「大丈夫です、携帯灰皿あるんで」
そう言って、由鷹は煙草の箱とライターを取り出した。そのとき、幸太郎は由鷹の手の甲の小指側に、歯を剥き出しにした狼のタトゥーが入っているのを見つけた。
敬太は友人が一服する姿を見ていたが、ぽつりと言った。
「とにかく、モデルだけど、芸能界に深入りする気はない。将来は、そっちじゃないほうに進もうと思ってるし」
「え、敬太、なにになりたいんだ?」
幸太郎が尋ねると、敬太は父のほうを向いた。真剣な顔で言った。
「英語教師。いま、教員免許とれるように授業組んでる」
「そうだったのか」
その話は聞いてないぞ、と思いながら、幸太郎はそれでも言った。
「大変だろ? 撮影もあるし……」
心配そうな顔になる幸太郎に、敬太の顔は自然に緩んだ。大丈夫だよ、と返す。由鷹はじっと敬太の顔を見ていたが、「じゃあ」と紫煙を吐きながら口を開いた。
「東京へ行く話は、なしか」
「東京……って?」
幸太郎の顔が曇る。
「敬太、東京へ行っちゃうのか?」
敬太は慌てて由鷹を睨んだ。なぜ言うんだと怒りが込みあげる。同時に、うれしい気持ちにもなる。父親が寂しそうだからだ。父さん、おれに本当に出ていってほしくないんだな、と安堵に満たされた。敬太は父のほうを見て、「行かないよ」とはっきり行った。
「たしかに、社長はそういう話をしてけど、おれは断ったから。……父さんを一人にするわけにはいかないし」
最後の言葉は、かなりの勇気を出してつけ加えた。幸太郎の顔がさらに曇り、敬太は焦る。そして悲しくなった。言わなきゃよかったと思った。
しかし、幸太郎が顔を曇らせた理由は別にあった。
「敬太。もしかして、敬太にとって、父さんは足かせになってるのか?」
「え?」
「敬太の夢を邪魔してるんじゃないか?」
「違うよ」
父親の思いに思わず目がうるみそうになりながら、敬太は力強く否定した。
「おれは英語教師になりたいんだ。モデルは、そのうち辞める。もともと、はじめたのはいろんな経験がしたかったからと、おれにもできることがあればそれをしたいって思ったから。でも、やってみてわかった。ああいう世界はおれには向かない。おれは出ていかないよ。それに、父さんはおれの邪魔をしてなんかいない」
「敬太……」
幸太郎の目が少しだけうるむ。これまで育ててきたいろんな思い出が胸に去来したのだ。息子は本当に大きくなったと思う。いろんなことを自分の力で考えて、実行して、もう立派な大人の男だな、と感慨深かった。妻にも息子の姿を見せてあげたいと思った。
由鷹は二人を眺めながら煙草をふかしていた。
「敬は行かないのか。じゃあ、たまにはおとーさんと東京に遊びにこいよ。案内してあげるから」
「タカは行くって返事してたよな?」
由鷹はにっと笑った。
「東京、行きたいよ。こっちから仕事で向こうに通ってるけど、それも大変だしな。おれも、実力ついてきたし」
「じゃあ、頑張れよ」
敬太がそう言うと、由鷹はニヤニヤと笑った。
「予想通り、おとーさんっ子なんだな、敬は」
「うるさいな」
反抗はするが否定はせず、敬太はそれだけ言うと腰を上げた。「どこ行くんだ?」と尋ねる由鷹に、トイレだよと答える。敬太が部屋から出ていくと、幸太郎は由鷹に言った。
「親はおれしかいなくてね。敬太と友達になってくれてありがとう」
「おれのほうこそ。敬はいいやつです。モデルとしてもかっこいいし。キャーキャー言われてますよ。彼女いないんすかね」
幸太郎のまぶたがかすかに引き攣った。
――ほんとは、ずっと欲情してた。
あの夜のことが甦る。獰猛な息子の顔、露骨な言葉、怒りをぶつけるような目。
「彼女は、いないんじゃないかな」
そう言ってロールキャベツを皿によそうと、由鷹は「意外」と言った。
「敬太とつきあいたい女の子はいっぱいいて選び放題なのに。うらやましいです」
幸太郎は笑った。敬太がトイレから戻ってきた。由鷹が携帯灰皿の中に入を落とし、言った。
「敬、彼女いないのな」
「うるさいな」
そう言って、敬太は父親を見る。幸太郎はそっと目を逸らした。
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