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第1話
木々に木霊する太鼓の音に、長く尾を引いて高まる笛。
――ああ、いつもの夢だと、司は思う。
篝火が辺りを照らし、神楽殿では鈴を手にした巫女が美しく舞い踊る。その広い袖が翻るたびに、手に握られた鈴がシャラン、シャラン、と鳴り響いた。
幼い司は祖父に手を引かれて夜の社を訪れていた。参道の両脇には色とりどりの晴れ着を纏った村の衆が並んでいる。村中の人がここに集まって、何かを待っているらしい。
それがとても大事なものだということは幼い司にも分かったが、何しろ昼間走り回って遊んでいたので眠くて堪らない。祖父に手を取られたままうつらうつらと舟を漕ぐうちに、いつの間にか本気で眠ってしまっていた。
気が付いた時には傍らに祖父は居らず、司の身体は黒い大きな毛皮にすっぽりと包まれていた。
東雲 司 は、居並ぶ職人たちの前に緊張の面持ちで正座し、父の評定を待った。
父貴之が手にしているのは、一振りの日本刀だ。
刀鍛冶の頭領である貴之に命じられて司が打ち上げた刀は、村の熟練の職人たちが作った見事な拵えに包まれている。艶が出るまで漆を厚く塗り重ねた黒鞘。黒く染めた鮫皮に束巻と目貫も黒。黒一色の凄味のある刀装に豪奢な華やぎをもたらしているのは、重厚に織り上げられた金糸の下げ緒だ。決して華美にはならず、重々しく厳かな刀の姿を見せている。
貴之はその鞘から刀を抜き、角度を変えて灯りに照らしながら、刀身に映し出された肌と刃紋を見定めていた。
漆黒の髪を後ろに撫でつけ、黒々とした鋭い目で刀を手に取る貴之は、司の目には漆黒の刀の化身であるかのように見える。冷たい威厳に満ちて、迂闊に近づくものを斬り伏せかねない、この刀の。
「……良かろう」
長い吟味の末、貴之の口から出たのは短い及第の言葉だった。司は床に両手を突いて深々と頭を下げた。やっと認められたのだ。
十八の年に奉納刀を打つように命じられて、今年で九年目だ。何振りの刀を打ち上げても、神に捧げる刀に相応しからぬと、貴之は冷たく退け続けた。永遠に認めるつもりがないのではないかと思っていただけに、体中の力が抜けていきそうな気がする。
長く下げていた頭を上げると、貴之は無表情だったが、東雲の家の親族たちは皆一様に苦い顔をしていた。笑みを向けてくれたのは、貴之のすぐ隣に座る弟の和泉だけだ。司は僅かに笑い返した。
司がこの家に引き取られたのは八つの頃だった。身内が早くに亡くなったので詳しい話は聞いていないが、当主貴之が実子に恵まれず、私生児であった司が貴之の養子となった。
引き取った当初はよく可愛がってくれた貴之だが、年の離れた弟の和泉 が生まれて暫くすると、掌を返すように司に冷たくなった。離れに部屋を与えられ、食事も風呂も別。話しかけてもまともに顔を合わせようとせず、会話もない。
当主の意向を汲み取ったのか、それまで親身に接してくれていた親族もその頃から疎遠になり、今では腫れ物に触れるような扱いだ。衣食住で不自由をすることはなかったが、厄介者扱いされている空気は司を鬱屈させた。唯一の救いになったのは、弟の和泉だ。
親族中から何度止められても、和泉は司に懐いた。東雲の家業である刀鍛冶の道に進んだ司が父から厳しい叱責を受けても、和泉は味方であり続けてくれた。
この春中学を卒業する和泉は家業を継ぐことが決まっており、今日の披露目にも若い見習いの一人として参加している。次代の頭領はこの和泉で、司は職人の一人として残ることになるだろう。
「……では予定通り、来月朔日に奉納祭を執り行う。各々準備を怠らぬよう」
貴之の低い声が通り、親族が一斉に頭を下げた。
司は深々と頭を下げて、最後の一人が去るまでその姿勢で見送った。
東雲の家は、代々刀鍛冶であると同時に、古くからこの村の宮司でもある。
ここは四方を山に囲まれた寒村で、唯一の産業が周囲の山から豊富に採れる鉄を使った鍛冶と鋳物だ。戦国時代にはその鉄を狙った侵攻が数多くあったことから、余所者を受け付けない閉鎖的な空気が今も残っている。
この村の人間が今も崇めているのは、生活の根幹を支えてくれる山の神だった。宮司である東雲家を筆頭に、村の人間は山の主である狗神を祀り敬意を払ってきた。数十年に一度執り行われる奉納祭では神に捧げる刀を打ち、普段は禁足地となっている山の社にそれを納めに行くことになっている。先日やっと貴之に認めてもらった刀が、今回の奉納祭で納める刀だ。
司はその奉納祭で、刀を打ち上げた匠として巫覡を務めることになっていた。空が明るくなると同時に禊を始め、清めた体に神事のための神官装束を身に着ける。真新しい白の単に白い差袴、純白無紋の袍に袖を通し、頭には冠を載せた斎服の姿だ。
外に出ると、二十人からなる村の男衆が準備を終えて、巫覡の登場を待っていた。その集団の中には、本来ならまだ祭に参加する資格を得ない、若い和泉も混ざっている。
「準備は良いか」
厳かに声をかけたのは、宮司としての正服に身を包んだ貴之だった。司はその姿を感慨深く見つめた。
五十を半ばも超えた貴之は、その年齢にそぐわず若々しい。すらりとした細身の長身、艶のある射干玉の髪、細面の白い顔は非の打ちどころなく整っている。切れ長の両目は酷薄に見えるほど鋭く、高い鼻梁や形良い唇と相まって孤高の気高さを感じさせる。
幼い頃の司は、この父が大好きだった。
優しくて、理性的で、それでいて鍛冶仕事をするときには荒々しく力強い。炎の前で鉄を打つその姿に憧れて、司は刀工になると心に決めた。同じ道を進むことで少しでも父に近づき、認めてもらいたかったのだ。
和泉が生まれてからも、貴之は司をとても可愛がってくれた。それが変わってしまったのは、おそらく司が思春期を迎えた頃だ。
村には同年代の子どもが少ない。学校は山を下った町に通ったが、そこにもあまり多くの同級生はいなかった。司が性的な芽生えを覚え始めた時、目の前にいたのは美しい父だ。隠したつもりだったが気付かれたのか、貴之は司に離れを与え息子の和泉との接触も禁じた。
司より一回り年下の和泉は、父親の貴之によく似ている。
和泉だけではない。東雲の家の者たちは狭い村の中で血族婚を繰り返してきたせいか、皆似たような雰囲気を持っている。細身で筋肉質の長身に、日焼けを知らぬ白い肌。黒々とした髪と目に、鋭く整った容貌。
明るさを帯びた髪と、柔和な顔立ちを持つ司は明らかに異分子で、東雲の血を引いていないことは明白だ。だからこそ文句のつけようのない刀を打ち上げて、父と一族に認めてもらいたかった。
用意された輿に乗ると、桐の箱に収まった奉納刀を受け取る。
巫覡である司は山の神への捧げものだ。穢れを踏むことなく神域に入らねばならぬので、社の近くまでは輿に乗ったまま移動する。力自慢の若い衆がえいやと声を上げて輿を担いだ。途中休憩と交代を挟みながら、神の棲む山の社を今から参拝するのだ。
東雲の門を出て山へと向かいながら、司は輿の上から背後を振り返った。門の前には参拝を見送る一族の者が並んでいる。その中に貴之の姿もあった。
父に少しでも認めて欲しくて、何度駄目だと言われても刀を打ち続けた。九年目で納得がいく刀を打てたのだから、少しは褒めてもらいたい。誇らしげな顔で見送ってほしかった。
――けれど、司の目に入ったのは沈鬱な表情の父の貌だった。
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