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第6話

 ひどい気分だった。胃の中の物が飛び出していかないのが不思議なくらいだ。頭の中で巨大な金槌を打ちつけられているような鈍い音と痛みが続く。  目を閉じても開いても同じような暗闇が広がっている。背後から届く緑色の光を見ようと重い身体をよじり――失敗した。後ろ手に何かで縛られている。 「ここは……」  ようやく闇に慣れてきた目を何度もしばたかせる。身体の両脇に白い壁が迫っていた。いや、これは壁ではなく――薬品棚だ。首をねじって上を見上げる。ガラス戸に先ほど見ようとした緑色の光が反射していた。非常口の灯りだ。  ここは形態研究室で所有している、危険度の高い薬品を保管する部屋だ。そうと気づき、口からおかしな笑いが漏れた。なるほど、ここならすぐに誰かが来るということはないだろう。この部屋の鍵を持っているのは、蔦川室長しかいない。  ***  最初にシンが運ばれた場所の隣の部屋で、そのアルファは眠っていた。  部屋のつくりは大きいはずだが、今は複数の医療スタッフが彼の周りを取り囲んでいて少し窮屈に見える。 「獣化した状態で市街地の飲食店等へと侵入し、食料を得て逃走。各地で器物が破壊され、怪我人も出たため警察に捕獲要請が来たそうです。野生の大型犬かなにかと思って麻酔銃を打ったところ、ヒト形態で倒れていたということですが……」  シンのときとは異なり、ヒト形態で麻酔銃を受けたということか。 「現在血圧が非常に低い状態が続いています。それから全身にガラスによる切創。幸い傷は浅く出血は少ないですが、感染症には気を付けないと」 「助かるんだろうな」 「外傷だけでは、なんとも……」  慌ただしく動き回る人々の隙間からでは彼の姿を正確に捉えることはできない。背は高いようだが、年齢はわからなかった。治療台から垂れ下がる頭髪は青みを帯びた灰褐色だ。 「榊さん、検査結果が出ました」  灰谷が紙を手にこちらへ向かってくる。 「どうだった?」 「遺伝子検査のほうは――」  資料を受け取ろうと伸ばした手が空を切った。 「蔦川室長……」 「灰谷、ご苦労だったな。資料は私がもらっておく」  蔦川は紙面に一度だけ視線を落とし、わずかに口の端を上げた。そのまま大きな歩みで医療スタッフに近づいていき次々に激励を送る。彼らの顔からは緊張の色が消え、自信が満ちていくが見える。  百獣の王のアルファ。その群れを率いる能力に、今はまだ俺自身の力は遠く及ばない。 「灰谷?」  振り返ると、灰谷が蔦川の背中を射抜くような目で見つめていた。  「あ、ああ……すみません。結果、もう一度出してきましょうか」  どこか取り繕ったような口調で笑みを浮かべる。 「いや、基本的なことだけでいい。オオカミ族のアルファというのは本当か?」 「ええ。純血種というのも間違いありません。しかも……」  言いよどむ灰谷に視線で先を促す。 「シンとは四世代前に共通の先祖がいます。こんなことって、あるんですね」  オオカミ族の純血種、それも血縁のあるアルファとオメガが生きた状態で同時期に保護される。奇跡のような出来事が立て続けに起こるのは、吉兆なのか――  医療スタッフが二人、大きく息を吐きながら部屋から出てきた。 「容体は安定しました。今わかっている範囲の傷だけであれば、しばらく安静にすれば回復するかと」 「よかった」  ほっと息をつく灰谷にスタッフが微笑み、会釈をして去って行った。 「まだ他にも純血種が近くにいるのかもしれないな。話を聞くことができれば、居所がわかるかもしれない」  めずらしく反応がないのが気になり灰谷を見る。ガラスの向こう側を見ていた灰谷は俺の視線に気づいたものの、あいまいに返事をしただけだ。顔に疲れた影がかかっている。だが気がかりに思う間もなく、別の研究員に呼ばれて行ってしまった。  念のため一晩の間、医療スタッフにも交代でアルファの傍に待機してもらうよう指示を出した。  アルファについて今俺たちができることは何もなかった。詳細な調査を行うために、彼の意識が早く戻り、会話ができることを願うしかない。  周囲は平静を取り戻し始めていたが、俺は反対になにか落ち着かない気分でいた。シンに関するレポートをまとめるうちに、ますます行き場のない思いが膨らんでいく。仕方なく静かな試験室に向かい、単純な仕分け作業を行う。手の動きに没頭するうちに、段々と頭を冷やすことができた。  シンのことが好きだ。  だがシンにとっては、俺はきっとダディの代わりでしかない。それに今シンは、研究対象という一歩間違えればその身が危険にさらされる立場にあった。  シンを本当の意味で守るためにはどうしたらいい? 俺には、いったい何ができる?  扉を開けたときの、あまりのひと気のなさに驚いた。腕時計を見ると二十三時をとうに過ぎている。  シンはもう寝ているだろうか。ふと彼の顔を思い浮かべたときには、足が自然とシンの部屋へと動いていた。  深い闇が部屋を覆っている。そこにシンはいなかった。 「榊、まだ残っていたのか」  いつもと変わらない、悠然とした低い声が響く。 「蔦川さん、シンがいません!」 「シン? ああ、あのオメガのことか。彼なら私が別室に移したよ」 「あなたが? なぜですか!?」 「なぜって、今しか重要な試験ができないと思ったからだ」 「それはどういう――」 『蔦川さんは本気ですよ』  灰谷の声が蘇る。 「まさか無理矢理シンを発情させようとしているんですか!?」 「無理矢理というのは語弊がある」  蔦川はやれやれといった風にため息をついた。出来の悪い生徒を前にした教師の顔だ。 「君のレポートを読ませてもらったが、あのオメガはほかの純血種と関わらずに育ってきたそうじゃないか。発情期が来ていなかったのは、純血種のアルファとの接触が少なかったのが原因ではないかと、そうは思わないかね?」  一歩距離を詰められる。俺は身動きが取れなかった。 「奇跡的に純血種のアルファ、しかもオオカミ族の雄が保護された。だが彼らはいつ突然死ぬかもわからない。だから、この千載一遇のチャンスを逃さないためにも、私は試験を早期決行することに決めたのだ」 「いったい何をしたんですか!」 「理論検証だよ。ただ悠長に待っているわけにはいかないから、先にアルファに性フェロモンを発生させるように誘発剤を使用した。アルファのフェロモンに反応してオメガが初めての発情期を迎えれば上出来だ。オメガにも誘発剤を投与しているが、まあ一回目の検証としては許容範囲だろう」 「オメガにも投与しただと!? シンは、今どこにいる!?」  恐れていたことが起こった。シンの生命が指先からするりと零れ落ちていく。  血液が瞬時に沸騰し急激に駆け巡る感覚が俺の身体を支配した。がんがんと頭に響く音の中に低い唸り声が混ざる。蔦川の顔はどす黒く変化し、大きく開かれた口から鋭い牙だけが白く浮き出てる。 「君に教えるわけにはいかない。彼らには交配に成功してもらわなければならないのだ。誰にも邪魔はさせない」  コウハイ?   「ガッ――!」  腹に重い衝撃が食い込んだ。冷たく硬い感触がこめかみに打ちつけられる。 「悪いな、榊。時間がないんだ」  首筋に鋭い痛みが走った。  ***  幸いにも足は縛られていなかった。なんとかバランスをとり、上体を起こす。  意識を失う直前に感じた痛みは、麻酔薬か何かを打ったときのものだろう。頭が割れるように痛むのは薬の副作用だ。  蔦川は俺を眠らせたあと、この薬品保管室に連れてきた。人通りも少なく、鍵は蔦川しか持っていない。警備員も鍵がしまっていれば特に不審には思わないだろう。俺が目を覚まさなければ、少なくとも朝までは誰にも邪魔されることなく――? 「……シン!」  蔦川は『交配』と言っていた。保護されたアルファとシンを交配させるつもりなのか。いったい何のために?  片膝をつき、力を入れようとしたがうまくいかない。焦りばかりが募り、身体をコントロールできない。 「くそっ」  薬品棚に体重を預け、ずり上がるように立ち上がった。眩暈で視界が歪む。緑色の光に向かって足を前へ前へと押し出す。  扉に向かって身体を叩きつける。気密性が高くなるよう設計されている部屋は扉も厚く、音は響かない。 「誰かいないか!」  何度も繰り返し叫びながら扉に衝撃を加える。肩が痺れ、脳震盪のように頭が白く霞んでくる。 「シン、シン――!」  たったひとつ、シンのことしか考えることができない。どうか無事でいてくれ、シン―― 「榊さん!」 「……灰谷?」  いよいよ幻聴か。膝から力が抜け、床に座りこむ。 「榊さん、今開けます!」  騒々しい金属音が響き、白い明かりが身体を包んだ。 「大丈夫ですか!」  肩に手を置かれ、ちいさく揺さぶられる。 「ああ……それより、シンは」 「シンは――ちょっと待ってください」  灰谷は電気を点け、部屋の隅に置かれた道具箱からはさみを取り出した。手を縛るロープに刃を当てる。 「聞いてください。アルファが、シンを連れて逃げました」 「なんだと!?」 「おそらく、つい先ほどのことです。シンはアルファがいた部屋に連れていかれたようですが、ドアが破られ、待機していたスタッフが一人昏倒していました。警察と救急に連絡を入れましたが……」 「蔦川は」 「……ひどい怪我を負っています。アルファに攻撃されたと――立てますか?」  差し出された手を借りて立ち上がった。「すまない、助かった」  灰谷は首を振り、「シンたちはもう遠くへ行ってしまったかもしれない」とうなだれる。 「だが、アルファはまだまともに怪我が治っていないはずだ。シンがどんな状態かにもよるが、二人で逃げるとしても速く動けるとは思えない」  そのとき、尖った神経の上を何かがかすめた。音――それも高く長く伸びる声。 「どうしたんですか?」 「静かに!」  散らばった集中力をかき集めた。世界が白黒に変化する。耳を押し上げ、聴覚を拡張し研ぎ澄ませる。  もう一度聞こえてくる。何かを訴えかけるように、高く高く昇る遠吠え――シンではない。 「上だ」俺は灰谷に向かって叫んだ。「屋上に、アルファとシンがいる」  *   「やっと来たか」  暗がりの中にアルファが立っていた。少し離れた場所にシンが横たわっている。俺と灰谷が駆け出すのを見て、アルファはフェンスに手をかけた。 「待て!」  視界の端で灰谷がシンを抱えるのを確認し、アルファを呼び止める。ふっと笑みを浮かべたように見えた。ゆったりと力を抜いたようすで歩み寄ってくる。  限られた照明の下で、アルファは周囲の気が張りつめていくような異様な存在感を放っていた。蔦川の比ではない。本能が純血種のアルファの強大な力を感じている。 「あれは、お前のオメガか?」  深い海の瞳が俺を見下ろしている。その視線は俺の内側に深く侵入し、すべてが暴かれるような錯覚に陥る。  だが今こうしている間にも、俺の意識はシンに注がれている。シンを、俺の身体の一部のように感じている。 「ああ」俺はアルファの視線を受け止める。 「シンは、俺のオメガだ」  それはまるで祝福された泉のようにとめどなく湧き出る。身の内で昏く欠けていた場所に流れ込み、静謐な水面を作り出す。隅々まで満たされる多幸感とともに突然視界が明るく開けたように感じる。  アルファは満足げにうなずく。 「お前にはわかるだろう。俺たちオオカミのアルファは、ただ一人のオメガとしかつがわない。唯一人だけだ」  俺は掠れた声で「ああ」と答える。アルファは口元をわずかに緩めたあと、俺の背後を見透かすようにすっと目を細めた。 「あのライオン野郎は違うのかもしれないがな。不幸なやつだ」  鋭い視線の先を振り返る。シンを膝に抱える灰谷が心配そうに俺たちを見つめてる。  カシャンと金網が擦れる高い音が響いた。アルファがフェンスの向こう側へと軽やかに降り立つところだった。 「待て、どこに行く!」  アルファはにやりと笑い、鋭く跳躍した。    力強く伸びる四本の脚がはるか下方で音もなく地を蹴る。まどろみの中に横たわる街へ瞬く間に吸い込まれていく。  ――「つがいのもとへ」  彼は確かにそう言った。

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