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第1話

 見つけた――  頭の中で誰かが歌うようにささやいた。  分厚いガラスの向こう側に横たわる痩せた身体の獣。なにか強い力が俺の意識を掴み、目の前の存在へと視線を引きこむ。  病的なほどに青白い光の下で、彼の純白の毛先が透けている。丁寧に整えてやれば、きっと滑らかなベルベットのような光沢が生まれるに違いない。だがそれは想像でしかなく、腹のあたりの毛は薄汚れ、ところどころに血がこびりついている。  血。  腹の内側から唐突にどろりとした冷たい感情が湧き上がってきた。狭く絞られていた視界が徐々に開けていく。 「おい、どうして口輪なんかつけているんだ」  隣に立つ灰谷(はいたに)がびくりと身体を震わせた。慎重に俺のようすを窺っているのが視界の端に見える。口輪だけではない。首輪に鎖まで繋がれている。 「……今は鎮静剤を打って眠っていますが、彼を保護したとき、あんまりにも暴れて手に負えなかったそうです。彼を飼っていたのはマフィアのドンで、検挙される際には相当な騒動になったって聞いていますよ。あ、だから身体に付いているのは彼の血じゃなくて――(さかき)さん?」  首から下げているカードをかざす。軽い電子音とともにランプは緑色に変わり、ドアのロックが解除された。重い扉の向こう側に、もうひとつの扉。施設と、そして保護された彼ら自身を守るために、部屋は堅牢なつくりになっている。  彼は眠っていると言っていたが、それは間違いだ。扉を開いた瞬間、尖った耳がわずかにこちらを向いたのが見えた。呼吸は浅い。部屋の端にベッドがあるにもかかわらず、彼は冷えた床に伏せている。頭の近くまで歩み寄り、俺は膝をついた。湿った鼻先が、口輪の隙間からわずかでも俺の匂いを嗅ぎとろうと、ちいさく膨らむ。  彼はまだ若いようだ。体長は一メートルほどか。成獣だとすれば小柄のほうだろう。痩せてはいるが、不健康なほどではない。豊かな毛におおわれた太い尾は、身体に沿って丸められている。  オオカミ族の純血種――数少ない研究資料に記述されている通りの外見だ。だが、写真や映像に残されていたどのオオカミよりも、彼は……美しい。俺はほかに形容する言葉をもつことができなかった。それに、この匂い。近づくと一層強く立ちのぼる甘い芳香が、理性を溶かそうと脳内に侵入してくる。  繊細な白い顔には、武骨な口輪はあまりにも不似合だった。手を伸ばして留め金を外す。床に置こうと視線を外した瞬間、背中を床に強く打ちつけていた。腕に鋭い痛みが走る。 『榊さん!』  天井のスピーカーから灰谷の焦った声が響いた。 「大丈夫だ。入ってくるな」  部屋の中に設置されたマイクは、正確に俺の声を拾ってくれたのだろう。しんと静まり返った部屋の中で、彼の低いうなり声に俺の荒い呼吸音が重なる。  明るい黄金の瞳が俺を正面から見据えていた。むき出しになった歯はさらに深く押し込められ、俺の腕を捕らえて離さない。下半身は重く押さえつけられている。痛みが肘から肩、頭の中心まで上り、唐突に視界がモノクロに変化した。 「大丈夫だ」  今度は目の前の彼に語りかける。口の中で尖った歯が伸び、唇の端を切った。空調の音がひどくうるさいことに気づく。滴った血の臭いが敏感になった鼻を容赦なく刺す。 「怯えなくていい。わからないか? 俺はお前とだ。同じ、オオカミ族の血縁だ」  何かにひるんだように彼の力が抜けた。二つの瞳が揺らいでいる。俺は慎重に腕を抜き、反対側の手でもう一度彼に触れようとした。だが、彼は俺から素早く身を引き、低い姿勢で高く尾を揺らした。うなることはやめたが、恐れや警戒はぬぐえていない。  生温い血が腕を伝い、指先から床に落ちた。  彼の視線は俺から外れ、丸い血の雫を追っていた。緊張の匂いが、ふっと緩んだのを捉える。彼は鎖を引きずりながらゆっくりと歩き、部屋の隅で身を丸めた。 「灰谷」 『はいっ!』  俺の呼びかけを待っていたのだろう。反射的な応答に思わず苦笑した。肩の力が抜けた途端、腕の傷が鼓動に合わせてじくじくと疼きだす。そっと立ち上がり、ガラスの向こう側にいる灰谷に視線を送る。 「清掃用の消毒液を用意するよう言ってくれ。もう入っても良い。ひと通り検体の採取は済んでいるんだな?」 『ええ。一部結果も出ています』 「わかった。今から見せてくれ」  彼にも俺たちの会話は聴こえているはずだ。どこまで理解できているかは、まだわからない。もう一度だけ彼を振り返ったが、彼は目を閉じたまま動くことはなかった。 「榊さん、なんであんな無茶したんですか」  消毒液をたっぷりと浸した綿を傷口に押し当てられる。感染症にかかるかもしれないとか、きちんと検査を受けろだとか、ぶつぶつと呟かれる小言を無視したせいか、治療が多少手荒なような気がする。 「暴れて手に負えなかったらしいって俺言ったじゃないですか。小柄とはいえ、オオカミですよ……って、あなたはよくわかっていると思いますが」  灰谷は皮肉を言いながらも、「ガーゼは貼らずに乾かしましょう」と言って立ち上がり、救急箱に道具をてきぱきと片づけていく。  なぜあんなことをしたのか。   普通ではなかった。灰谷の言うとおり、無茶なことをした。だが、彼の白い身体に散る血の色を見た瞬間、制御できない感情が俺を支配していた。頭の中に渦巻く「守れ」という言葉。口輪で拘束されているなど論外だった。  デスクの上のモニターには、彼がいる部屋が映し出されている。 「検査の結果ですが……」  俺の視線に気づいた灰谷は、資料を手にとって切り出した。 「血液検査から。感染症には罹患していません。白血球の値が少し高めですが、まぁストレスのせいでしょう。その他の値はすべて標準範囲内。良かったですね、噛まれて何か感染したら大事ですよ?」  灰谷はすでにこの結果を知っていたから、俺が噛まれたときも冷静に対処できたのだろう。それでもちくりと言わずにはいられないようだ。 「続いて遺伝子検査。これはまだ詳細は出ていませんが、オオカミ族の純血種であることは間違いありません。それから性別は――」 「雄の、オメガだ」    ほう、と灰谷が意味ありげな声を立てた。デスクの端に腰かける男を見上げると、資料をひらひらと揺らしながら笑っていた。 「アルファだからわかる、ってやつですか?」 「……ああ」  雌雄の性とは異なり、獣人がもっていた――いまや獣人ではない者など存在しないはずだが――アルファ、ベータ、オメガの三性は見た目ではわからない。成熟したアルファやオメガだけが、お互いの性を匂いで嗅ぎ分けることができる。  あの甘ったるく脳髄まで侵蝕していく匂いを思い出すだけで、再び視界がちらちらと色を失いかける。発情期でもないオメガが、あれほど強く芳香を放つことがあるのだろうか。 「生きた純血種のオメガを保護できるなんて、相当運がいいですよ。幸い、オオカミ族の純血種はうちにも凍結精子があります。生殖機能に問題がなければ、卵細胞を採取して試験を――さ、榊さん?」  灰谷がぎょっとした顔で俺を見つめる。ようやく、無意識に牙をむき出しにしていたことに気づいた。「悪い」とつぶやく俺を無遠慮にじっと眺め、出し抜けに「ああ!」と声を立てた。 「まさかオオカミ同士、<運命のつがい>ってヤツじゃないですよね?」  猫のような大きな目をからかうように細めて、灰谷は資料をデスクに放り投げた。広がった資料の一番上に「オメガ」という文字を見つける。  オメガ。雌雄に関係なく、発情期の生殖行為により子を成すことができる存在。 「えっと……まさか、本当に?」  灰谷の動揺したような声に、俺は首を横に振って応えた。 「そんな非科学的なものは存在しない」  傷口が乾いたことを確認し、立ち上がって扉へ向かう。ふと振り返ると、灰谷が呆気にとられたようすで俺を見ていた。 「手当、助かった。ありがとう」 「ちょ、ちょっと、どこに行くんですか!」  物事にはすべて因果がある。運命など、科学者は決して口にしてはいけない。  廊下を出て、まっすぐに突き進む。その先に、あのオメガがいる。

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