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第4話

 ドアを開けると、部屋の奥からちいさな鼻歌が聴こえてきた。聴いたことのないメロディーだ。俺が近づいていることに気づいているはずだが、鼻歌が止まる気配はない。  シンはベッドにうつぶせに寝そべり、大きな絵本を広げていた。薄い水色の寝間着を着ている。癖のない髪の隙間からはやわらかそうな耳、下衣からはふくらんだ尻尾が出ていて、どことなく退屈そうにゆらゆらと揺らしている。成熟した身体と、それを取り巻くモノとのアンバランスな状態は、何度目にしても胸の中にちいさな違和感を残していく。 「新しい部屋には慣れたか?」  絵本を閉じて俺を見上げる。「サカキが頼んでくれたの?」  俺はうなずき、ベッドの端に腰かけた。シーツは清潔で、スプリングがよく効いていて座り心地も悪くはない。  シンは一度ヒト形態になって以来、完全な獣化をしていない。時折今のように耳や尻尾だけを出すことがあるが、これは単に楽というだけのようだ。 「逃げたりなんかしないから、もっとマシな部屋にしてよ」  そう切り出したのは、シンのほうだ。確かに、最初にいた部屋は人の姿で過ごすにはあまりにも簡素で、不便だった。俺は空いていた隣の実験棟の部屋を簡単に改装させた。ちょうど水場があった部屋の壁を抜き、1Kのアパート程度の広さに設備を整えたのだ。  部屋の壁に視線をめぐらせる。通常のアパートと異なるのは、前までいた部屋と同様に窓がひとつもないことだ。外部から動植物やウィルスが侵入するのを防ぐためだ、とシンには言っている。嘘ではないが、すべてではない。逃げる気はないというシンの言葉を俺は信じているが、蔦川はそうとは考えていなかった。  シンが仰向けに転がり、ぐっと身体を伸ばした。最近では俺がそばにいるときでも、そんなリラックスした仕草を見せるようになっている。白いシーツに溶け込むように、長めの銀髪が散らばっている。思わず手を伸ばしそうになるのをこらえた。今はやらなければならないことがある。 「シン、聞きたいことがあるんだが」  シンは返事をせずに俺を見た。嫌なら答えないだけ。表情がそう言っている。 「おまえがどこで生まれたのかを知りたいんだ。ここに来る前に居た場所から、どこか移動したことはあるか?」  シンは小首をかしげ、横に振った。 「ずっと同じ場所にいたのか? つまり、おまえの親はそこでおまえを生んだのか」 「たぶん」 「たぶん?」 「おれ以外は全員死んだって言ってたから」  何事もないことのようにシンは言った。全員というのは、親か、兄弟か、その両方か? 尋ねても再び「たぶん」としか言わない。 「死んだと言ったのは誰だ?」という質問に、彼はなぜか整った顔をちいさくほころばせた。 「ああ、ダディだよ」  シンの記憶があるころにはもう、「ダディ」と呼ばれる男のそばにいたのだという。話から推測するには、その男が今回違法人身売買で検挙され――そして死んだマフィアのボスだ。  幼い頃には身辺の世話をしてくれていた獣人がいたそうだが、ある程度自分で物事をこなせるようになってからは、たった一人「家でダディを待っていた」らしい。 「おれの部屋はここと似てる。でも、もう少し広かったかな。壁には本がたくさんあった。分厚い本だ。おれが読めない本がほとんどだったけど」 「ほとんど? じゃあ少しは文字が読めるのか」 「うん、これくらいなら。ダディが読んでくれたから」  絵本の表紙を指先でとんとんと叩く。かんたんな単語ならわかるというのだろう。驚いた。通常、<繁殖>だけを目的とするブリーダーは、余計な知識をつけて反抗しないようにと、教育を与えることはないと言われている。つまり、獣人とはいえ、ただの獣のように――食事、睡眠、そして生殖行為を行うことだけを教え込む。言葉すらも、まともに教わらないことも多い。俺が唯一保護に立ち会った純血種は、基本的な質問にすらまったく答えることができなかった。  マフィアのボスが、子どもに絵本を読み聞かせていただと? 「ダディが家の外で何をやっていたかは知らない。でも、ほとんど毎日おれのところに来てくれてた。ひとりじゃつまらなかったから、ダディが来てくれるのはうれしかった。本も読んでくれるし」 「本が好きなのか」  シンは目をしばたかせ、ふいと視線を逸らした。ときどき、こういった天邪鬼な仕草をする。  それにしても、シンはよほど寵愛を受けていたようだった。少なくとも保護されるまでの間、彼の生殖機能が成熟してもダディはシンを手放さず、<繁殖>に用いることもなかった。他の混血種と引き合わせることも滅多になかったようだ。もし発情期が来ていたら結果は違ったのかもしれない。数々の偶然が交差した先にシンがいた。  生きていてくれて、よかった。ダディという男がほかに数多くの悪行をはたらいていたとしても、シンを生かしてくれていたことだけは感謝しなければならない。 「サカキは、ほかのオオカミに会ったことがある?」  シンは身体をよじり、ベッドの上の俺の手に鼻を寄せた。 「ダディのところには、オオカミはいなかった。サカキが初めてだ。他の人と違う匂いがする」  すん、と鼻を動かす。俺は指を持ち上げ、細い鼻先をなでた。驚きにびくりと顔をこわばらせたが、耳の後ろまで指を滑らせると、肩の力がふっと抜ける。小刻みに動かすと目を閉じ、心地よさに身をゆだねる。  シンはヒト形態でいるときも、獣の仕草をするときが多い。そう気づき、オオカミとしての心理を考えながら根気強く接してきた。仕事以外の時間をシンと同じ部屋で過ごすようにしていたが、最初は何を話すわけではなかった。匂いと存在、動きに慣れてもらうことが重要だった。今では、彼の機嫌がよほど悪くなければ、髪や耳の後ろなど、限られた場所だけ軽く触れることを許してもらえている。  そうなると、事あるごとに触れたくなるのは俺のほうだった。獣化した状態でもなめらかな白銀の毛は、ヒト形態ではより繊細な手触りになる。きめの細かい頬の肌はしっとりと指に吸いついてくる。なにより、触れたときに漂う甘い匂いに、麻薬のような中毒性があった。  手を止めた俺をシンが怪訝な顔で見上げる。 「オオカミは――」  声を出そうとして、変に喉が渇いていることに気づいた。唾液を飲みこみ、話そうとしていたことを思い出す。 「オオカミ自体は、それほど珍しい存在ではない。俺の父親がオオカミのアルファだ。母親はイヌのオメガ。俺は父親の性質を強く受け継いだんだ。父親も俺も、身体の一部を獣化できる」  シンの目が丸くなった。俺の頭の上に現れた耳を凝視している。が、すぐに耳は引っこめた。普段獣化することは滅多にないからか、俺は基本的には人の姿の方が楽に感じている。  子どもの頃は、感情の昂りで獣化することを制御できていなかった。それほど、獣人としての性質が強かったのだろう。身体の一部でも獣化できる者は、現代ではそれほど多くない。大人はともかく、子どもは特にその異質さに敏感だった。異質ではあるが、力がある。同級生が怯えた表情で俺を避けていったのは、本能的なことだから仕方がない。  普通に暮らしていれば獣化が必要となる場面はほとんど存在しない。もちろん、多くの場合は感覚器官が鋭くなるため、それを生かした職業につくことはできる。いずれにせよ、制御を学ぶことは重要だったから、父親は幼い俺を厳しく指導した。  突然コツをつかんだのは小学校を卒業する前だ。それまでの苦労が嘘のように、感情に左右されずに獣化を抑え込むことができるようになった。中学生になるときには、ほぼすべての子どもにアルファ、ベータ、オメガの三性が現れており、小学生のときとは反対に、アルファであるというだけで勝手に人が寄りつくようになった。小学校時代の同級生すら、手のひらを返したように態度を変えた。 「ヒトとしての社会は面倒なことが多すぎる。だから、完全に獣化できたら、と思うことはあった。完全に人間の姿を捨ててしまいたくなるときが、今でも時々あるんだ」  シンの姿は、俺の理想だ。初めて見たときの衝撃は、その後何度彼を見ても褪せることはなかった。当の本人は、「ふうん」とつぶやき、首をかしげている。 「でもさ」シンはふたたび仰向けに伸びた。 「おれたちと同じだったら、サカキはもう、死んでたかもしれないよ?」  なんの気負いもない言葉だった。純血種はすぐに死んだという事実が、シンにとってごく当たり前で、他人事ように刷りこまれている。親兄弟を失ったときの記憶がないからだろうか。それが幸せなことなのか、そうではないのか俺には判断できない。 「……獣人の純血種は本来、人間の純血種よりもずっと長命だったと記録されている。さらに多くの機能や特長をもっていた。アルファ、ベータ、オメガの性もそのうちの一つだ」  シンの薄く透けるような髪をすくい上げ、指の腹で撫でる。 「男性のオメガが女性と同様に妊娠や出産が可能であるのは<進化>だと今では考えられている。長い間、純血種の獣人が人間よりも小さな集団の中で交配を繰り返しても絶滅していなかったのは、出産が可能な性が増えることで、遺伝子の多様性が保たれていたからだという説がある。――難しいか?」  眉根を寄せて天井をにらみつけるシンのこめかみに触れる。シンはちらと俺を見たが、また遠い部屋の隅へと視線を逸らした。 「とにかく、おまえが今こうして生きているのは奇跡に近い。だが、これを奇跡で終わらせたくないんだ。死んでしまった純血種と、おまえと、いったい何が違うのか。おまえの身体の秘密を明らかにすることで、これから助かる命があるかもしれない。だから、俺に協力してくれないか。これまでよりも本格的に試料とデータを取らせてもらいたい」  シンは眉間に皺をつくったまま目を閉じた。髪と同じ色の長い睫毛が頬に影を落とす。 「おれがサカキに協力する……そうしたらサカキは、おれに何をしてくれる?」  開かれたまぶたの隙間から、黄金の瞳が薄く光を放つ。  思わず言葉に詰まる。シンが取引めいたことを言い出すとは予想していなかった。  シンは聡明だ。実際よりも幼い言動が多いように見えるが、それは閉ざされた生育環境のせいだ。最初にヒト形態に戻らずにいたのは体力の温存のためだと思っていたが、今となっては違うとわかる。感覚器官を研ぎ澄まし、新しい環境と、俺たちをじっと観察していたのだ。ダディは、シンのそんなところが気に入っていたのだろうか。 「なにか願いがあるのか」  俺の言葉に、シンは素早く上半身を起こした。 「かなえてくれる?」 「すぐにかなえられるものと、すぐにはかなえられないものがある」  正直に答えたほうが良いと思った。嘘はあっさりと見抜かれると思ったからだ。  シンの強い視線が俺に絡みつく。 「外に、出てみたい」  ふっとシンが視線を逸らした先は、窓があるはずの壁だった。 「ダディはいろんなものをくれたけど、家の外には絶対に出してくれなかった。あの家も、窓がなかった。本で見た空も、山も、海も――おれは、見たことがない」  俺は、美しい毛並みをなびかせて自由気ままに野山を走り回るシンの姿を想像した。人の姿であっても、長い手足が舞うように躍動するようすを思い描くのは簡単なことだった。それは、とても自然な姿だ。 「すぐにとはいかないが、必ず外へ連れていく。約束する」 「本当に?」  一瞬にじみ出た喜びの色が、すぐに懸念へと変化した。 「用心深いな」 「……ダディが、簡単に人を信じちゃいけないって何度も言っていたから」  ダディ、ダディ。シンの口からダディという言葉が出てくるたびに、腹の底に仄暗い感情が澱のように溜まっていく。 「シン、ダディはもういない」  自分で意識したよりも低く、強い声が響いた。シンの目が、弱く震える。虚をつかれたような表情で固まっていた。俺の苛立ちはすぐさま後悔に取って代わった。シンというオメガを、無意識に従わせるような愚かなアルファの振る舞いをするつもりはなかった。 「悪い、シン。俺は――」  焦点を引き戻したシンは、静かに首を振った。 「サカキの言うとおりだ。ダディは、もういない。おれはサカキの言うとおりにするよ」  なにかを諦めたような表情だった。 「それで、なにをしたらいい?」

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