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3 桜龍
長い髪、ほっそりとした面 。
両目を思わずえぐり出したくなって、うつろなまなざしと半開きの唇のままの顔はわずかにのけぞり、彼女にはすでに息がないことを物語る。
男はその唇にそっと指先で触れてから、自分が残した首の縄のあとを何度もなでた。
長くまっすぐな黒髪はまるで昔ながらの大和撫子のようで、その瞳が恐怖に引きつる様を見るたびに、そして唇から引きつるような音が漏れるたびに、性欲が満たされ、興奮していることを感じさせられた。
女を殺すことで、自分はまだ生きているのだと、底の暗い歓喜に満たされた。
犯人は現場に舞い戻る――。
そんな警察内部のジンクスすらくだらないと思う。
だから彼は好きなときに殺し、好きなところに捨てた。
女を拉致し、監禁してから恐怖に突き落とし、その絶望に満ちた眼差しを堪能してから殺すのだ。
思わず、暗い笑い声が口から漏れた。
*
ひらりと長い髪が風に舞う。
後頭部から後ろにかけて一房と、顔から右横の一房だけが色素が抜けた独特の容姿をしている。思わず目を奪われるのは白灰と藤色の異なる色の瞳だった。
「待ってください、高橋さん」
「おまえはそこらのOLかっつーの。飯はさくさく食えよな」
「だって……」
「だってもへったくれももあるか、馬鹿野郎」
「もう……、ちょっと最近親父臭いですよ」
和服姿はそれほど珍しいものではないが、大学の卒業式を思わせるような袴を身につけており、それが少しばかり町並みから浮いている。
もっとも、いわゆる女袴ではなく、自由に足を動かすことが可能な昔ながらの袴である。今時そんなものを身につけているのは剣道でもやっている女性くらいかもしれない。
「うるせぇ、おまえに言われなくたって今更自覚してるんだってーの!」
だいたい三十歳を超えた男を捕まえて、親父臭いもなにもあったものではない。
長い髪の女は異例の出世コースを邁進した女性刑事で、捜査一課では高橋和仁警部とバディを組んでいる。階級は警部補だが、その武術の腕前はバディを組む高橋でさえ舌を巻くものがある。
少し年下の女は、前屈みになってむっつりと眉間にしわを寄せている男をのぞき込んでほほえんだ。
「ご飯食べるの遅くてすみません」
いつもこの笑顔にほだされる。
とても捜査一課の刑事とは思えない物腰の柔らかさと、優しげな笑顔に冷たく非難するような言葉が出てこなくなる。犯罪者相手であればいくらでも暴言が出てくるというのに、だ。
そもそも、彼女が一流大学を出て、国家公務員第一種試験を受けるだけの優秀さを持っているらしいという話も聞いていた。なんとはなしに、話のついでで聞いてみたことがあった。
「おまえの頭なら、キャリア組にいけたんじゃねーの?」
そういった高橋和仁に、彼女は横に首を振った。
「わたしは、……――ですから、やりたいようにやろうと思ったんです」
かの泣くような声で答えられて、最も肝心だろう部分をうっかり聞きそびれた。
そんな数年前を思い出して、大きなため息をついてから、男は大きく空に腕を伸ばして背中を伸ばす。
「確か、じいさんが厳しくて、がっついて食べるのはお里が知れるからやめろって言われたんだったっけか」
「じいさん、じゃありません。おじいさま、です」
「そんなことどうでもいいんだよ」
ほれ、聞き込み行くぞ。
歩き出した高橋に女は並んで歩き出す。
「なかなか犯人が絞れませんね」
「あぁ、……こう現場が点在してるとな。所轄もばらばらだし、やりにくくてしかたがない」
ぼやいた彼は、後ろから女が着いてくることを確認するように背後を振り返ると、やはりぱたぱたと草履をはいた足で走ってくるのが見えた。
高橋は高橋でゆっくり歩いているつもり、なのだが、事件のことを考えながらとなると、互いのコンパスの差までは考えが至らなくなる。
「遅いぞ、りゅー」
――なんだこりゃ、舌噛みそうな名前だな、小鳥遊 桜龍 だって? 本名か? これ。
「すみません……!」
今度こそ置いて行かれそうな勢いの男に、桜龍は風になびく髪を押さえて笑った。
「りゅー、おまえ、年間何人の失踪者が出てるか知ってるか?」
「八万人でしたっけ?」
その中の誰かが、この薄気味悪い連続女性誘拐殺人事件に巻き込まれているのだろうと考えると、それだけでぞっとする。
いったいどこに彼らは消えてしまうのだろう。
「さすがの大卒だな」
「もぅ、茶化さないでください」
「おまえも、……ろよ」
「……え?」
ざっと木々の葉を揺らして風が鳴った。
そのせいで聞き取れなかったのか、桜龍が聞き返す。
「……気をつけろって言ったんだ。いくら、刑事でもおまえだってターゲットの年齢層なんだからな」
照れ隠しのように早口に告げて、「あぁー……、もう」と自分の頭をがしがしとかき回した。
女性は、警官であっても女性であると言うだけでなめられる。それはやむを得ないことなのだが、捜査一課の刑事ともなれば、危険もまたつきものだ。
どんな危険にさらされるかわからない。
「あ……、ありがとうございます」
柔らかな物腰だけを見ればとても武道の達人には思えない。しかし、高橋和仁は小鳥遊桜龍と組むようになってからその検挙率は急速に上がっていった。
彼女は、捜査の空気をよく心得ているし、そして、何よりも桜龍の実力がなければ、高橋は何度殺されていたかわからない。それほどまでに、彼女に彼は助けられたと言っても過言ではなかった。
そんなバディの相手から、気遣われたことに驚いたのか、満面の笑みを浮かべて「はい」と頷いた。
認められている。
それがたまらなくうれしいらしい。
「……あ」
聞き込みをしている最中に、桜龍が足を止めて声を上げた。
「どうし……」
どうした、と最後まで言おうとして、高橋が固まった。
黒いベンツの後部座席のドアを開いて、その車内から出てきた金髪碧眼の美青年と言葉を交わしている男には見覚えがあった。
「希さん……!」
「沢村……」
同時に高橋と桜龍の口から異なる名前が飛び出した。
大股で早足にどかどかと歩き出した、高橋は脅す口調になってベンツの車内にいる男をにらみつけた。
「今度は何の悪事の相談だ? え?」
「おや、これは」
鋭い眼差しの刑事に臆する様子もなく、車内の男――沢村俊明は悠然と口元をほころばせた。
「悪事とは失礼にもほどがあるんじゃないか? 高橋警部? 俺はただ大切な恋人を自宅に送り届けただけだ」
「そもそも。ここは駐停車禁止だ。道交法違反でしょっ引くぞ」
「あ、あ、……あの、僕が悪いんです。送っていただいただけで、俊明さんはすぐに出るつもりだったんです」
男たち三人の声が入り乱れる中、不意にパンっと紙を打ち鳴らすような音が響いた。
「高橋さん、わたしたちが捜査しているのは別件のはずです。沢村さんは確かに組織犯罪対策部で目をつけられている方ですが、高橋さんはわたしが食事が遅いことをさんざん怒っていたじゃないですか。それなのに、こんなところで油を売っている暇はないと思います。そして、沢村さんのほうですが、ここは確かに駐停車禁止になっているはずです。ただでさえ警察に目をつけられているんですから、あなたのように頭のよい方がそんなつまらない別件逮捕なんてされたくないんじゃありませんか? そして、希さん。希さんも恋人が警察に目をつけられているような人だと知りながら、ぼーっとしているのは恋人に失礼じゃありませんか?」
割って入ったのは、桜龍が扇子を打ち鳴らした音だった。
それから怒濤のように一気に言い放ってからにこりと笑った。
「それもそうだ、ここは駐停車禁止だったな。今後は交通課のお巡りに目をつけられないように気をつけることにしよう。お嬢さん。では、希、また週末に。高橋警部もそんなにぴりぴりしていると血圧が上がって脳の血管が切れるから多少は目をつむってくれるとありがたいんだが。それにお嬢さんが言っていた通り君らは捜査中なんだろう? 極道につけ込む隙を与えない方が賢明だ。中谷、出してくれ」
「はい」
静かに走り出したベンツを見送ってから、希と呼ばれた青年は困惑した様子でぺこりと高橋と桜龍に頭を下げた。
「申し訳ありません、桜龍さん」
「いえ、わたしこそ逢瀬の邪魔をしてしまったようですみません」
「そんなことありません、僕の配慮が欠けていたんです。それより、桜龍さんはその後、お体のほうには何も変調はありませんか?」
「わたしは今のところ大丈夫です、年明けに、おじいさまには”今年は気をつけるよう”って言われましたけど」
「そうなんですか、では、何事もなく年を越せると良いですね」
希は桜龍にそう言ってから、今度は高橋のほうに向き直った。
「本当に、僕の配慮を欠いた行動で大変ご迷惑をおかけしました。本当に俊明さんは長居するつもりはなかったんです」
「別にあんたのことは責めちゃないさ。だいたい警察に目をつけられるようなことをしてるあの男が悪いんだからな。……まぁ、ひとつだけお節介なことを言わせてもらうと、相手は選んだ方がいいと思うぜ」
誰に恋をするのもその人間の自由だ。
その相手がやくざ者であったとしても、人間は孤独では生きていくことなどできはしない。
沢村が金髪碧眼の美青年を選んだのか。
それともその逆なのかはわからなかったが、それでも、沢村のような危険な男の恋人であるというのは本人のためにもならないと思った。
そんな高橋の思いをくみ取ったのか、苦笑して金色の髪を掻き上げた青年は視線をさまよわせてから、結局何を言えば良いのかわからなかったらしく、そのままぼそぼそと礼のようなものを言って自宅だというマンションに足を向けた。
「……おい、りゅー。あれって?」
「遠縁の従兄弟です。小鳥遊希さんって言うんですけど、ほら、小鳥遊総合病院の外科の先生なんですよ」
「へー……、おまえと違って名前は普通なんだな。ちっと女っぽいけど」
「希さんみたいな名前を持つ人が、わたしの家系では珍しいんですけどね」
相変わらずの笑顔でそう言って、高橋に気づかれないように小さく息をついた。
希のように、生まれてくることができれば良かった。
桜龍はそう思う。
名は体を表す。
小鳥遊家では、伝統的に名前に強い意味が込められている。
「……わたしは、希さんがうらやましかった」
口の中で声にすることもなくつぶやいて、桜龍はそのあたりの事情を全く理解していない生粋の刑事の瞳に視線を向けた。
「わ、たし……」
声が掠れる。
希になりたかった。
希のような存在が小鳥遊家にいると知ったときは、どれほどうらやんだことだろう。
「りゅー?」
「……なんでも」
なんでもない。
そう自分に言い聞かせるようにつぶやいて、それでもこらえきれない涙がぱたりと落ちた。
「おい。りゅー、なんでおまえが泣くんだよ」
「すみません、こんなところでこんな時に、あこがれの人に会ったから、驚いてしまって……」
嘘ではない。
できるなら彼になりたかった。
桜龍は袖で目元をぬぐってから奥歯をかみしめた。
今は仕事中で、希をうらやんでる暇などないのだ。刑事のひとりとして、職務を全うしなければならない。
「大丈夫です、心配しないでください」
「ほんとに大丈夫か? おまえ、今日は早めに上がるか?」
高橋に気遣われてかろうじて笑みを見せる桜龍は「聞き込みを続けましょう」と、かすかに震える声でそう言った。
今は刑事がのんびりとしていられる場合ではない。
次の犠牲者を出してはならない。
連続女性誘拐殺人事件を止めなければならないのだ。
私情に流されるのは禁物だった。
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