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2 嵐の前

「理事長、僭越ですが、あの人のことはどう思っていらっしゃるんですか?」  沢村俊明の運転手でありボディガードであり、ナンバーワンとも言える側近中の側近は、サングラス越しでもわかるほど理知的な瞳をちらつかせた。 「かわいいやつだと思ってるよ」 「……そうですか」  中谷克也。  彼も一流大学の出身で頭の切れる弁護士だ。つまるところ、事実上組弁護士というやつだったが、彼にはそれなりに複雑な事情があった。元来、天才肌の秀才で大学在学中に司法試験に受かり、両親の影響もあって正義を守るための職に就きたいと強く希望していた。しかし、運命というものは残酷なもので、弁護士だった彼の父と、検事であった母親を賢正会に敵対する暴力団の襲撃に遭い、中谷克也ひとりを残して、父母とふたりの妹を失った。  茫然自失の渦中にあった、彼に手をさしのべたのが、当時賢正会の理事長補佐――要するに若頭補佐――であった沢村俊明だったというわけだ。  彼の手によって中谷の復讐は果たされ、それからいわゆる組弁護士という立場で法廷では常に検事や警察官たちを相手に激しい攻防戦を繰り広げている。 「中谷こそ、そろそろどっかにいい嫁さん候補でもいないのか?」 「……わたしには、そういった縁はなかなかありません。もしかしたら、まだ妹たちが嫁入りすらできなかったことに未練があるのかもしれません」 「そういえば、かわいい妹さんたちだったな」  双子の中谷の妹。  死んだ後にその姿を見た沢村には、どちらが姉でどちらが妹なのかもわからないほどよく似ていた。 「ありがとうございます、理事長にそう言っていただけるだけで妹たちも救われます」  普段、組員たちの前ではこうした感傷を決して見せることのない中谷だけに、沢村の前でだけ見せる繊細な部分は珍しいものだ。 「……それに、”あれ”も”あれ”だけに複雑な家庭環境に置かれているやつだ。どうも危なっかしくて放っておけない」  ――わたしの一族は、全国に散っていますが、血族婚でしか子供を残すことができないんです。ですから、血族外の人を好きになってしまったときは、体を交えないという覚悟があるか、それとも女性でしたら自分の命を捨てる覚悟をしなければなりません。……男だってそうです、愛した女性を目の前で自分の子供のふたりを失うのは想像を絶する苦痛です。ですから、血族外の異性を恋愛対象にすることは絶対にないんです。  いつだったか、恋人という関係を結んでから、小鳥遊希は情事の後にぽつりとそう漏らした。  俺を好きになったのもそういう事情か? と、沢村が問えば、そこについては驚いたような顔を上げて鮮やかな青い瞳を見開くようにして固まった。 「それは……、違います」  わたしが、あなたに恋をしたんです。  やがて象牙色の肌を耳まで真っ赤にしてささやきに近いほど小さな声でつぶやいた。沢村は、そんな希が誰よりもかわいいと思う。  元々、両性愛者である沢村俊明だったが、小鳥遊希という特定の恋人ができてからは、遊びでつきあっていた男女とはばっさりと手を切った。  なぜだか、沢村らしくもなく希を悲しませたくないと思ったからだ。  今まではどんな美女であれ、美男であれいくらでも傷つけておいてなんとも思わなかった冷徹な人間だったはずだというのに、希と出会ってから沢村の世界は完全に変わってしまった。  彼を悲しませたくない。  彼が傷つく瞳を見たくない。  ――そう思った。  意味深な希の言葉を思い出す。  彼の血族に隠された謎というやつを、知りたくないわけではないが、希が好き好んで話そうととしない以上、それ以上追求する必要もないと沢村は思っている。なぜなら、沢村が希に自分の裏の顔など彼には見せたくない。きっと彼の胸の奥に秘められた秘密というものはそういったたぐいのものなのだろうと、理屈ではなく直感的にそう感じていたからだ。  なによりも、引っかかるのは数年前に紹介されたときの、希の両親と姉の反応だ。  沢村俊明が賢正会の理事長だと知っていてなお、恋人であるということを由とした。  小鳥遊――あの家系にはなにか常人では知ってはならない事情が隠されている。それは、極道としての人生を切り抜けてきた沢村の言わば直感とも言えた。  希自身にはともかく、あの家系には関わってはならない。  沢村はそう感じた。 「不思議な方ですね」  中谷がステアリングを操りながらぽつりとそうつぶやいた。 「あぁ?」 「いえ、悪い意味ではありません」 「我々を見ても全く恐怖を感じてないようだ」 「そうか? 買いかぶりだと思うぞ? あいつはいつも結構真剣におまえらのことを怖がってるからな」 「では、理事長がいるから安心していらっしゃるんでしょうか」  苦笑めいた物言いに、ふと沢村の瞳が冷めた。 「”それならいいがな”」  意味深長な賢正会の理事長の言葉に、中谷はサングラスをした視線を肩越しに送った。今ひとつなにを考えているのかわからない沢村けれども中谷は追求しない。それは、中谷の権限を越えるものだとわかっていたからだ。  沢村の内心など中谷が知るべくもない。 「理事長は、極道には不似合いなほど優しい方ですよね」 「うるさい」  間髪入れず素っ気ない言葉を返されて、フロントガラスの向こうを見つめたままの視線をそのままにして、中谷は唇の端だけでほんの少しだけほほえんだ。その笑みは、他人が見れば笑っているとはとても言えない代物だが、極道者にしては存外柔らかなものだった。   *  ――賢正会。  広域指定暴力団に指定されたその存在は常に警察組織にとって目が離すことのできない存在だ。  沢村商事株式会社――。  賢正会の表の顔のひとつであり、そのトップを務めるのが沢村俊明だ。  沢村の補佐役を務める常磐(ときわ)幸哉(こうや)という男は歌舞伎町で数多くの風俗店の元締めをしているが、実際、沢村俊明と常磐幸哉が表立って顔を合わせている場面は未だに押さえられずにいる。  沢村にしろ、常磐にしろ、いずれも頭の切れる男で、賢正会の幹部に成り上がるだけの素質は十二分に持っていた。  用心深く、慎重だ。  強面の男は、火のついていないたばこを口にくわえながらスチール製の事務机に腰を下ろして何事か思案していたようだったが、ふと口を開いた。 「小鳥遊総合病院の医者が、沢村の愛人だって線が濃厚なんですがね、任同かけてもいいですかね?」 「医者? 裏はとれてるのか?」 「えぇ、週の半分くらいは沢村のところに通ってるらしく、沢村の車で送り迎えをされているのを何度も確認しています」  もっとも、相手は男ですが。  そう付け足したのは組織犯罪対策部の刑事だ。  暴力団相手と言わんばかりの強面は、組対屈指の腕利きだった。 「それで、谷口。おまえのことだからその”愛人”とやらの素性はとっくに調べてるんだろう?」 「もちろん」  ひらりとクリップで留めた書類を肩の上で振る谷口と呼ばれた刑事は、そこでやっと自分の事務机から降りると部長のデスクの前まで移動する。  居丈高な態度が問題もある男だが、刑事としての腕はずば抜けており同僚たちからも一目置かれている。 「こいつです」  金髪の、象牙色の肌の青い瞳。  隠し撮りなのか、着流し姿に少し伸びた髪を女のようにかんざしできつく留めている。なかなかの美青年だ。 「茶道家の小鳥遊(たかなし)颯:(はやて)の長男で、小鳥遊希といいます」 「小鳥遊颯?」 「兄弟は姉がひとりいます、派遣の事務職で国内をあちこち飛び回ってることが多いみたいですね」  その名前を聞いた瞬間、部長の顔色――というよりも目つきが変わった。 「おい、谷口」 「はい? 沢村はともかく、”そっち”はやめておけ」 「そっち、と言いますと?」 「だから、小鳥遊のほうだ。小鳥遊には手を出すなと言ってるんだ。おまえにはただの医者に見えるだろうが、警察庁の方ではちょっとした有名人だ。手を出せば”おまえ”も、”俺”もどうなるかわかったもんじゃない」  諭すような口ぶりで言われたところで正義感の塊のような男が納得できるわけもない。そもそも理由もなく任意同行を否定されれば言うに及ばずである。 「どういうことなんです? 小鳥遊希に任同かければ沢村と常磐の尻尾をつかめるかもしれないんですよ」 「そういうことじゃない。小鳥遊希は確かに小物だし、さして重要でもない。たたけば埃のひとつも出るだろうさ。だがな、それだけのために小鳥遊希に任同をかけるには少しばかりリスクがでかすぎる」  それに、ただの愛人に沢村が組織内部のことを話すとは思えんからな。  そう続けてから、組織犯罪対策部の部長は顎に手を当てて考え込んだ。 「恐らく、小鳥遊希と常磐のつながりはないだろう。とにかく、小鳥遊希には手を出すな。もっとも、個人的に親しくする分には問題ないだろうがな」  回りくどい言い方をする課長に、眉をひそめた谷口は、唇をへの字に曲げてからふてくされたような表情で「承知しました」とだけ言った。  現場で捜査する人間としては当然だ。  その気持ちは課長にもわかっているはずだ。  それでも尚、小鳥遊希に任意同行をかけるのは得策ではないと言うのはやはり何か得体の知れないものがうごめいているということなのかもしれない。  納得のいかない顔のままの谷口に、クリップで留めた書類を突き返しながら部長はひらひらとそれを振った。 「俺に深く追求しないでくれよ。ただ、この一件はおまえの胸の内に納めておけ、とだけ言っておく」 「わかりました、でも」 「なんだ?」 「個人的に親しくなる分には問題ないんですよね?」 「そりゃ、プライベートにまで上司の俺が口を出すべき問題じゃないからな。もっとも、ミイラ取りがミイラにならんように気をつけておけ。沢村だって間抜けじゃない。自分の情夫(いろ)に手を出されたとなれば、手段を選んでこないだろうからな」 「友人の範疇で認識してもらえるように努力しますよ。それに、俺には男をどうこうする趣味はないですからね」  答えた谷口の言葉に、部長のほうはと言えばなにも言わずに肩をすくめただけだった。 「俺にも昔、女房がいた」  そういえば彼は結婚指輪をはめている。  「いた」ということは、過去形だ。  つまり、すでに彼の妻は死んでいるのだろう。 「名前を小鳥遊(しゅん)と言ってな、結婚して山崎隼になって一年くらいたった時だ。隼は決して子供を望んでいなかったから、俺とは細心の注意を払って子供ができないようにセックスをしていた。だが、コンドームをつけてたって、どうにもならないこともある。あいつもピルを飲んでいたしな。それでも、女房は妊娠した。妊娠三ヶ月で、容態が急変して”ふたりとも”死んじまった。……それでも、隼の両親は俺を責めなかった。ただ、隼の両親は俺にただただ「申し訳ない」と繰り返していた。「君の子供を奪ってしまったのは我々の責任なのだ」と」  部長が妻と子供と死に別れていたことに驚いたが、その妻の名前が小鳥遊だったということに谷口はさらに驚いた。  そこで初めて部長が彼になにを言いたがっているのかがうっすらとわかってきたような気がした。  小鳥遊家にはなにかがあるのだ、と。  だから細心の注意を払えと、そう忠告しているのだ。 「わかりました、心に留めておきます」 「楽観的になって小鳥遊の人間とつきあうなよ。それだけが俺に言える忠告だ」 「そういえば、小鳥遊と言えば、一課のほうにも確か小鳥遊って女の刑事(でか)がいましたね」 「あぁ、なんだったか小鳥遊桜龍(おうりゅう)だったか。警察にも小鳥遊が食い込んでくるもんだとちょっと珍しいなとは思ったから覚えてるな」  それだけではない。  いや、よく覚えている。  妻との結婚式に見かけた少女のこと。もう軽く数十年だ。彼女だって今更、山崎のことなど覚えていないだろう。  妻と同じ名前――小鳥遊。  なによりそんな変わった名前があちこちにごろごろしている現実に、なにか嫌なものを感じて谷口は黙り込んだ。警察の人間としてはもどかしいことこの上ないことであるが、世間は余りにも犯罪があふれていた。  なにかが始まるような予感を、谷口は張り詰めた空気に感じ取った。

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