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序章 1 愛しい人

 男は時折、腕の中で眠る彼のうなされるようなかすかな吐息に目を覚ませられた。 「……――様」  誰かの名を呼ぶ青年の声。  その名前は自分ではない。  うなされていることを物語る彼のひそめられた眉をのぞき込んで、男はそっと裸のままの背中を大きな手でなでてやる。そうすれば、青年は安堵したように再び深い眠りへと戻っていくのだ。  けれども、朝になって目を覚ます頃には、青年は自分がうなされていたことさえ覚えてはいないようだった。  金髪に青い瞳を持つ若い医師。  それが男の恋人だった。  出会いは、彼がまだ医学生の頃でたまたま大学病院に勤める友人に会いに来たときだった。 「僕は生粋の日本人ですし、両親も日本人ですよ」  ハーフかクォーターかと、不躾に問いかけた男に、まだ少年を脱したばかりといった風情の青年は穏やかに笑って応じたものだ。彼が行く先々で同じような扱いを受けたことが多かったのだろう。特に、男の物言いにも気分を害する様子もなく微笑する。  小鳥遊(たかなし)(のぞむ)だと名乗った。  そういえば、都内の一等地に大学病院とはいかないが、極めて規模の大きな総合病院があることを思い出したものだ。  その病院名は「小鳥遊総合病院」。  明治時代に正式にその看板を掲げて以来、多くの優秀な医師を排出してきた。大学病院でもないにも関わらず、そこには医師たちの教育機関も存在しており、言わば民間の総合病院にしては研究、技術、医療器具などすべてにおいて最先端のものがそろえられている。 「もしかして、君は小鳥遊総合病院の……?」 「はい、僕の親戚が理事長と医院長を務めています」  そんな少年めいた当時の彼を思い出してから、男は金色のさわり心地のよい髪に指を通してから頭皮を柔らかくなでてやれば、青年は無意識だろう鼻先を男の胸に押しつけるようにしながら規則正しい寝息に戻っていった。  彼が誰を呼んでいるのか。  それを男は知らない。  そもそも知ろうとも思わない。  今の青年が自分の腕の中にあれば、男にとってそれ以外のことはどうでもよいことだったのだから。  それから数時間後、明け方の日差しがカーテンの隙間からのぞき始めた時間になって、青年はぼんやりと金色のまつげを上げた。 「俊明さん……」 「どうした、俺はここにいるぞ」  希は目が覚めたときに男がそばにいないとひどく動揺する一面を持つ。  惚れた弱みと言うやつか、それを面倒くさいと思ったことはない。  青とも水色ともいえない瞳で見つめられて、俊明と呼ばれた男は柔らかな微笑をたたえた。  表向きは、沢村商事株式会社の代表取締役ということになっている。  不安そうな光が揺れる希の瞳。  それを目にするたびに、沢村は青年を放っておけなくなるのだ。  たとえ、男が極道と呼ばれる闇に沈む社会に片足を突っ込んでいる立場であったとしても、である。 「……」  俯くように押し黙ってから、彼は額を沢村の胸に押しつけて背中に回す腕に力を込めた。男にしては細いし、外科医としても決して頑強とは言えない体格の、華奢とも呼べなくもない体格を、沢村は抱き直す。 「どうした」 「……――怖い、夢を見たような気がします」  それもそのはずだ。  昨晩、青年に求められるままに行為にふけった後、気絶するように眠りについた希は、やはりうなされていたのだから。  男――沢村俊明が、その体を抱きしめ、なでさすってやってようやく悪夢から解放されたように深い眠りへと返っていったことを、希自身は知る必要もないことだ。  少なくとも、沢村はそう思っている。 「気のせいだ、昨晩は俺がだいぶ疲れさせたからな。そのせいだろう」  気休めの足しにもならないような言葉を告げてやれば、希はどこかほっとした様子で猫のようにすり寄ってくる。  お互いに出勤時間が近い。  いつまでもこうしているわけにもいかないが、いつものことではあるもののこの短く忙しない朝がひどく名残惜しく感じられるものだった。 「希、そろそろ病院に行く準備をしろ。シャワーを浴びて着替えておいで」 「……はい」  気怠げに上半身を起こした青年は、強くたくましい腕に引っ張られて、腰を抱かれるようにしてそのまま浴室へ連行される。  まだ快楽の残滓の残る体を丁寧に洗われて、希はその手の心地よさに目を閉じた。 「寝るなよ、先生」 「わかっています」  浴室から出ると、普段通りの着流し姿に戻って、ゆっくりとした彼を急かすわけでもなく、先に風呂場から上がって、ワイシャツ姿になっていた沢村の均整のとれた背中に見とれていた。  病院でこそ、ほかの医者たちと同じようにケーシーを身につけているが、希の普段着は完全に和服だった。  いつだったか、正月に沢村が希の羽織袴姿がみたいと言った時には、見事な出で立ちを彼に披露したものだ。 「飯は食っていけ。お医者の先生が患者の前でぶっ倒れでもしたらしゃれにならんからな」 「そんなことにはなりませんよ」  苦笑して応じた希に、沢村は肩をすくめてから焼いたパンと簡単なサラダと、紅茶を彼の前に並べてやる。 「いただきます」  向かい合うようにテーブルについた沢村は上品にサラダを口に運ぶ彼の所作を見つめながら、左の肘をついたままでパンを自分の口元に運んだ。  今では、希の家庭の事情とやらにも慣れたものだが、うっかり希に「わたしの恋人です」と、家族になんでもないような顔で紹介されたときには、いろいろな意味で面食らったものだった。  希の父親は「そうか」と、言ってから、「確か、賢正会の理事長さんだったと記憶しているが」などとさらりと言われた時にはさらに驚いた。その上、母親に至っては「ふつつかな息子ですがよろしくお願いします」と、父親の言葉を聞いた上で三つ指をつく始末である。  賢正会の理事長――つまるところやくざのナンバーツーでもある若頭であることは明白であろうはずが、希の両親はそんなことに全く動揺しなかった。 「あー、その人知ってる、希が医学生の時に通ってた大学病院に来てた人だよね」  姉らしき若い女がちらりと廊下から顔を出した。  希とは全く性格が違うのか、パンツスタイルで片手にはヘルメットを抱えている。 「ちょっと、京都まで行ってくるから」 「あぁ……、”例”の件か。気をつけて行っておいで。鯉華(りか)さんは手練れだが、それでも畑違いとなると、専門家が必要だからな。くれぐれも鯉華さんの足はひっぱらないように」 「わかってるって」  希の家族と顔を合わせたのはそれきりだ。  妙な家族だとも思ったが、そこは沢村も特に追求はしなかった。  なぜなら、時期がくれば希が自ら話してくれるだろうと、感じていたこともある。そもそも、そんな一般家庭に顔を突っ込むのは俊明の最も苦手とすることだった。  病院の近くにマンションの一室を買って住んでいる希だが、月の半分はだいたい沢村の部屋に訪れており、ほぼ半同棲状態となっている。  完全に同居に踏み切れないのは、沢村が極道者ということもあり、危険が希に及ぶことが考えられるためだ。自分がそばにいるときであればよいのだが、そばにいてやれないことだってある。  そんなときに、希に自分の居場所がなければ、行く当てを失ってしまうだろう。 「なにか?」 「いや、キレイなもんだと思ってな」 「ありがとうございます」 「飯食ったら、病院まで送って行ってやる」 「はい」  かなり特殊な事情の家庭に生まれた、見栄えのよい青年に心を奪われ、そうしてその青年もまた自分に思いを寄せていてくれていることがどれほど喜ばしいことなのか、それを沢村は口の中に放り込んだパンと一緒にかみしめる。  沢村は、希が傷つくようなことがなければそれでいいと思っていた。 「俊明さん」  食事を終え、出勤の準備を整えた二人がマンションの部屋を出ると鍵をかける男の背中に希が呼んだ。 「なんだ?」 「お仕事で、あまり無理をなさらないでください」 「わかってるさ、心配するな」  あやすように希の肩を抱き寄せて、玄関からまっすぐ続くエレベーターホールへと向かった。 「おまじないです」  そう言うと、希はそっと沢村のあごの下に唇を押しつけた。  ――おまじない。  そう言って、別れ際に希はキスをする。  人によっては希に口づけられた場所にキキョウらしい花のの紋章が浮かんで見えることがあるらしい。 「俺も、おまえにおまじないをしてやろうか?」  意地悪く問い返す沢村に、キスを終えて男のあごの下から唇を離した希の頬にかっと朱が浮いた。 「……い、いいですっ、俊明さんにキスをされると仕事どころではなくなってしまいます」  強引に抱き寄せる男を押し返すようにしながら、エレベーターの中でもみ合っていると、チンと音を立てて、エレベーターが一階に着いたことを告げる。 「おはようございます」  沢村の側近の大男が頭を下げて、ちらりと希を見やる。  大男にとっても希にとっても、すでに互いに気を許した間柄だった。 「中谷、小鳥遊総合病院までやってくれ。その後にオフィスへ向かう」 「承知しました」  胸ポケットのサングラスをかけてから、ベンツの後部座席の扉を開く。  先に助手席の後ろの席を陣取った沢村に、いつもなにか言いたげな視線を送る中谷だが、いつも結局何も言わずに運転席の後ろに希が座るのを認めている。 「今日もおまじないをされたのですか?」 「……っ!」  問いかけられて驚きのあまりむせ混んだ小鳥遊希に、沢村は鼻を鳴らしてから意地悪く中谷を見やった。 「こいつのおかげで、サツにつけ回されずにすんでるんだ、あんまり邪険にしてやるな」 「邪険にしてるつもりはないのですが……」 「希はお坊ちゃんだから、おまえみたいなデカ物に詰め寄られると動揺するんだよ。少しはわきまえろ」 「……はい、失礼いたしました」  こうして、変哲のない恋人たちの朝は終わりを告げ、ふたりはそれぞれの「日常」へと戻っていく。  まだ早い時間。  病院は静かな時間だ。  着流し姿の外科医は、草履で音もなく通用口から入ると、更衣室でケーシーに着替えて、少し伸びた金色の髪を手早くまとめてかんざしできつく留めた。  脳神経外科の医局に入ると、当直だったろう同僚の医師に「今日も早いな」と出迎えられた。  外科医としてのハードな日常に希は戻っていく。  ひとときの、愛情に満ちた夜をそっと胸の内に抱きしめて。 「早起きは三文の得、と言いますから」  医師として、彼にはやらなければならないことがあった。極道の恋人がいたとしても、希は医師なのだ。

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