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2 おおとり

 車を停めるよう指示したのは桜龍だった。  「響き合う」という言葉はまだ高橋和仁には理解ができない。  助手席の扉を開けた彼女は草履をはいた足を外に下ろして当たり前のような表情のままで、刀袋に収められた日本刀を手に取った。 「手分けして痕跡を探しましょう」  山と言うよりは小高い丘だが、考える以上に背の高い木が無造作に生えている。まるで樹海に分け入ったような感覚に陥りそうになる。 「迷わないように気をつけてくださいね」  苦笑しながら、彼女が告げる。 「おう」 「このあたりには、昔、鉱山があった名残で転々と廃墟がありますので、どこかに潜んでいると思います」 「……なるほど」  車が停車したところからすでに舗装されていない道路が二つに分かれている。鉱山が機能していた頃には人の出入りがあったのだろうことを思わせた。  確かに結構広そうだ。 「場所は特定できねぇのか?」 「音叉のようなものですから、よほどそばに近寄らない限り響き合うものではないんです」  高橋の疑問を察したのか、丁寧な言葉で応じた彼女はぐるりと木立に遮られる空を見上げる。 「なんだ、その小鳥遊もそれなりに不便なんだな」 「そりゃそうですよ、漫画じゃないんですから」  穏やかにクスクスと笑う。 「そういや、おまえの兄さんが持ってきてくれた弁当、本当にりゅーが言ったとおりうまかったぞ」 「そうですか、良かった……、後で兄に伝えておきますね」  兄妹というだけあって、確かに彼らはよく似ていた。  特に憂いを含んだ眼差しは、桜龍と佳渦は似すぎていると言ってもいいほどよく似ていた。 「では、わたしはあちらのほうに」  右に伸びる細い道を示して、彼女は歩き出した。 「気をつけろよ」 「はい、高橋さんも」  それから桜龍は歩き出して十分ほどたってから、刀袋の口を開くとそのまま絹で織られた袋をその場にそのまま投げ捨てた。  かつて人の出入りがあったとはいえ、道路は細く雑草に覆われている。  その中をゆっくりと踏みしめながら歩く彼女は、やがて、コンクリートで造られた古びた建物に出くわした。  リン――とかすかに鈴の音が響いたような気がする。  実際のところ、小鳥遊と小鳥遊が響き合うと言ったところで、常に小鳥遊にほど近く生きる者たちにとっては、響き合うものも街中の雑踏に紛れて消えていくようなものだ。だから、それを聞き逃すまいと、桜龍は微弱な電波を探るように神経を研ぎ澄ました。  能力の高い小鳥遊家の能力者であれば、桜龍にもすぐに捕まえることができるが、能力もなく生まれてきた希のそれをキャッチするのは難を要する。それでも同世代の宴席で幾度も彼と話を交わした彼女にだけは、希のかすかな気の流れを捕まえることができた。 「見つけた」  ぽつりとつぶやいた。  そろりと足音もなく、彼女はコンクリートの建物に入っていく。長く暗い廊下にはめ込まれていたはずの窓はすでに破れて、風がゆらぐように入り込む。  普通に踏めば音が立ちそうな床を、音もなく進む彼女は視界の先に背の高い男の後ろ姿を認めて立ち止まった。  男は肩に着流しの金髪の若い男を背負っている。  だらりと伸ばされた腕が、背負われている青年に意識がないことを物語っていた。 「こんにちは、つかぬ事をお伺いしますが、あなたはその方をどこにお連れするおつもりですか?」  背が高い男――有に190センチメートル以上はあるだろうか。  筋肉質で、顔立ちはくっきりとしたなかなかの美丈夫だ。 「あぁ、この人、とても綺麗だと聞いたので一度お会いしたかったんだよ」 「……二度目じゃないんですか?」 「――……もうばれちまったのか」  ふんと鼻を鳴らして笑った男は、背負っていた希に片目で見やってから再び桜龍へと視線を戻した。 「あなた、連続女性誘拐殺人事件の犯人ですね?」 「そうそう、綺麗な女にふさわしい、美しい死を演出してやったんだ。せっかくの別嬪さんが誰も望まない醜い死に至るなんて望んじゃないだろう?」  身勝手な言葉を続ける男に対して、しかし桜龍も刑事だ。冷静さを失うことはない。 「ですが、希さんは男性です」 「前回の女の時にわかったんだよ。美しさに、男も女も関係ないってな。なら、より美しいものを、美しいままで永遠に人々の記憶の中に残しておいた方がいいだろ」  相手の口車に乗ってはならない。 「彼を、どうするつもりですか……――?」  ゆっくりと、彼女が問いかける。  男は話しながらも建物の奥へ向かってずんずんと歩いて行く。その先に何があるのかはわからなかった桜龍だが、男と一定の距離を保って彼の後ろをついて歩いた。 「まぁまぁ、それは見てのお楽しみってことでさ」  広い部屋にたどり着いた。  壁際にある古いベッドに希をそっと横たえて、彼の口元に手のひらをあてた。 「それより、姉さん。警察だな」  そのときになってがらりと口調が変わった。  冷たく、凍えるような感情のない声色。  男は桜龍の頭の先からつま先まで見下ろして、さげすむように唇の端をつり上げる。 「美しさっていうのは、顔だけのことじゃない。あんた、ひんむいてもあんまり面白くなさそうだな。せいぜい肉体美ってところだろうが、身長も低いし、いまいちだな」 「……そうですか」 「あぁ、でもその目。藤色のほうは綺麗に色を残せれば価値があるかもな」 「とりあえず、あっちの兄さんのほうの処理をしてから考えるか」  人間とも思えない言葉に、けれども桜龍は顔色を変えない。 「希さんに手をかければ、なにが起こるかわかりませんよ。あなたが危険に晒されるとは考えていないんですか?」  彼には守りがついている。  小鳥遊本家の家長の鯉と、母親の蛇だ。 「さぁね。そんなことはどうでもいいんだ。俺は最高に美しいと思えるものを最高に美しい姿のままで人の心に刻んでやりたいだけだ。それには、刑事さんにはちょっとばかりおとなしくしててもらわないとなぁ……」  男は桜龍と対峙するように胸の前で拳を構えた。  どうやら荒事にはそれなりに慣れているらしい。 「わたくし、おとなしくなんて育てられておりませんので、見かけによらずじゃじゃ馬ですよ」 「そんなことは、見ればわかる」  そう言った瞬間、男は一気に大股で間合いを詰めてきた。  彼女の顔には危害を加えるつもりはないのか、下から突き上げるように繰り出される拳を桜龍は手にした鞘に収められた日本刀で受け止めると、つま先で体重を支えると、男の力業をそのまま刀をつかってうまくやり過ごした。  不意打ちのような力の流し方に、よろけたりしないのはなんらかの格闘術のすべを持っているからなのだろう。桜龍の斜め後ろで踏みとどまって、そのまま肘を後ろに向かって突き出した。それを桜龍は首を横にわずかに傾けるだけで躱してみせると、一瞬の隙をついて腰に重心を落として刀を構えた。  男も、桜龍もその場をほとんど動いていない。  互いに無駄のない動きだからこそできる、わずかな隙を桜龍は見逃さなかった。  ――居合い。  男がそう認識した瞬間だ。  ヒュっと風が切る音が聞こえてくるのと同時に、ふたりの足もとが縦に揺れる。  地震だ……――。  しかも真下から揺れた。  体勢を崩したのはどちらからでもない。大きな揺れに自分の体を支えようと、思わず居合いがくるのも忘れて地面に膝をついて男が天井を見上げた。いつ崩れてもおかしくない廃ビルで、男の急所に触れるか触れないかといったところで刀が止まる。  ガラリと重い音を立てて、女の手から日本刀が落ちた。  硬直した体――その全身を覆うように、赤い光が包み込んだと思ったそのとき、再び大地が揺れる。  首都直下型の地震はいつ来るともおかしくない話だった。  桜龍の体を包み込んだ赤い光は、ビルを突き破り大空を駆け上がる。  赤かったはずの光はやがて、桜色に染まり、その光と共にまるで寄り添うように、白く光るの大きな翼が桜色の光の柱に回りながら空を昇る。  大地の揺れはその二分ほどで静まり、やがて光は霧散するとその場は静寂に満たされた。  そのまま崩れ落ちた桜龍の体は、男の目の前でぴくりとも動かない。 「……なんだ? 死んだ、のか?」  よくわからないが、まぁ、いいか。  と男は独白して、女の屍をそのままにして、ベッドで意識を失ったままの希へと近づいた。 「……大丈夫、苦しまずにその綺麗な顔のままで永遠にこの世に残ることができるんだ」  男はそっと希の頬を優しく撫でた。  強烈な睡眠薬で眠り続ける彼の顔に、濡らしたガーゼをそっと一枚、また一枚と重ねていく。  そのまま眠るように死ねば良い。  そして、材料は充分準備してある。  彼の体を収めるガラスケースも。  そのときだ。  寝台に伸ばされた希の腕から金色に輝く蛇が、男の体に滑り込む。  どこからか、ぴちゃんと水を跳ねる音が聞こえ、何が起こったのかわからずに驚いて半開きになった男の口の中へと、明らかに喉を塞ぐような物体がぬめりと共に入り込んでいった。 「……っっ! っうぅ、がぁ……ぁ!」  呼吸を止められ、金色の蛇は男の首から全身を締め付ける。  ボキボキと異様な音が、男の耳に聞こえた。そこで彼の意識は途切れた。  そして命も。  寝台の横には誰かが立っている。  白い髪の、白い瞳の女。  わずかに桜色の光を放っていて半透明だ。  濡れたガーゼに包まれた希の額にそっと透明な手のひらを当てて、こくりと頷く。 「わらわが、そなたを長い時間苦しめたのじゃ……。英比古は、わらわが連れて行く。じゃから、二条……。そなたはそなたの心のままに生きるが良い」  そして白い髪の女は床に崩れ落ちた桜龍を振り返ってからかすかに目を細めると憂いに帯びた目をしばたたいた。  そのとき、桜龍の所持していたプライベートのモバイルが鳴った。不在着信のメッセージの後に、男の声が吹き込まれる。 「俺だ。藤火だ。例の犬神はさっきの地震で崩れた渋谷のスクランブル交差点で発見、回収した。とりあえず、これで黒麒麟のほうはなんとかなる。そっちはどうなっている? 桜龍」   *  ふたりが発見されたのは、それから二週間以上たってからだった。  死んだ男女の体は腐り果て、寝台に横になっていた希は奇跡的に助かった。  そして桜龍の体は、彼女の父親の腕に抱かれて黒いリムジンに乗せられてどこかへと運ばれていった。  ――龍を宿す者は、日本国の懐刀。この子の死を、我々は最初から想定していた。  彼女の父親は、駆けつけた娘の相棒である高橋和仁にそう告げた。 「……なに、言って……」  理解の追いつかない高橋の肩に、軽く手を置いたのは年老いてはいるが、頑強に見える背の高い男だった。 「”あの”地震から、皇室を守ったのはこの子なんじゃよ」  呆然とする高橋の視界の中を、ひらりと一枚――季節外れの桜の花びらが舞った。  まるで別れを告げるように。  その花びらを手のひらで受け止めて、高橋は震える肩を必死で堪えながらきつく瞼を閉じる。奥歯を噛みしめて、漏れ出しそうな声を殺した。 「……っ、無茶すんじゃねーって何度も言ったじゃねぇか、この馬鹿野郎」  高橋の目から涙が一筋だけ零れ、コンクリートの床を塗らした。  桜龍の兄の佳渦は、もうひとりの兄である藤火に肩を抱かれて、父親の後ろを泣きながらついていく。 「死んで、なんてないですよね? 兄さん、父さん。死んでないって、言って……くださ……」 「――……」  その問いに、藤火も、そして彼らの父親も答えない。  朽ち果てた遺体を目にしながら、死んでないと言ってほしいというのは、なにかに縋りたい気持ちから出たものだったのかもしれない。 「……桜龍、よく……使命を全うした」  彼女の父親の掠れるような小さく響く声が聞こえた。  使命を全うすれば死をも受け入れられるのか、そんなことを我が子に望むものなのか。男の言葉に、一瞬でそんな考えが頭をよぎり、我に返った高橋が瞬間湯沸かし器のようにかっとなって頭を上げ、振り返れば、だいぶ先に進んだ桜龍の父親が、その腕に抱いた朽ちた娘の額に自分の額を合わせるようにするところだった。  その父親も、口ではそう言いながら、桜龍を愛していたのだ……。  流れる涙もなく、高橋は呆然と、そして瞠目した。

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