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第2話

 参拝の行列は日が高くならないうちに村を出立したが、山裾にある一の鳥居に着く頃には日差しも随分明るさを増していた。暫しの休息を挟んで、一行は再び山を登り始める。  村の人間が日頃出入りを許されているのは、この一の鳥居より下までだ。ここから先は祭りの時以外は足を踏み入れることを許されぬ禁足地となっている。幸い鳥居の向こうには石階段が続いており、道に迷う恐れはなかった。  だんだんと勾配はきつくなり、輿の担ぎ手は頻繁に役目を代わった。社に着くまでは内緒で輿を降りて歩こうかと言ってみたが、首を縦に振る者はいない。神への感謝を示すための貢物には少しの泥もつけられないのだと、最年長の担ぎ手が司を諭した。  二つ目の鳥居が見えた頃には、日はすでに傾いて空を朱く染め始めていた。  神の通り道であるはずの鳥居の真下に浅沓が置かれ、司はそこで輿を降りて二の鳥居の内側に足を着いた。ここから先は神域だ。神職以外が中に入ることは許されていない。司は刀の入った桐箱を両手に捧げ持って、一人で参道を歩き始めた。少し登った道の先に、三つ目の鳥居が見えている。それほど遠くはなさそうだ。  慣れぬ斎服と浅沓に閉口しながら後ろを振り返ると、空の輿を担いだ男衆が山を下っていくところだった。  てっきり戻るまで待っていてくれるものと思っていた司は、それを見て動揺した。だが考えてみればもう日が暮れる。三の鳥居の先にあるという社の本殿に刀を納めて戻ってくる頃には、とっくに日が落ちてあたりは真っ暗になっているだろう。十分な備えもなしに夜の山を下るのは危険だから、きっと明日の朝迎えに来てくれるのだ。  腰を担いでいた最後の一人が、鳥居の向こうに立ち尽くしてこちらを見ているのが分かった。――和泉だ。  司が安心させるように頷いて見せると、人影は名残惜しそうに司を見つめながらも、他の若い衆に腕を引かれて視界から消えて行った。  玉砂利が敷き詰められた参道を、司は急ぎ足で登った。焦る気持ちを嘲笑うように、浅沓は歩きにくいことこの上ない。万が一にも転んで、奉納品に傷をつけでもしたら苦労が水の泡だ。だんだんと青みを増していく空を恨めしげに見上げながら、司は参道を急いで進んだ。  緩やかな坂を上り終えて三の鳥居の前に立った時、すでに空は暗くなっていた。だが灯り一つないことを心配する必要はなかった。鳥居の向こう側には大きな篝火が赤々と焚かれていたからだ。先に社に来て準備を整えてくれた人がいるらしい。  明るい炎は見るだけでも心強くなる。司はホッとして、三つ目の鳥居を潜った。  ――その瞬間、眩暈のようなものが司を襲った。 「……ぁ……」  何かに頭を掴まれて、上から揺さぶられるような感覚。だがそれは一瞬で消え去った。  刀を落とさずに済んでよかったと、重みのある箱を抱え直したとき、司はすぐ目の前に狩衣姿の神官が二人並んでいることに気が付いた。 「……」  思わず目を瞬いてその姿を凝視する。  白い狩衣に水色の差袴を穿いた二人の神官が、二人揃って犬の被り物をしていたからだ。白と茶の斑犬と鼻が赤い白犬の面は、まるで本物のように精巧だった。 「お待ち申し上げておりました」  言葉を発しにくそうなくぐもった声で、二人の神官が同時に言った。  あまりに驚きすぎて声もなかったが、そう言えばこの山に祀られる神は狗神(いぬがみ)だったと司は思い出した。祭りの時はこうやって犬面を被るのが、昔からの習わしなのかもしれない。 「……お山の神様に刀を納めに参りました」  あらかじめ教えられていた口上を述べて、司は深く礼をした。二人の犬面の神官は無言のまま頭を下げた。 「こちらへ」  神官たちに先導されて境内の奥へと足を進める。目の前の光景に、司は再び言葉を失った。  視界一杯に荘厳な本殿が広がっている。辺りは無数の篝火で照らされていたが、端の方は木々の闇に沈んでしまい見えない。これほど立派なお社が、山の上に建立されていたとは。  案内されて進んでいくと、大勢の神職がいることにも驚いた。着物に袴姿であったり、狩衣姿であったり。どの神職も、皆それぞれ自作らしき犬の被り物をすっぽりと被り、慣れた様子でそこらを歩いている。まるで獣人の世界にでも迷い込んだようだ。彼らは奉納刀を捧げ持つ司に気付くと、皆一様に裾を捌いて端に寄り、床に鼻面を擦りつけて平伏した。  広い社の本殿は寝殿造りの様式になっていた。野趣を凝らした庭や、池の鑓水が篝火に赤く浮かんでいる。その長い渡殿を進み切って東の対の屋に案内され、司はそこで待つようにと一人置き去りにされた。  どこか遠くから、幽かに記憶にあるような楽の音が聞こえる。それを聞くともなく聞くうちに、言いようのない不安が司を襲った。  司が通された部屋は、ざっと見ただけで五十畳近くある。い草の匂いも青々とした真新しい畳が、この部屋一面に敷き詰められていた。畳の縁は幅広の錦糸の刺繍で彩られ、贅を尽くしたものだということが一目でわかる。  禁足地の山の頂上にこれだけの広さの社があり、しかも昨日建てられたばかりかと思う程手入れが行き届いているというのは、とても考えられないことだった。――ここは、人が足を踏み入れてはならぬ異境なのではないか。そんな考えが頭をよぎる。  今すぐここを逃げ出すべきか。  だが外に出たとしても、社は山の頂上にある。石段を辿って降りるにしても、灯り一つ持たずに夜の山道を下るのは不可能だ。せめて村の灯りを確かめたいと部屋の外に出ようとした時、束帯姿の神官たちがこちらに来るところに出くわした。勿論、全員犬の被り物をしている。 「お部屋にお戻りください。これより奉納の儀を執り行います」  厳粛な声だった。  司はその声に気圧されるように部屋に戻り、刀の前に端座した。  犬の神官たちは、司の目の前に高杯の上に載せられた小さな盃を置いた。蛤の貝殻を模したその盃は、石を薄く削り出して作られたもののようだ。指で抓むように持つのがやっとの小さな器に、僅かに朱を帯びた液体が満たされていた。 「どうぞ、御酒を」  飲め、と目の前に差し出される。司は迷った。  黄泉の国で出されたものを口にしてはならぬとは、何の神話だっただろうか。得体のしれないものは飲めぬと突っぱねたかったが、目の前の盃から立ち上る匂いを嗅ぐうちに、だんだん頭がぼんやりしてきた。  まだ口をつけてもいないのに、平衡感覚が薄れてふわふわする。体の芯が酩酊したように定まらず、腹の奥からジワリと熱が上がっていくのが分かった。 「さぁ、どうぞ御酒を」  犬面の神官が司の手を取り、小さな盃を指先に取らせた。少し揺らしただけで中身が残らず零れてしまいそうだ。割れそうなほど繊細なその盃を、神官は司の唇に導いた。  飲んではならない――そう自分に言い聞かせた時には、石の盃が唇に触れていた。杯を傾けると甘たるい香りが鼻腔を満たし、冷たい酒がするりと唇の内側に滑り込んできた。  初めに感じたのは柔らかな甘みで、芳醇な香りが遅れてやってきた。飲み下すと果物のような爽やかな酸味を感じ、そのあと食道から胃にかけて焼かれるような熱を感じた。強いが、美味い酒だ。 「あぁ……」  まさに一口分しかなかった美酒を名残惜しく思いながら、司は両手で石の盃を高杯に戻した。  それを置いた途端――、全身から力が抜けて、司はそのまま前のめりに倒れ込んだ。 「……ぁ……」  意識はしっかりしている。ただ、操り人形の糸が切れたように身体のどこにも力が入らなかった。  犬面の神官たちはそれを見て狼狽える様子もなく、高杯を脇に除けると、司の身体を両脇から支えて立たせた。先に立った神官が奉納する刀を捧げ持ち、その後から司の両脇を抱えた神官たちが広間を出る。何か言いたくても声が出なかった。  もしも体の自由が利いていたなら、きっと叫び出していただろう。  間近で見た犬面は、ただの面ではなかった。瞬きする丸い目、音を拾って左右に動く耳、口の端からは鋭い犬歯の先が見え、匂いを嗅ぐ鼻は濡れていた。これほど精巧な作り物などありはしない。  ――悪い夢でも見てるのか……。  恐ろしさを声に出すこともできずに、司は力の入らない体を獣人たちに預けるしかなかった。  犬の神官たちが司を連れて行ったのは、御簾で仕切られた部屋だった。  控えの間らしきところに狩衣姿の犬の神官が座し、担がれてやってきた司を平伏して迎えた。その前を通り過ぎた衝立の先には、幅広の大きな床が延べてある。司の身体はそこに仰向けに安置された。  冠が外され袍を脱がされて、袴も取り除かれる。神官たちは司を単姿にすると、御簾を潜って部屋の外へと出てしまった。司は唯一自由になる視線を動かして、部屋の中を落ち着かなく見回した。  それほど広くない部屋の中には、螺鈿や蒔絵を施した贅沢な調度品が置かれている。床の間には掛け軸が飾られ、その下の鹿の角で作った台の上に司が持参した刀が置かれていた。  灯りは小さな行灯が床の間に一つあるきりだ。淡く頼りない光が格子天井に描かれた絵をぼんやりと浮かび上がらせている。ここは、貴人の寝室なのだろう。  どうしてここに連れて来られたのだろうか。その疑問は直ぐに明らかになった。背の高い人影が御簾を潜って入ってきたからだ。  その姿を見た時、司は小さく声を上げた。 「……お、父さん……」  口に出してしまってから、違う、と司は思った。白く端麗な顔が、惹き込まれるような笑みを浮かべたからだ。貴之の笑う顔など、ここ数年一度も見ていない。  司が横たわる寝室に入ってきたのは、長く艶やかな黒髪と獣のように鋭い双眸を持つ、丈高い美丈夫だった。一目見てお山の主なのだと分かった。なぜなら人間離れした美貌を飾る二つの目は、狼の目のような金色をしていたからだ。  司が持参した奉納刀の刀装も、黒ずくめの鞘と鍔に重厚な金糸で織られた下げ緒で飾られている。あの刀装はまさにこの神を象徴して作られたものに間違いなかった。  口を利けずに目を見開くばかりの司を眺め、社の主は鼻を一つ、すん、と鳴らした。  匂いを嗅いで、満足したように口元を綻ばせる。鋭く尖った犬歯が形のいい唇から零れた。 「随分待たされたと思うたが、まだ硬いおぼこであったか」  低く落ち着いた人間の言葉が、その口から放たれた。

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