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第7話

 藍色の空の端から淡い光が溶け出していく。窓の外で後方へと流れていく木々は、すでに花を落とし、瑞々しい若葉を身にまとっていた。  視線を前に戻したタイミングで運転席の灰谷とミラー越しに目が合った。 「シン、大きな怪我はなくて良かったですね」 「ああ」  膝の上のちいさな頭をそっと撫でる。静かな寝息が張りつめていた俺の心を徐々に落ち着かせていく。  警察や消防、呼び出された医療スタッフたちが到着するころには、研究所はすでに普段の静けさを取り戻していた。昏倒していたものは意識を取り戻し、治療を受けながら警察と話すことができていた。  一時意識を失っていた蔦川も、救急車へ運び込まれる途中で突然目を覚ましたらしい。だがアルファによる胸の傷が酷く、そのまま病院へと運ばれていったと聞いている。  手元に流れるやわらかな髪に指を絡める。シンが無事で本当に良かった。今は薬の作用で深く眠っているが、じきに目を覚ますだろう。 「……どうした?」  視線を上げると灰谷がふたたび俺のことを見ていた。いや、俺というよりはむしろ、俺の向こう側を透かして見ているような、そんな表情だ。 「どうして<つがい>なんてものが世の中にあるんでしょうね」  沈黙を破った灰谷はひとりごとのようにつぶやいた。その目はすでに遠く前を向いている。 「蔦川さんにもいるんですよ。それもあの人いわく、<運命>だとか」 「……聞いたことがない」 「ええ、結婚もしていないんです。出逢ったときにはもう、その相手は身体を動かすことも、言葉を交わすこともできなかったから。――重度の遺伝疾患です」  ミラー越しに灰谷の目元が曇るのが見える。 「その人は長い間闘病していましたが、先日余命三ヶ月と宣告されました」  失っていた自分の半身をたぐりよせた瞬間に足元が奈落へ崩れ落ちる、そんな感覚を想像し身震いする。声を上げることすらできない俺に灰谷はふっと笑みを向ける。 「室長にとって、シンの存在は奇跡に思えたでしょうね。その上、あのアルファ。彼らは他の純血種のような遺伝疾患は現れないどころか、本来の獣人がもつとされる高い治癒能力がある。でも、彼らのような純血種が生まれる秘密を明らかにできたところで、たった数ヶ月で何かができるようになるわけじゃない。そんなことわかりきっていたはずなのに……シンが来てから、すべてが変わってしまった」  蔦川の行いは許されるものではないが、今となってはまったく理解できないわけではなかった。自分のつがいが……シンが、死に瀕しているとしたら。藁にもすがる思いで、目の前の奇跡に爪を立てようとするかもしれない。 「灰谷、どうしてお前はそんなことまで……」  所員の誰も知りえない情報、施錠された室長室にあるはずの薬品保管室の鍵、蔦川の背中を射抜くように見つめる瞳――  灰谷の諦めたようなため息が詮索の糸を断ち切る。 「俺もオメガになりたいと思ったことがありました。あなたたちのように運命に巻き込まれたい、俺もその運命の歯車になりたいと思ったことさえあった」  車は俺のマンションの手前でゆるやかに減速し、わずかな足音も立てずに停止する。長く息を吐いた灰谷は、しなやかな強さをたたえた眼差しで俺を振り返る。 「だけどいつか俺も榊さんのように自分で選んだと言いたい。誰かに踊らされる人生なんて、まっぴら御免ですから」  窓を開けてちいさく会釈をした灰谷に、俺はただ思いを込めて頷く。彼はどこか清々しささえ感じさせる笑みを浮かべて朝日の中へと走り去っていった。  薄く目を開くと、あたりはすでに暗闇に落ちていた。一日が俺とともに深い眠りの海に沈んでいったことを知る。  アルファが運び込まれ、そして去っていったのは、たった数時間前のことだ。俺の身の内には突然の嵐に巻き込まれたような衝撃が残っていたが、その疲労感はなぜか心地よい。  硬いソファの上で身体を引き伸ばし、こわばった背中をゆるめてやる。 『サカキ、サカキ――』  怯えをはらんだ細い声が、覚醒しきっていない頭を揺さぶる。 「サカキ、たすけて……」  うわごとのような声に呼ばれ無意識に飛び起きた。が、身体がぐらりと傾き、ふたたびソファに倒れ込む。熱い息が胸までせり上がり、何度吐き出しても身の内の熱が逃げていかない。  発情したオメガ匂い。何が起こっているのかを考える余裕もなく、眩暈がするほどの濃密な匂いをたどり寝室へと向かう。  シンは俺のベッドの上で自分の身体をきつく抱きしめていた。 「サカキ、サカキ!」 「シン、大丈夫、か……」  遠く伸ばされた腕をつかみ胸の内に引きこんだ。シンの身体が大きく震える。 「っ……サカキ、はぁっ……どうしよう、ああっ……」 「くっ――」  シンは俺の背に腕を回し、強く身体を押しつけた。肌に服が擦れることすらシンにとっては痛みにも近い快感に違いない。膨らんだ尾が俺の腿を愛撫するようにかすめる。 「シン、少し辛抱してくれ。今、オメガの医者を呼んでくるから……」  これ以上触れていたら自分を抑え込むことなどできない。離れようとした身体にシンがさらに昂るものを擦りつける。 「シン、頼むから――」 「いやだっ……おねがい、行かないで……もう、ひとりにしないで」  すがりつく瞳が不安の色をたたえて揺れ動く。 「サカキじゃないといやだよ……サカキだけだから……はぁっ……だから、おねがい――」  震えるシンの指が俺の手を掴み、硬くなった場所へと導いた。目の前で光がはじけ飛ぶような衝動が俺の理性を奪い取る。 「あっ――」  シンの腕を取りベッドに押し倒す。部屋を苦しいほどに満たす甘い匂いが、アルファの、そしてオオカミの本能を呼び覚ます。 「シン。俺は、おまえが好きだ。おまえを愛している」  すべてが終わったあとで、シンは俺の言葉など覚えていないかもしれない。だが俺はいつまでも何度でも心に誓う。 「忘れてしまってもいい。でも今だけは――俺だけのオメガになってくれ」  うつ伏せに崩れ落ちるシンの背中に指を滑らせる。薄い皮膚を撫でおろし、舌を這わせ汗を舐めとる。たったそれだけの刺激でシンは全身を震わせ、色のない精を吐き出した。 「はぁっ……あ、あ、ああっ、はやく、はやく――」  濡れそぼる後孔に昂ぶるものをあてがう。何度も果てているシンの身体は快楽に飽きることなく、却って貪欲さを増している。  充分すぎるほどにほぐしたはずのそこは、ふたたびつつましやかな蕾のように閉ざされていた。欲望を押し込めながらシンの尾の付け根に手を伸ばす。 「ああああっ!」  突然うねるように俺の熱を飲み込んだ。内側が何度も痙攣を繰り返しシンが再び達したことを伝える。背中を走る鋭い快感に世界が白と黒に明滅し始めた。  うごめく襞に誘い込まれるまま深く深く侵入する。 「あ……サカ、キ……」  シンが感じ入ったような吐息を漏らした。最奥まで到達した俺も同じように、ただ声もなく息を吐き出す。  やっと戻ってこれた。俺の在るべき場所はここだ。魂が揺さぶられる、その感覚に身じろぎもできず陶然とする。  ゆるやかに始めた抽送は、すぐに激しさを増していく。 「あ、あァッ、サカキ、もっと、はぁ……ああっ!」 「シン――おまえはどうしてそんなに……」  シンの背中に覆い被さり、肩口に歯を立てる。白いうなじから漂う強い香りに無意識に引き寄せられた。舌先から垂れた唾液を塗りこめるように舌を這わす。 「あッ……そこ、噛んで、噛んで――!」  シンの切羽詰まった声に意識を引き戻される。跳ねるように身体を起こし、シンの中から己を引き抜く。 「あ、どうして――」  非難に顔をゆがめたシンの腕を取り、膝の上に引き上げる。まだ収まる気配のない屹立でシンを一息に貫いた。 「――――ッ!」  がくがくと跳ねる身体をきつく抱きしめながら下から追い上げる。腹の間で擦れるシンのものから、ぬめるものがとめどなく流れる。 「シン、愛してる――」  揺さぶる動きに合わせてシンの尖った顎が跳ね上がる。緩く開かれたままの唇に噛みつき、力のない舌を鋭く吸い上げた。 「ふ、んんっ、あああああッ!」  口の端から低い獣の唸り声が漏れ出る。打ちつけた楔がシンの熱にきつく絡めとられる。長い、長い吐精の快感が奔流となって身体中を駆け巡る。  意識を飛ばし、ぐったりと身をゆだねるシンを今度は薄いガラスに触れるようにそっと抱きしめる。  シン――俺の唯一人のオメガ。もう二度とおまえをひとりにはしない。

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