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第2話

 背の高いコンクリート塀の隙間に据えられた、ちいさな門を通りぬける。今の季節なら満開の桜が来た者を賑やかに出迎えてくれる。緩やかにカーブした並木道は、一足早く散った花びらで薄く覆われていた。桜のトンネルの向こう側に、陽光を反射するガラス張りの建物が居丈高にたたずんでいる。  生命機能科学研究所はその名のとおり、国内で最先端かつ最大規模の生命科学研究を行う機関だ。他の国立研究所と同じく、人がひしめく都心からは離れた郊外にある。建屋は周囲と比べて低いつくりになっているが、広大な土地を横に広く使うことができるため、分野ごとに棟が分かれ、それぞれで実験棟も複数所有していた。  職員用の入口から入ると、棟と棟の間にある中庭を眺めながら居室へと向かうことになる。芝生の上に張り出したウッドデッキには丸テーブルが三つと椅子が置かれ、鯉が泳ぐ人工池まで添えられていた。殺伐となりがちな研究所の中の、ちいさなオアシスだ。天気の良い昼休みには、女性スタッフが弁当を持ち寄っておしゃべりに興じている。  エレベーターを降り、「形態進化研究室」と書かれたプレートを横目に廊下を直進する。  かつてこの世界で<人間>と呼ばれていたのは、男女の二性のみをもち、獣の形態をもたない生き物だった。一方、人間から獣へと変化可能な遺伝子をもつ<獣人>も存在し、彼らは男女に加えてアルファ、ベータ、オメガの三つの性の特徴を併せもっていた。  完全に棲み分けられていたはずの社会構造が崩れたのは、人間の側の極端な人口減少がきっかけだったと言われている。危機感を覚えた指導者たちは、同じ時期に下層で密かに生まれ始めていた<人間と獣人との間にできた子ども>に目をつけた。彼らは人間とは異なり、男女に関係なく子を成すことのできる性を持っていたのだ。  生殖機能の多様化だけでなく、獣人の子どもたちはそれぞれの種族の特長を備えていた。高い身体能力はもちろん、群れをなす種族からは統率力に優れた者が生まれ、その多くはアルファ性であることがわかった。  人間側が獣人との交配を早期に受け入れたのは、生まれた子どもが完全に獣化――身体の全てがその種族の祖である獣の形態に変化することがなかったからだろう。ごく稀に、身体の一部を獣化させることができる子どもが生まれることもあるが、一定の年齢までには獣化をコントロールすることができるようになるのが常だった。このような子どもはアルファか、またはオメガに多い。俺もそのうちの一人だ。  何世代もの交配を繰り返し、現代の社会を形成しているのは人間と獣人の<混血種>となった。だが、人間と獣人の交配がなぜうまくいったのか、遺伝子の変質や抗体など、解き明かされていないことはいまだに多い。俺が所属する研究室ではそれを<形態進化>と呼び、日々研究に取り組んでいる。 「あ、榊さん。おはようございます」  灰谷が端末を手にこちらへ向かってくる。音もなく滑らかに歩く姿は、彼に発現したチーターの遺伝子を容易にイメージさせる。 「特に変わったことはないか?」  ちょうどガラス窓の前で立ち止まった。部屋の隅で、白い獣は相変わらず身体を丸めている。 「ええ。とりあえず、榊さんがいなくても食事と水分補給はしてくれるようになりました。もちろん触らせてはもらえませんけど」  灰谷は本当に残念に思っているらしい。生きた状態で完全に獣化した者に触れる機会など、そうあることではないからだ。  そのとき、背後の空気が重く揺れ、ゆっくりと地を踏みしめて近づく存在に気がついた。 「榊」 「おはようございます、蔦川(つたがわ)室長」  大きな体躯から溢れだすエネルギーを隠そうともしない、威厳のある立ち姿だ。無意識に、かかとにぐっと力が入る。迫ってくる上司の圧力から身を引きたくはない。 「彼の状態は」  蔦川は後ろに手を回し、胸をそらしながら中にいるオメガを見遣った。 「……遺伝子検査の結果、劣性遺伝子のホモ化は見られませんでした。近親交配が原因となるような症状は発現していません。おそらく生殖には問題ないでしょう。今のところ健康状態も安定しています」  求めている答えを与えることができたのだろう。蔦川は満足気にうなずいた。 「午後からの定例会議でいくつか提案したい案件がある。忘れずに参加するように」  来るのも突然であれば、去っていくのもあっという間だった。蔦川から放たれた強いアルファの匂いが残っているのは気のせいだろうか。俺は自分でもはっきりとわかるくらいに顔をしかめていた。 「心配っすか?」 「……なにがだ」  灰谷の存在を忘れていたわけではないが、急に声をかけられて一瞬答えに詰まる。 「榊さん、母犬かってくらい甲斐甲斐しく世話してるじゃないですか」 「母犬?」 「いや、たとえですよ! っていうか、榊さんがあまりにも熱心に世話を焼いているって、女性スタッフがみんなやきもきしていてそういう話に……」  両手を胸の前でぱっと広げ、しどろもどろに言い訳をする。あまりにも早い「降参」のポーズに思わず笑みがこぼれた。彼女たちがいったいどんな話をしているのか聞いたことはないが、灰谷は女性たちの集いによく召喚されているから、あることないことを吹き込まれているのかもしれない。 「でも」とふいに灰谷が声を落とす。 「彼は、被験体ですよ。それも、この上なく<価値>がある」  灰谷は笑っていなかった。  普段は軽い調子でいるこの男は、決して頭の中身までが軽いわけではない。むしろ誰よりも緻密に計算するタイプだ。灰谷が忠告めいたことを言う理由はわかっていた。先ほど蔦川が言っていた「案件」とは、明らかにこのオメガに関わる研究のことだ。だが俺は、「大丈夫だ」とあえて視線を絡めて言った。 「とにかく今は、彼とコミュニケーションをとる必要がある。少なくとも言葉は通じているはずだが、獣化したままでは試験を行うことはできない。まずはヒト形態に戻るように説得することだ」 「ヒト形態、ですか。戻りますかね?」  答えを求める問いかけではなかったが、懸念を口にせずにはいられないのだろう。灰谷はうずくまるオメガを見つめ、ちいさくため息をついた。  「手伝えることがあったら言ってください」 「ああ。今でも充分によくやってもらってる」 「あ、じゃあ今日の昼飯奢ってくださいよ」 「おい、調子に乗るな」  灰谷はいつもの調子でにやりと笑う。そのまま「データを分析に回してきます」と言って、軽やかに歩き去った。

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