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第8話

 意識を取り戻したときには、司は一人だった。  真裸で、いつもの黒い羽織すらかけられていない。ただ足の間に大量に撒かれた山神の体液がこれ以上ないほどの所有の証となって、他の山犬を寄せ付けないようだった。  頭の中が真っ白に焼き尽くされたような気分で、司は無惨に放り出された自分を憐れんだ。  孕み胎は、山神への生贄だ。  山神や他の山犬に獲物の如く弄ばれ、運が良ければ飽きた頃に村に戻されるし、そうでなければ嬲り殺される。それを黙って受け入れなければならないのだろうか。  司は奥歯を噛み締めて体を起こした。足の間からどちらの物とも知れぬ粘液が滴り落ちたが、あれほど激しく凌辱されたというのに痛みはなかった。見張りが居ない今が好機だ。動けるうちにこの社を抜け出して、どこか遠くへ逃げてしまおう。  行李をいくつか探ると、下男用の簡易な着物が見つかった。それを身に着け草履を履いて庭に出る。祭りの夜に見た光景を思い出しながら、司は社を抜けて一の鳥居を潜った。  山道を走り通しに駆け下ると、思ったよりも早く村の入り口まで降りてこられた。このまま町まで走っていけそうなほど体が軽い。人の居そうな場所を避けて一気に走り抜けるつもりだったが、村はやけに人出が多かった。特に東雲の家の者は全員外に出て何かを探しているようだ。  物陰に隠れて通りを窺っていた司は、後ろから小さく声をかけられて振り向いた。  そこにいたのは年の離れた弟の和泉だ。和泉は口に指を当ててシッと短く言うと、村の外れにある物置用の蔵を指さした。 「何かあったのか」  蔵に入った司は和泉に問いかけた。弟の和泉は周りを気にしながら答える。 「今朝早く、兄さんが社に奉納した刀が東雲の家に戻って来てたんだ。刀だけが戻ってくることってなかったから、皆何かあったんだと思って兄さんを探してる」  ひと月ほど会わない間に、和泉は前よりずっと大人っぽくなっていた。その口調は落ち着いていて、とても十五歳の少年の物とは思われない。  司は視線を古びた蔵の壁に逸らして訊いた。 「……和泉は、奉納祭がどういうものか知っていたのか」 「ううん、兄さんがいなくなってから聞いた……」  弟の沈んだ声を聞いて様々な思いがこみ上げ、司は口元を押さえて座り込んだ。 「兄さんは何も知らなかったんだよね。孕み胎のことも、奉納祭のことも」  すぐ隣に和泉が腰を下ろす。肩が触れ合う程近づいて、司はやっと理解した。  鼻に感じる香木に似た微かな匂い――和泉は長の性を持っている。  和泉だけではない。東雲の家の者はほとんどがそうなのだろう。少なくとも父の貴之は間違いなくそうだ。だからこそ司は父と弟に惹かれ、貴之は司を遠ざけた。 「Ωの性って聞いたことがある? 孕み胎はΩ性なんだ。年に数回発情期を迎えて、α性を持つ者と番って子を作る。――この村では昔から、孕み胎が生まれて成熟期を迎えたら、刀と一緒に山の神様に納めてきた。神様との間に子どもが産まれたらお役御免で、刀と一緒に村に戻される。でも戻ってくるのは大抵年を取って子どもを産めなくなってからだ」  司が打った刀は、今朝早くに村に戻されたと和泉は言った。つまり山神は司を村に返したのだ。鼻の奥がツンと痛くなる。  村に帰ると言ったのは司の方だが、こんなにあっけなく放り出されるほど嫌われたのだと思うと、胸の奥が苦しくなった。ギュッと握りしめた拳を、和泉の手が上から握った。 「父さんたちは、何か不手際があったんだと思って兄さんを探してる。見つけたら捕まえて、もう一度山に連れていくつもりなんだ。そうでないと山の神様の怒りを買うから……」  一回りも離れた弟が、いつの間にかすっかり大人の手のように逞しくなっていた。それにこの匂い――。 「山に戻らなくていい方法が一つだけあるよ」  弟の腕に抱き寄せられて、司は思わず逃げようとした。だが和泉の手は司を離さず、強い力で引き寄せてくる。和泉は司の身体を冷たい石の床に押し倒し、足の間に体を割り込ませてきた。  着物の裾が割れ、生身の腿に硬くなった和泉の怒張が触れた。 「僕の子を産んでよ、兄さん。他のαの番になって子を宿せば、山神様の御前に上がらなくて良くなるんだ。それにαとの間には孕み胎が産まれやすいって言うから、次に産まれた子を山神様に渡せばいい」 「やめろ……」  足の間に潜り込んでくる手を、司は押し退ける。だが若い和泉は諦めることを知らない。 「ずっと前から好きだった。兄さんからはいい匂いがする……甘くて、すごくいい匂いが……」 「それは、ッ……俺がΩで、お前がαだからだろ……ッ」  弟はΩの匂いに惹かれているだけだ。  司が父に惹かれたのも、山神に抱かれて悦んだのも、司がΩで彼らがαだったからだ。心の通い合いなど一欠片もない。ただ本能に支配される昆虫のように生殖行為をしただけだ。――それが、悔しい。  始まりはただの強姦だった。けれど何度も肌を合わせるうちに、司は山神から自分に向けられる労わりや愛情を確かに感じ取った。司の方から抱かれたいと願い、山神の温もりに安堵を覚えたこともある。なのにそれらはすべて錯覚で、本能に支配された生殖行為でしかなかった。 「……嫌だ……」  山犬に犯されかけたところを救われて、司は嬉しかった。あんなに頭ごなしに怒鳴られるのでなければ、山神にしがみついて恐怖と不安を癒されたかったのに。  東雲の家に居場所を見いだせなかった司は、山神の腕の中にそれを見出そうとしていた。少しは愛されているのだと思っていたからだ。 「拒まないで、兄さん。首に僕の歯型をつけさせて……」  口づけを避けると、代わりに首筋に顔を埋められた。匂いを確かめるように鼻を摺り寄せる弟から、司は身を捩って逃げようとした。だが引き戻される。首筋に所有の証を残そうと、和泉の手が司の首筋の髪をかき上げて――、止まった。  和泉の掌の下には、すでに歯形が刻まれていた。山神の牙によって深く刻み込まれた番の徴が。 「――そこまでだ。司から離れよ」  一陣の風が吹いた後、蔵の中には一匹の大きな山犬が居た。  長く豊かな漆黒の毛皮を纏い、両目は金。鼻を寄せた口元からは、白く尖った長い牙が覗いている。  大の大人の優に二回り以上も大きな体を持つ黒い山犬は、司と和泉の間に身を割り込ませると和泉の身体を押し退けた。和泉から司の体を隠すように立ち塞がり、朗々とした咆哮を放つ。 「東雲の子よ。里に戻したのは刀のみ、この嫁御は里には戻さぬ。――山に納める孕み胎は、司を以て最後とする。これは我が生涯ただ一つの番と成った……!」  言い終えるなり、山神は司の体を自らの背に押し上げ宙を蹴った。  逞しい四肢が大気の階を駆け抜けて、高く高く、山へと昇っていく。 「胎の子が産まれれば、人の子は里へ、獣の仔は社で育てる。好きに娶れ――!」  空を駆ける山神の首にしがみつき、フサフサとした豊かな首の飾り毛に顔を埋めるうちに、司の脳裏に幼い頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。  祖父に連れられてやってきた夜の祭り。疲れて眠り込んだ司を祖父は社に置き去りにした。  目が覚めた時傍らにいたのは黒く大きな山犬だった。山犬は大きな鼻づらで司をあやし、ふかふかの毛皮で温かく包み込んでくれた。  司の母親は早くに亡くなり、祖父にとって司は厄介者だった。父親の顔は初めから知らない。何処にも居場所のなかった司は優しい山犬に乞うたのだ。ずっとここにいたい、一人は寂しいから、と。  山犬は、大きくなったら山に迎えると約束してくれた。司がそう望むのなら、死ぬまで離さず側に置いて大切に守ってやると。――そうして背に乗せて空を駆け、自らの眷属である東雲の一族へと、将来の伴侶を預けたのだ。 「忘れて、た……」  すっかり忘れていた。  幼い頃に山神から何もかも聞いていたのだ。自分が孕み胎と呼ばれる性を持ち、山神の伴侶となる資格を持つことも。  胎が成熟して盛りを迎えれば、山に嫁いで山神の伴侶となる。山神と子を為し、それが人の姿を持つ子ならば東雲の家へ、犬の姿ならば山神の一族として育てて、村と一族の系譜を繋ぐ。役目を終えれば里に戻り、以後は人の姿を持つ子らに守られて生涯を終えるのだと。  同時に別の道があることも示された。東雲の家にいる長から番を探し、山には入らずに生涯を終える道だ。どちらを選ぶかと問われ、司は山犬の伴侶となることを選んだ。七つ、八つの子どもにとっては、見たこともない大人よりも優しい山犬の方が好ましく思えたのだろう。 「番となって思い出したか。それとも、胎に我が子が宿ったからか」  風を切る音に紛れることなく、山神の声が耳に届く。司はじんわりと温かみを帯びる下腹に手を当てた。先日までの発情の疼きとは違う、別の温もりを宿した胎を。 「だが、まだまだ種はつけるぞ。其方のおかげで我は二十年も独り身だった挙句、其方を喪えばまた独りだ。せめて多くの子を残してもらわねば寂しくてならぬ」  ただの伴侶にしておけば、村で生まれる孕み胎を迎え続けることが出来たのに、山神は司を番にした。山神が司以外を伴侶に迎えることはもうない。  山神の永い生を思えば、それはなんという重い決断か。 「うん……俺も、たくさん欲しい」  大勢の仔に囲まれる山神の姿が脳裏に浮かんだ。犬の仔と人の子。彼らに囲まれて、山神も司も寂しいなんてことは考える暇もなく過ごすだろう。その夢のような光景は、近い未来に現実となる。  高く飛翔していた山神が、緩やかに空を降り始めた。小さく見えていた社がぐんぐん近づいてくる。司付きの側仕えである花菱が、北の対の屋の前で着替えの衣を用意して待っているのが見えた。司の調度品が北の対の屋に運び込まれている。今日からは山神の番として生きていくのだ。 「帰ったらこの姿でまぐわおう。犬の姿なら、人の時の倍は昇天させてやれるぞ」  自慢げに言った山神の毛皮を、司は両手で引っ張った。 「これ以上昇天したら、ほんとに死ぬから!」  山神が吠えるように笑う。司も笑い、温かい毛皮の中に幸せそうに顔を埋めた。

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