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第58話 船で帰る

 烏の濡れ羽色の乱髪は先ほどまでの情事を物語っている。  ベッドの上で泣き出したアサを宥めるように頭を撫でるとさらさらと毛先が揺れた。  上下する肩は頼りなく、色白の頬は紅く染まっている。  今すぐこの肩を掴んで、行くなと強く言えたらどんなに気持ちが落ち着くだろう。  何度も己の舌を差し込み吸い上げた唇は赤く腫れ、悲痛に震えていた。 「アサ、いい子だな」 「ダ、メ、ボ、ク…ダ、メ…」 「ダメではないだろう。お前は強い。もう大丈夫だ。明日、あの人たちの船に乗れば家族の下に帰れるぞ」 「カ、ゾク…」 「ああ、家族だ。何カ月もあっていなかったんだ。会いたいだろう?」 「ン?」  頭を右に傾けこちらを見つめる瞳は涙で濡れ、辛そうに寄せられた眉間が痛々しい。  分かっていないのだ。  この子は、俺が言っていることの8割以上を理解できていない。  家族という言葉を教えたことはあっただろうか。  今、俺が発した言葉の意味が伝わっただろうか。 「友達もいるだろう?」 「ト、モ、ダチ……? ウ、ン…」 「会いたくないか?恋しいだろう?」 「ア…?」 「難しい言葉だったな…ごめん…」  カーテンの開いた窓に目をやると、緩やかな風に吹かれて新緑の木々が揺れている。  俺たちの心境とは異なり外の天候は良好なようだ。 「俺は、島に帰った方が良いと思うぞ」 「シ、マ…?」 「ああ、俺たちの船に乗る前にお前が住んでいた場所だ」 「ウ…?」  こんな時に、ケンがいれば勢いと身振り手振りだけで何とか話を通じさせるのだろう。  俺にはそんな器用さは備わっていない。  今俺が持ち合わせているのはわずかに残された時間だけ。  思っていたより俺たちの時間は短いものとなりそうだが、時間を掛けて話をすれば伝わるはずだ。  いつもそうしていたのだから。  その「いつも」も、今思えば数カ月ぽっちのことだったのだが。 「これが島国だ」  スケッチブックに細長い形を描くと、小さな頭がうんうんと上下に動いた。 「ボ、ク…」 「そうだ、お前の島国だ」 「ン…」 「明日、帰るのだろう?」 「カ、エル?」 「その言葉をまだ習っていなかったか…そうだな、どう説明すればいいんだ」  俺の絵心だって知れたもんだ。  何とか船を描き、先ほど描いた島国の絵に向かい矢印を引いた。 「船で、帰るんだ」 「ハゥ…」  伝わったのだろうか。  目の前の瞳はゆらゆらと揺れている。 「カ、エ、ル…」

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