3 / 8

第3話

「おはよう。起きているだろう? 飯をもってきたから、好きな時に食べてくれ」  ごく薄く風味をつけて柔らかく煮込んだ肉と、水のボトルを手に部屋に入る。返事がないのはわかっていても、こうして声をかけ続けるようにしていた。  保護されて三日目になるが、彼はまだ獣化を解く気はないらしい。食事や排せつのときだけ身体を起こし、あとは部屋の隅に敷かれた毛布の上で、置物のようにじっとしている。これは合理的にも思えた。俺のような混血種であっても、獣化した状態のほうが傷の治りは早く、体力を温存しておける。保護と言いながらも、彼にとっては不自由で不慣れな環境だ。ストレスを感じているに違いない。身体を動かして気を紛らわせることができなければ、あとは眠ることしかできないだろう。  食事を置き、一度部屋を出て湯を張ったバケツを持ってくる。ゆらりと立ち上るおだやかな熱気に、彼はぴくりと反応した。 「身体を拭かないか。いつまでも血がついているのは気持ちが悪いだろう」  いつもならすぐに視線を逸らす彼が、俺の言葉にじっと耳を傾けている。  昨日は初めてまともに彼の身体に触れ、首元に小さなセンサーを貼りつけることに成功した。そのときに、まだ汚れたままの身体がひどく気になったのだ。  催眠薬やガスで眠らせれば、その間に検査や清掃を全て処理することは可能だと提案する研究員もいる。だが、薬の量を誤れば貴重な存在を失う可能性も高いだけでなく、薬を使ったという事実によって、彼の信頼を二度と得ることができなくなることを俺は危惧していた。  袖を捲り上げ、新しく買った大きめのタオルを湯に浸す。彼の視線が、まだ俺のほうに向いているのはわかっているが、あえて視線は合わさない。親しくない間柄で正面から視線を合わせるのは、攻撃や威嚇と捉えられる。  タオルを絞る手が赤くなる。少し熱いくらいが気持ちいいのではないかと思ったが、熱すぎただろうか。一度広げてたたみ、彼の顔の近くに手を伸ばす。こうして匂いで危険がないことを知ってもらう。彼は鼻を二、三度うごめかし、ついと顎を横に逸らした。わかりにくいが、これは許可のサインだ。 「熱かったら言ってくれ。首のあたりから拭いていく」  まずはセンサーの取り付け時に一度触れた場所から始め、ゆっくりと範囲を広げていく。耳の後ろを入念にこすると、彼はわずかに目を細めた。  今こうして直接触れていても、初めてこの部屋に来たときのような強い匂いを感じることはできない。俺はそれを惜しいと思っていることを自覚していた。発情期以外のオメガの匂いにあてられて獣化をコントロールできなくなることなど、思春期以来のことだ。純血種のオメガには、混血種以上にフェロモンを放出する機能が備わっているのか。それとも偶然の出来事だったのか。彼のことは、まだわからないことだらけで純粋に興味があった。ただそれだけだ。 「どうだ、だいぶさっぱりしたんじゃないか」  顔と腹の下の方は手を出せなかったが、表面的にはずいぶんと綺麗になった。最初に思ったとおりだ。整えられた毛並みは美しい艶を放っている。 「じゃあ、また来るから」  最後にもう一度触れようとして、やめた。犬猫ではないのだ。首を振って立ち上がろうとしたとき、彼が音もなく上半身を起こした。 「……どうした?」  膝立ちの俺と、目線の高さが急に近くなった。一瞬、鋭い緊張が背筋に走る。だが予想に反して、彼は俺に向かってわずかにこうべを垂れただけだった。  眩暈が起きたような感覚だった。すぐ目の前に、若い男が裸で座っていた。白とも銀色ともつかない頭髪が、同じくらいに白い肩の上にさらりとかかっている。伏せられた目がゆっくりと正面を向く。明るい黄金の瞳だ。  身体がしびれたように動かない。喉から音を出すことすら叶わなかった。とろけるような濃密な匂いが鼻腔からするりと侵入してくる。  彼は再びまぶたを伏せ、俺の腕を手にとった。捲り上げた袖口からは、彼の牙が描いたまだら模様が見えている。その傷痕をじっと見つめたあと、おもむろに顔を近づけた。  赤い舌が傷の上を這っていた。彼の高めの体温が、湿った感触から伝わってくる。青白いほどの肌から覗く赤色はあまりにも鮮やかで煽情的だった。ぞくぞくと背筋から甘い毒が回っていく。息を詰め、ぶるりと身体を震わせたとき、彼と視線が交差した。 「ご存知かと思いますが」  蔦川のほうに意識を傾けながら、俺は続ける。 「三日前に保護した純血種のオメガが、先ほどヒト形態に戻りました。彼は『シン』と呼ばれていたと言っています。ひとまず、今後はそのように呼ぶことにしましょう。少なくとも基本的な会話を交わすことはできそうです」  ちいさな会議室の中でざわめきが生まれる。蔦川が頷き、ゆっくりと立ち上がった。 「さて、無事にヒト形態に戻ったということで、やっと試験の話を進めることができる」  やや芝居がかった語り口はいつものことだ。聴き手の注意を引きつけるまで、ぐっと間を置く。 「まずは、保管してある純血種と混血種の両方の凍結精子を用いた受精卵の生成が目標だ。そこから遺伝子変質の観測と理論検証を行う。さらにラットで成功している近交退化抑制法を適用する。これがメインの取り組みだ」 「ちょっと待ってください」  話をさえぎらずにはいられなかった。危険性の高い試験を、ラットからいきなりシンに適用するだと? 「シンには遺伝病の兆候もなく、健康状態は極めて良好だ。なにをそれほど急ぐ必要があるんですか」 「急ぐ必要がないと思っているのか?」  蔦川は片眉を上げて俺を制した。 「シンが近親交配によって生まれた存在ではないと言い切ることはできないだろう。これまで保護した純血種はすべて、純血種の違法な売買のために若年かつ非常に近い血縁で繁殖させられた者たちだった。その後彼らはどうなった?」  俺以外の研究員へ問いかけるような素振りを見せる。 「保護した時点で死亡していたか、保護して間もなく死亡したか。そのいずれか、だ」 「ですがその兆候は――」 「明日、シンが生きているという確証はあるのか? 君が純血種の生命についてすべてを理解しているというのなら、信じてやってもいいが」 「それは……」 「あの」  振り返ると、灰谷が椅子から腰を浮かせていた。驚いたことに蔦川は灰谷を叱責することはなく、「なんだ」と苛立ち混じりに言った。灰谷は背筋を伸ばし、資料を手に前に出る。 「シンには、発情期の兆候が見られません」 「それがどうした。まだ保護して三日だ。時期が来ていないというだけだろう」 「あ、いえ……これまでに発情したという形跡がみられないんです」 「なんだと?」 「灰谷、それは本当か」  二人のアルファに詰め寄られるような形になっても、灰谷は肩をすくめるだけだった。 「ええ。保護時点での検査データのみですが、生殖器は充分に成熟していることを確認しています。ですが、発情期を迎えたオメガが匂いを放出するとされるフェロモン腺が、発達していないようなんです。おそらく、まだ卵細胞を採取することは難しいのではないかと。それに――」 「まだなにかあるのか」 「その試験、国の認可は下りているんです?」  背の高い蔦川を、灰谷は顎を引いたまま視線だけで見上げている。ややつり目な灰谷のその仕草は充分に挑発的だ。それでも蔦川は意に介したようすもなく鼻を鳴らす。 「昨日のうちに省庁への根回しは済ませてある」 「まさか」 「それほど喫緊の課題ということだ。かつて<人間>が人口減少と近交退化の悪循環に陥ったことは、混血種となった我々にとっても他人事ではない。我々獣人の種の保存だけでなく食糧問題にも関わっているということは君たちも承知しているだろう」  近い血縁での交配によって、遺伝子に異常が現れる確率は格段に上がる。人口が激減したと同時に、この「近交退化」という現象が表面化するようになった。異常とひとくくりに言っても、その症状はさまざまだ。だが短命であることは、ほぼすべてのケースで共通してる。生殖機能に問題をもつ個体も多い。獣人に限らず、その他の動植物も同じだ。  一方で、蔦川がシンにこだわることには明確な理由がある。裏社会には、純血種の獣人をまるで愛玩動物のように扱い、収集したいという悪趣味な人間が多くはびこっていた。人間と交わることを拒み、ひっそりと暮らしていたはずの純血種を捕獲し、ただでさえ少ない純血種同士で無理矢理交配させる。そのようなことが世間の裏側では平然と行われていたのだ。  そうして生まれた純血種は、運よく保護されたとしても数日で命を落としていた。それでも、ブリーダーやブローカーと呼ばれる繁殖や仲介を行う業者は、今でもしつこく存在しつづけている。つまり見つかっていないだけで、なんらかの理由で近交退化を免れている個体がいると考えられ始めていた。――まさに、シンのように。  そもそも獣人は、人間と交わるまでは、人間よりも圧倒的に小さな集団の中で種を保っていたのだ。獣人の純血種は、生物の救世主となりうる秘密をもっているのかもしれない。そう期待するのは自然な流れだった。  灰谷が指摘したとおり、シンは、この上なく<価値>のある被験体だ。頭では理解している。俺はこの分野の専門家であるという自負もある。 『サカキ』  シンの口から初めて聞いた言葉は、俺の名前だった。灰谷が俺を呼ぶのを聞いていたのだろう。自分がつけた傷を撫で、『悪かった』とつぶやいた。ほとんど拗ねたような言い方だった。繊細さを感じる相貌と、傷を舐める妖艶な姿からは意外に思えるほど幼い少年の仕草だ。  息が苦しくなった。ようやく、彼の姿が見えたような気がした。いまだかつて抱いたことのないような感情がこみあげてくる。もう、本能という言葉を無視することはできなかった。  俺はオオカミのアルファだ。群れを統率し、導く存在。そしてシンは、群れが――俺が、命を懸けて守らなければならない存在だ。

ともだちにシェアしよう!