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変わらないと言ってくれ・二

 三人は和気あいあいと夕食を食べた。由鷹はロールキャベツが絶品だと幸太郎を褒めたたえ、幸太郎は彼に一人暮らしでも簡単にできるおかずを伝授した。由鷹はスマートフォンのメモ機能を使ってレシピをメモした。敬太は熱いほうじ茶を飲みながらぼーっとしていた。  食事が終わると、敬太と由鷹は車に乗りこみ、同じ市内にある由鷹の自宅を目指した。  敬太が運転し、由鷹は助手席に座った。二人のあいだで、オレンジのクマの形をしたエアフレッシュナ―が揺れている。カーナビの選んだ道がえらく狭い道で、敬太は対向車が来ないかとはらはらしていた。  さっきまで馬鹿話をしていた由鷹が突然言った。 「敬って、おとーさんのこと大好きだな」  ハンドルを握る敬太の手がかすかに引き攣る。前を向いたまま答えた。 「そりゃあ、好きだよ」 「めちゃんこ好きだな」 「……まあな」 「やっぱ、二人暮らしが長いから?」 「たぶんな」 「ふうん。どんな感じで好き?」  敬太は右目を擦った。動悸が激しくなっていく。同時に、怒りを覚えた。それは恐怖が形を変えたものだった。 「どんな感じって? 別に、ふつーに好きだけど」 「意外と甘えたなんだな」 「黙ってろ。あと、いつおれが甘えた?」 「おとーさんが再婚するのは嫌か?」 「あの人は再婚なんかしない。さっきからなんなんだ?」 「いや」  由鷹は振り向いてにっと笑った。 「敬っておとーさんのこと、めちゃんこ好きだなって思っただけ」 「好きだよ」  前を向き、ハンドルを切りながら敬太はつぶやいた。 「たった一人の父さんだからな」  おれだけの父さんだからな。その言葉を飲みこみ、「着いたぞ」と声をかける。由鷹は敬太の頬にキスしてきた。 「ありがとう、敬! 助かった」  敬太は由鷹の抱擁を振り払った。「早く降りろ」と冷たく言う。 「おとーさんによろしくな。おやすみ」  由鷹は手を振って、明かりのついているアパートの玄関へと消えていった。  敬太はしばらく車の中でじっとしていた。あいつはなんと思っただろうと、静まり返っているアパートの玄関を見つめる。気づいたのか、気づいていないのか。それはわからなかったが、もうあいつを家にあげないようにしようと思った。  敬太は父親との、今までの関係を死守したかった。壊れることなど望んでいない。幸太郎が思いに応えてくれるのではという希望を抱くことは、まったくなかった。  九時近くになって自宅に引き返すと、幸太郎の姿はダイニングにはなかった。バスルームの扉をノックしてみるが、返事はない。家中を探してまわったあと、敬太は父親の寝室に向かった。ふすまを軽くノックする。返事が返ってきた。 「敬太? おかえり」  父親の声はくぐもっていた。 「ただいま。寝てるの?」 「父さん、頭痛くなっちゃって」 「風邪?」  声に籠った心配が伝わったらしい。ふすまの向こうから、「大丈夫」という声がいたわるように聞こえてきた。 「もう寝るから、明日には治ってると思う。明日、遅番だから少しはゆっくりできるよ。敬太は?」 「おれは一限から。でも、朝飯は気にしないで。適当に食べてく」 「ごめん。治ってたら作るからね」 「むりするなよ。……じゃあ、おやすみ父さん」 「おやすみ」  ふすまの向こうは静かになった。  敬太は背を向け、しかししばらく足が動かなかった。  この向こうに父さんがいる。襲ってしまいたい。そう思ったというよりも、刻みつけられるように、「今なら」という言葉が体の奥底から浮きあがってきた。父さんの厚い胸に顔を埋めたい、その胸を揉みしだきたい、乳首を責めて、そして性器を、後ろを責め抜きたい。  体がかっと熱くなる。敬太は振り向いた。ふすまを睨みつける。その向こうはしんとしている。  敬太は自分の頬を思い切り叩いた。痛みがじんじんと響いて、淫らな欲情が少し静まる。  敬太は階段を降りて、ダイニングに戻った。 ○  その二日後、休日を満喫して街に出ていた幸太郎は、思わぬところで由鷹に再会した。  由鷹はバッグを売っている店で、店先に吊るされたリュックを物色していた。幸太郎は彼のそばに寄っていった。 「タカ君」と声をかける。由鷹はすぐに気づき、白い歯を見せてにかっと笑った。 「おとーさん。こんにちは」 「お出かけ?」 「はい。ねーちゃんと」 「ねーちゃん?」  幸太郎がきょろきょろとあたりを見回すと、店の中から女が出てきた。彼女の姿を見たとたん、幸太郎の心は惹きつけられた。  彼女は敬太の友人、浅田優樹菜のようなスタンダードな美人ではなかった。癖が強い。それなのに、どこか強く惹きつけられる魅力を発散している。大きな目が色っぽく、我が強そうな口元には品があった。 「呼んだ?」と少しハスキーな声で、彼女は弟に向かって言った。由鷹が紹介する。 「おとーさん、おれのねーちゃんの春花(はるか)です。ねーちゃん、この人、敬のおとーさん」 「敬君の? 初めまして。弟がお世話になっています」  春花は柔らかく微笑んだ。彼女が笑うと光が舞って見える。そのときの幸太郎はそう感じた。ぺこりと頭を下げる。 「こちらこそ、息子がお世話になってます」 「敬君、いい子ですよね。わたしたち大好きなんです」  そう言って笑う春香を見て、幸太郎の顔は固まっていた。あまりに自分の好みすぎる顔立ちで、どうしていいかわからなかった。 「じゃあ、おとーさん。敬によろしく伝えてください」  そう言って手を振る由鷹に我に返り、幸太郎はうなずいた。 「またいつでも遊びに来てね。……その、お姉さんも」  そう言うと、春花は「ありがとうございます」と穏やかに答えた。由鷹が割って入る。 「おとーさん、ねーちゃんにいい男性がいたら紹介してください」 「タカっ」  春花が力いっぱい弟の背中を叩く。由鷹は背中を反らせたがすぐに元に戻った。 「だって、ねーちゃんもうすぐ三十になっちゃうじゃないか」 「わたしはいいの。結婚なんてめんどくさいだけなんだから」 「ねーちゃんは婚約者と婚約解消しちゃって、やさぐれてるんです」 「うるさいなあ。タカこそ早く彼女見つけなさいよ」  春花は幸太郎に向きなおり、ごめんなさい、と謝った。その困ったような顔が幸太郎の胸に突き刺さる。ひどく色っぽいのだ。 「弟が変なこと言って。忘れてください」  うん、とうなずき、幸太郎は手を振った。 「またね、タカくん、春花さん」  春花はぺこりと頭を下げ、由鷹は手を振った。  帰り道、幸太郎の頭を占めていたのはさっきの春花の、困ったような表情だった。 ○  帰宅してしばらくして、敬太が大学から帰ってきた。ぼんやりとダイニングの椅子に座ってカルピスを飲んでいた幸太郎は、息子の顔を見て慌てた。 「おかえり、敬太。カルピス飲むか?」 「ん。ありがと」  敬太は荷物を持って自室にあがった。戻ってみると、テーブルの上にはカルピスが入ったグラスが置かれており、父親はまた自分の席に腰を下ろしていた。敬太も向かいの、自分の席に腰を下ろす。パーカーのポケットからスマートフォンを取りだしてSNSをチェックしていると、幸太郎が言った。 「今日、タカ君に会ったよ」  敬太は顔を上げる。 「どこで?」 「鞄屋さん。敬太によろしくって」 「わかった。あさって撮影で会うよ」  そう言ってスマートフォンに視線を落とした敬太のつむじを見て、幸太郎はカルピスを一口飲んだ。もうぬるくなっている。ぽつりとつぶやいた。 「お姉さんにも会った。春花さん、きれいだな」  ぎし、と敬太の胸で心臓が壊れかけた床のように軋む。うつむいたまま、「……へえ」と言った。声が喉で詰まった。  そのまま、沈黙が流れた。  敬太は顔を上げた。その顔を見て、幸太郎は言葉に詰まった。敬太の顔はなんの表情も浮かんでいなかった。それがむりしているからだとすぐにわかった。 「たしかに春花さん、きれいだよな」  敬太がつぶやいた。 「半年くらい前に、婚約破棄したんだって。いいんじゃないか?」 「いいって、なにが?」 「父さんの相手に」  幸太郎は黙った。言わなきゃよかったと思った。敬太の気持ちは知ってるはずなのに。でも、もう遅い。  必死に我慢している敬太を見ていると、幸太郎はいじらしかった。 「春花さんはそんなことこれっぽちも思ってないし、おれもただきれいだなって思っただけだから」  そう言うと、敬太の顔にかすかな変化が現れた。目を細め、「ほんとに?」と言う。幸太郎はうなずいた。 「うん。それだけ」 「……おれ、父さんの足かせになってない?」  幸太郎はどきっとする。自分が言ったことをそのまま繰り返されて、なぜかごめんと思った。明るく言った。 「なってない。父さんは父さんの好きなようにしてるよ」 「再婚するのが父さんの幸せなら、してほしい。春花さんとじゃなくても、別の人とでも」  そう言いながら、敬太は喉に血が込みあげるようだった。大人の男に見られたくて、せいいっぱい格好つけたい気持ちと、父の胸で思いっきり甘えたい衝動の板挟みで、苦しかった。本当は抱きしめてほしかった。十四歳の、再会したときのように。  敬太は泣きだしそうな自分に気がついた。しかし、泣くものかと歯を食いしばる。いちばん戻りたくない、十四歳のころに戻ってしまいそうだった。  父親の顔を見つめ、思いだすんだ、と自分に言い聞かせる。留学先で、年上の男と寝たときのこと。あのときのことを思いだすと、自分が前より強くなった気がした。あのときを境に、自分は変ったのだと思った。 「敬太」幸太郎がぽつりと言った。 「むりしてるのか?」  敬太は目を伏せる。涙はなんとか目のふちで、流れることなく止まっていた。 「ごめんな、敬太。父さん、おまえの気持ちを聞いてるのに」 「……いいよ。おれが間違ってるってわかってる」  幸太郎はためらったが、椅子から立ちあがり、息子のそばに歩み寄った。敬太はうつむいたまま固まっていた。  幸太郎はそっと息子を抱きしめた。 「敬太はおれの大事な息子だ。おまえの気持ちには応えられないけど、大事に思ってるからな」 「……わかってるよ、父さん」  敬太は父の胸に顔を押しつけて、くぐもった声でつぶやいた。涙があふれた。おれはなにも変わっていなかったと思った。悔しく、そして、父の胸の逞しさに心が安らいだ。  しかし、すぐに股間が硬くなる。敬太は幸太郎の胸を手で押しのけ、戸惑っている彼に向かって、涙の跡が一筋ついたまま言った。 「父さん、おれ、勃っちゃったよ」  幸太郎は無言になる。その顔に浮かんだ恐怖に、敬太はすぐに気がついた。腰を上げ、父の目を覗きこみ、言った。 「部屋で処理してくる。父さんは、気にしないでね」  幸太郎はこくっとうなずいた。 「敬太、ごめんな」  謝られると惨めになる。敬太の胸に黒い炎が渦巻いたが、彼はそれを抑え、むりに笑った。 「気にしないで。おれが悪いんです。おれこそごめんね」  椅子から立ちあがり、振り返る。 「父さんと母さんの育て方が悪かったんじゃないかとか、もし思ってるとしたら、そんなことないから」  敬太はそのまま部屋を出た。  幸太郎はその後ろ姿を見ていた。思わず涙が出た。 ○  その二日後、敬太は由鷹に撮影で会ったとき、ぽつりとその話をした。 「父さん、春花さんのこときれいな人だって言ってたよ」  すると由鷹はめずらしく真面目な顔になり、「悪かった」と謝った。敬太は目を丸くする。 「おとーさんに、ねーちゃんの結婚の話振ったけど、おとーさんをたぶらかす……って言い方は悪いけど、そんなつもりなくて。おれは敬とおとーさんが望んでるなら、ずっと二人で暮らせるのがいいことなんだろうなって思ってるんだ」 「なに?」  由鷹はにっと笑った。 「だって敬、おとーさんのこと大好きなんだろ?」  ああ、と敬太はつぶやいた。

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