5 / 8

第5話

 苦痛と快楽の境界をさまよう、荒く尖った呼吸音が室内を満たしている。 「……う、あ……はぁっ――」  硬く閉じられたまぶたが痙攣した。目尻に滲む雫を舌で舐めとる。かえって震えは大きくなり、堪えきれなくなった瞳が光を求めて顔を出す。 「サカ、キ……」 「シン、大丈夫だ。力を抜いて」  *  シンはオメガとして、とうに最初の発情期を迎えていてもおかしくない年齢だ。だが、灰谷が最初に調べていたとおり、発情期にオメガが発するフェロモン――アルファの発情を誘発する匂いを出すとされる場所が、充分に発達していないというのは事実だった。そうなれば、卵細胞も排出されていない可能性が高い。  だが、生殖器の発達自体は問題がないのは確認されていた。そこでシンに万が一のことが起こったときのために、まず行うべきは「生殖細胞の保存」ということになった。つまり、精子の凍結保存だ。 「セイエキのサイシュ?」  シンは俺の言葉をそのまま繰り返した。 「ああ。ここにカップを置いておく。採取容器がついた人口膣も置いておくが、うまく採取できるならどちらでもいい。カップを使う場合は、カップの中に直接射精するように」  他にも細かい注意事項を並べ立てる。手と陰茎をよく洗うこと、射精時の最初の精液を極力取りこぼさないようにすること―― 「さ、サカキ」 「精子は精巣内にいる期間が長いほど運動量が低下してしまうから、前回射精したのがいつ頃かを教えてほしい。覚えているか?」 「サカキ!」  電子カルテから顔を上げる。シンは思い切り顔をしかめていた。苛立ちと――困惑? 「シン、これは本当に大切なことなんだ。おまえの子孫を確実に残すことができるように、今後定期的に精子を採取して保存する。その一部は試験にも使わせてもらうが、絶対に無駄な結果にはならないと約束する」  椅子に座り、ベッドの上のシンと目線の高さを合わせる。大きなクッションを抱え、顎をうずめるシンは、俺から逃げるように視線を逸らす。 「……精液は、わかるか? 恥ずかしいことではない、答えてくれ」  しばらくして、ちいさくうなずく。 「出し方も、わかるか?」  眉根を寄せてじっと黙っているが、首を横に振るわけではない。閉鎖空間で生まれ育ったシンが、知識としての性情報をもっていない可能性はあった。だが、考えたくもないが、「ダディ」がシンに性について何も教えていないとは思えない。 「焦ったり、急ぐ必要はない。俺は別の部屋に戻っているから、採取が終わったらボタンを押して呼んでくれ」      わずかな不安が的中した。  床に転がった空のカップを拾い上げる。これはもう使うことはできない。シンはひゅっと息をのんで俺を見た。途端に顔が赤くなり、膝を抱える。 「シン、――」 「ダディが」  ダディ? シンは勢いをそがれたように口を閉じた。俺は先を促す。 「汚いことだって、怒ったんだ。おれが汚いものを出したらいけないって。そのときのダディは怖かった。もう絶対にしないって約束した。怖かったから。あんなダディは見たくない」 「シン……」 「でも、ダディはもういない。おれはサカキの言うとおりにするって約束した。だから――」  気づいたときには、俺はベッドに乗り上げてシンを抱きしめていた。 「俺が悪かった。きちんと話を聞いてやればよかった。おまえは悪くない」  薄い背中の皮膚に背骨の感触が浮き上がる。ゆっくりと撫でさすり、乱れたシンの感情をなだめる。  シンの中でダディは変わらず大きな存在だ。自分にとって唯一の存在から拒絶される恐怖は根強い。 「やろうとしたけど、怖くて、おれ――」 「いいんだ。無理しなくていい」  腕の中のシンが強く首をふる。 「おれがきちんとやれば、サカキは約束を守るって言った」 「シン、それは」 「でも、できない。どうしたらいい?」  俺の胸元のシャツを掴む。必死だった。強い願いが全身から伝わってくる。俺は言うことを聞かなければ約束は無効だというような、そんな脅迫じみたことをしたつもりはない。恐怖を糸に、操り人形のように従わせたかったわけでもない。シンが感情を犠牲に何かを差し出さなければならないようなことをさせるつもりか?  だが同時に、薄汚れた欲が俺にささやきかける――『だろう?』 「シン、これは汚いことではない。怒るようなやつもいない。怖がらなくてもいいんだ」  顔を上げたシンの唇に触れる。瞬時に身体がこわばり、胸を押された。両手で頬を挟み、左右にさまよう視線を捕らえる。  拒絶を見せればすぐにやめるつもりだった。すべての神経を研ぎ澄まし、シンの反応をうかがう。だが、重ねた唇はやわらかいままだ。舌で隙間をなぞり、吐息とともに緩く開かれた中へと侵入する。  薄い肌のつめたさとは反対に、シンの咥内は驚くほど熱い。あの<匂い>を凝縮したような、しびれるように甘い唾液が舌に絡みつく。 「ふ……んっ……」  ちくりと刺さったのはシンの伸びた牙だった。犬歯の上部を舌先でくすぐる。隙間から必死に空気を取り込もうとしているのがわかるが、苦しげな声が漏れ出るだけだ。口の端から滴る雫を吸い、下唇を食む。 「ッあ――」  唇を離し、視線を落とす。張りのある生地で作られた下衣の中心が、わずかに持ち上がっているのを確認する。シンはハッと我に返ったように青ざめた。 「大丈夫だ。怖がらなくていい」  何度も、念を押すように伝える。やわらかな髪に指をとおし、「俺に任せてくれないか」と問いかける。 「嫌なら、すぐに言うんだ。俺はおまえが嫌がることをしたくはない」  濡れた黄金の瞳が静かに揺れ、閉じられた。  * 「う……あぁ、あ――」  露出したシンのものをやわらかく握りこむ。上下にゆるく扱き、先端のくぼみに指をすべらせる。ちいさな孔の上で、透明な粘液が丸く膨らんでいく。  迷った末に、俺は自分の脚の間にシンを座らせた。胸に背をもたれかけさせ、細い脚を開かせる。硬く閉じられたまぶたに唇を落とし、「力を抜くんだ」と諭す。  指に湿った感触が流れてくる。決壊した先走りがまとわりつき、指の動きを助ける。はじめは押し込められていた声が、動きに合わせて徐々に開放されていく。  だが、肩の力は抜けず、指が白くなるほどシーツを握りしめ、突っ張る腕は細かく震えている。反対に、シンのペニスはまだ完全に硬くはなっていない。 「ふ、アアッ――」  反対の手で反らされた胸に触れる。尖りをつまみあげると同時に、わずかにこわばりが解けた。くすぐるように指先を動かし、刺激を与え続けているうちに、シンのものが少しずつ硬く膨らみはじめた。 「上手だ、シン。それでいい」  苦しげだった声に、淡い快楽が見え隠れするようになった。俺の手の動きに誘われるように腰が揺らめく。 「あ、あ、ああっ!」  わずかに速度をあげ、少しずつ追い上げるように力を加減する。胸の尖りを引っかくと一段と高い声が溢れた。シンが首をちいさく横に振る。 「悪い、嫌だったか?」 「あ……」  開いたまぶたの下から困惑の色が広がっていく。シンはなにかを逡巡したあと、控えめに胸を反らした。身をよじり、胸元に置かれた俺の手に快感をこすりつける。  すでに限界を超えてもおかしくない俺の理性は、内側でどろどろに溶けて煮えたっていた。それをぎりぎりのところで留めているのは、シンを傷つけたくはないというたった一つの思いだけだ。そしてこれが俺のエゴだという事実も、冷静さを失わずにすんでいる理由だった。 「んあ、ああっ、はぁっ――」  シンの中で抑制していたなにかがぷつりと切れたようだった。腰がはっきりとうごめき、荒い息が短く途切れて吐き出される。張りつめた屹立の先端を一気に強く扱いた。 「ああああああっ!」  昇りつめたシンの身体がぐんと跳ねる。透明な容器の底に白濁がたたきつけられ、細かい飛沫が周囲を白く塗りつぶしていく。  数度痙攣した身体は、突然重力をともなって胸の上に落ちてきた。ぐったりとしたシンは宙を呆然と見つめ、半開きの唇から熱い息を吐き出している。  見開いたままの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。  駆け出しそうになるのを堪え、直線的な廊下を足早に進む。視線の先で、曲がり角近くの照明が不意にちらつき光を失う。ぽっかりと浮かんだ薄い闇に足を踏み入れたとき、角からぬっと人影が現れた。 「うわっ……あれ、榊さん?」  灰谷は大げさにのけぞり後ろへ一歩下がった。相変わらず足音がしない男だ。 「それ、シンの精液検体ですか」 「……ああ」   手に持つ容器の中身を目ざとく特定される。俺たちにとっては見慣れた容器だ。だが俺はコレから灰谷の視線を外したかった。腕を下ろした俺を、灰谷は複雑な表情で見ている。 「榊さん、本当に大丈夫ですか?」 「なんのことだ」 「気づいてないんです?」 「だから何がっ――」    灰谷の手が俺がもつ容器にすっと伸びた。意識をする間もなく腕を強く振り払う。「ほら」という声と盛大なため息で我に返る。灰谷は腕をさすりながら首を振った。 「俺みたいなベータには<つがい>というものすら理解できないんですけどね……その上<運命>なんてことがあるんですか?」    <運命のつがい>……アルファとオメガの絶対的な絆。その相手は出逢った瞬間にわかるとも、出逢う前から居場所すら予期することがあるとも言われている。一度出逢ってしまえば、決してその縁から逃れることはできない――などと、嘘のような言葉が並ぶ。都市伝説のようなものだ。 「言っただろう。そんなものは科学的に証明されていない。<つがい>は本来アルファがオメガの首筋を噛むことで双方のホルモン状態が安定した関係を指すだけで――」 「だぁから、仕組みはわかってますって。でもそうじゃないんでしょう? さっきだってそうだ。俺がそれに触ろうとしたときの榊さんの反応。シンが保護されたときから、ずっとそんな調子ですよ」  容器をちらりと見遣り、「それも悪化してる」とつぶやく。 「いいんですか? 蔦川さんは本気ですよ。保管されている純血種の凍結精子とシンの卵細胞で受精卵を作って免疫試験をしようとしています。他の雄との間にシンの子どもが生まれる。しかもそれを試験に使うんですよ?」 「……シンはまだ発情期が来ていない。だから卵細胞は採取できない」 「あの人がそんな些細なことで試験を先延ばしにするわけがないじゃないですか」 「だからといって誘発剤など――」  灰谷の視線が俺を刺した。 「まさか最初の発情期が来ていないオメガに誘発剤を使うというのか!? シンの身体にどんな負担がかかるかわからないんだぞ!」 「まだわからないですって。でも、蔦川さんならやりかねない」  身体の内側から怒りが吹き荒れる。こめかみが脈打ち、世界が白と黒で点滅し始める。榊さん、と二の腕に触れられてようやく、自分の意識が戻ってくる。 「榊さんが、シンのことで感情的になるのはなぜですか?」 「それは……俺がオオカミのアルファで、シンがオメガだからだ。俺はシンを守るべき存在で――」  シンの姿を初めて見たときの、身体の内側のすべてが揺さぶられるような感覚を思い出す。漂ってくる抗いがたい匂い。あれが<運命>というやつなのか? 「違う。<運命>なんてものじゃない」 「だから――」 「<運命>などという、誰かが勝手に決めたものじゃない。俺が、……シンを、必要としているんだ」  俺の名前を呼ぶ細い声。涙を流したあと、すがりつくように伸ばされた白い腕。薄い背中を撫でたときの安心しきった寝顔。  シンに俺が必要なのだと思っていた。だがそうではない。シンがいることで、俺自身が自分の存在の意味をはっきりと認めることができた。 「こんなこと言ったら怒られるかもしれないですけど」  灰谷が唐突に切り出した。 「榊さんも感情的になれるんだって、俺は少し安心しました」 「安心?」 「ええ……ここで仕事をしていると、感情を殺すのが当たり前になってくる。榊さんはそれがでした。完全に感情を消すことができる人なんて、いないのに」  寂しげな笑みを浮かべる。 「シンのこと、好きなんですよね?」 「……ああ」  消えていた頭上の照明が突然光を灯した。俺の中に芽生えたものが明るく照らし出されたような錯覚を起こす。それは心地の悪いものではなかった。 「灰谷」 「はい?」 「ありがとう」  灰谷は照れくさそうに笑った。    廊下の先が騒然となったのは、そのすぐあとのことだった。「榊さん!」と叫びながら、スタッフが焦ったように駆けてくる。 「純血種が保護されたとの連絡がきました」膝に手をつき、肩で息をしながら俺に向かって告げた。 「オオカミ族の男性、おそらくアルファです」

ともだちにシェアしよう!