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第5話

8時に起床して朝食を共にする。家事が済んだら、12時まで雪弥にひらがなを教える。昼食を取り、その後雪弥は昼寝をして、その間に俺は仕事を進める。3時頃雪弥が起き出したらおやつを食べて、またひらがなを見てやる。晩御飯を作って、食べ終わったら雪弥を風呂に入れる。雪弥の後に自分が風呂に入り、上がったらベッドで絵本の読み聞かせをした。そのまま自分も眠ってしまうこともあったし、雪弥が寝たのを確認してから仕事に取り掛かることもあった。雪弥との残りの3日間は、同じ日常をなぞって過ごした。 8日間つきっきりで勉強を見てやったが、雪弥はひらがなをマスターするには至らなかった。雪弥の覚えが特別悪いのか、それとも、一般的に8日で自在に文字を操れるようになるのは至難の業なのかはわからないが、いつの間にか文字を覚えて巧みに操る幼児の学習能力は凄まじいものなのだと感心する。 ひらがなのマスターこそはできなかったが、朝食のヨーグルトは自分で選べるようになった。たったそれだけのことだが、何をするにも自発的に動けなかった雪弥が自分から何かを選べるようになったというのは大きな進歩だと思う。ヨーグルトだけではなく、飲み物や着る服も自分で選ばせていた。最終日の今日は最初に出会ったときの服を着せようと思っていたのだが、雪弥が嫌がって俺が買ってきた安いボーダーの服を選んだ。たった数回の洗濯でくたっとなった服よりも上質なものを着せて送り出してやりたかったが、約束通り雪弥の意思を尊重することにした。 久坂は10時に迎えに来ると言っていた。雪弥を先方に引き合わせた後、一緒に食事を取るそうだ。お前もどうだと誘われたが、辞退した。相手がどんな方なのか不安ではあったが、この後に仕事の打ち合わせがあったし、何よりも、帰って来たときに部屋にひとりきりでいる自分を想像したらあまりにも惨めだった。 朝食を済ませた後、いつもなら一通り家事を終えてから雪弥のひらがなを見てやっていたが、今日は引き続きテレビを見させて雪弥の荷造りをした。先方が全て用意してくれるから身ひとつでいいと久坂は言っていたが、雪弥が気に入ってくれた絵本と、勉強で使ったノートくらいは持たせてやりたかった。他にも、何か参考になればと雪弥と過ごしていて気付いたことを書き留めておいたノートを一緒に入れた。他に忘れ物はないか家中を見回していると、ベッドサイドに置いてあったくしゃくしゃの俺の名刺がなくなっていることに気づいた。床に落ちたかと思ってベッドの下を覗いてみたが、見当たらない。いつか処分しようと思っていたものなので気にしないことにした。 荷造りは、あっという間に終わってしまった。約束の時間まで30分以上ある。 「雪弥、ちょっとごめんな」 雪弥の脇の下に両手を差し込み、抱き上げる。出会った頃よりも少し重くなっただろうか。食べて寝かせるばかりで運動させてなかったから、少し太ったかもしれない。雪弥が座っていた場所に腰を下ろすと、膝の上に雪弥を座らせた。 「ちょっとこのままでいさせてね」 ぎゅっと雪弥のしなやかな身体を抱きしめたまま、ぼんやりとテレビを見ていた。寝ているのではないかと思うくらい、雪弥はおとなしかった。暖かな春の陽射しと雪弥の重みが心地よくて、動くのが億劫になっていた。 インターホンが鳴り響き、時計を見るといつの間にか約束の10分前になっていた。雪弥をソファに下ろし、玄関へ向かう。 「よう。邪魔するぞ」 久坂は、相変わらず無遠慮にうちに上がり込んでくる。 「支度できてるか?」 雪弥の姿を認めると、雪弥に向かって声を掛けた。雪弥は、無表情な顔を久坂に向けるばかりで何も反応を示さない。 「久坂、これ持ってってくれ」 雪弥の代わりに、まとめておいた荷物を久坂に手渡す。 「この中に2冊ノートが入ってるんだけど、うち1冊は雪弥に関することが書いてあるものだから参考にしてくれって伝えて欲しい。それから、今紙パンツは穿かせてないからトイレ行きたがってたら連れて行ってやって」 わかったわかった、と久坂が面倒臭そうに返事をする。渡した荷物を脇に置き、雪弥の前にしゃがんで手荷物を開いた。何やら大きい荷物を抱えているなと思ったが、その中身は拘束具だった。雪弥の手を引っ張り、手首にベルトを巻いていく。 「ちょっと、お前何やってんの」 「こいつはキメラなんだ。そのまんま連れて行くわけには行かないだろ」 「雪弥はおとなしいから大丈夫だよ。お前だって知ってるだろ」 「俺とお前がわかっていても、ご夫婦はキメラを見るのが初めてなんだ。まぁ心配すんな、すぐに解いてもらえるだろ」 不満はあるが、久坂に宥められて何も言い返せなかった。手枷を付けられ、首輪と繋がれる。足首にもベルトが巻かれ、厳重に拘束されている雪弥が気の毒になる。黒い布を取り出し、雪弥の目を覆った。目を覆われた途端、雪弥の呼吸が乱れ始めた。 「待った!それだけはやめてくれ。こいつ、暗いの怖いんだよ」 「知ってる。キメラはみんなそうだ。幼い頃にトラウマを植えつけて、暗闇の中では動けなくするんだ。そうすれば、輸送や躾が楽になるからな」 「わかっているなら勘弁してやってくれないか。雪弥はおとなしいんだし、その必要もないだろ?」 「一々うるさいんだよ、お前は。万が一暴れられたら危ないんだよ。こいつの安全の為にやってるんだ、それくらいわかれよ」 久坂も、雪弥を虐げたくてこんなことをしているわけじゃないことは頭ではわかっていた。 「久坂、ちょっとだけ時間ちょうだい。ちゃんと別れ言いたいから」 「……わかったよ。先に外出てるから、すぐ来いよ」 久坂が玄関を出て行くと、途端に家は静まり返る。 「雪弥、大丈夫か?」 呼吸を荒くした雪弥の額には、汗が滲んでいた。身体を強張らせて、ぎゅっと手を握り締めている。 「大丈夫、大丈夫」 抱きしめて、背中を擦ってやる。本当は目隠しをとってやりたかったが、また付け直さなければならないならば同じことだ。雪弥の呼吸が落ち着くまでに、相当な時間を要した。 「もう大丈夫そう?」 雪弥が頷く。身体の震えはまだ収まっていないし、まだ大丈夫ではないのだろう。雪弥の手に触れ、拘束具と手首の間に指を入れる。 「痛くはない?」 雪弥の首が縦に振れる。手を開かせると、手のひらにはくっきりと爪の跡がついていた。頭を撫でると、雪弥の耳がピクピクと動いた。雪弥は耳の付け根を触られるのが好きらしいことに、一緒に暮らしていて気付いた。手を滑らせ、首筋に触れる。は、と雪弥が吐息を漏らした。ここが、雪弥の性感帯。雪弥の隣に座って肩を抱き寄せ、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。これ以上久坂を待たせるわけには行かないし、きっと、先方も雪弥を待っているだろう。 「雪弥、元気でな」 耳元で囁くと、大きな耳が虫を払うかのように大きく動く。きっと、くすぐったいのだろう。雪弥には嫌な顔をされたが、俺はそんな雪弥のリアクションを見るのが面白くて仕方なかった。 「幸せになれよ」 別れの言葉には、そんなありきたりの言葉しか思いつかなかった。 雪弥を横抱きにして外に出ると、待ちくたびれた久坂が壁に寄りかかって煙草をふかしていた。強い風が吹いて煙を嬲り、遠くへ攫って行く。 「もういいか?」 「ああ」 じゃあ、と靴の裏で煙草の火を消した久坂が、ポケットから携帯灰皿を取り出した。久坂の後に続いて、彼の車へ向かう。ドアは、久坂が開けた。今日は風が強いな、なんて他愛のない話をしながら雪弥を助手席に乗せる。自分の車から車椅子を降ろして久坂の車に乗せかえると、あっけなく身軽になったような気持ちになる。 「じゃあ、何て言うか、まぁ、その、世話になったな。今度飲みに行こう。奢るから」 言いよどむ久坂を見ていると、本当にこいつが平松先生の担当編集で大丈夫かと疑問に思う。 「おー。気を付けて。雪弥も元気でな」 雪弥は頷きも、こちらを見ようともしなかった。いつもの調子で久坂と別れ、車が走り出すと見送りもせず玄関に向かって歩き出す。午後の打ち合わせは2時からだったか。その前に、腹が空いた。お昼は何を作ろう? いや、雪弥がもういないのだから、久しぶりに外に食べに出ようか。てんぷらが食べたい。今日の昼食は蕎麦にしよう。近くに蕎麦屋があっただろうか。そんなことを考えながら、玄関のドアノブに手を掛けた。 途端、唐突に出会ったばかりの不安そうな雪弥の顔が頭をよぎった。そうしたらたまらなくなって、気付いたら走り出していた。追いつけるはずがないのに、全力で久坂の後を追いかける。角を曲がって広い通りに出たとき、久坂の車が見えなくてしばらくその場に立ち尽くした。 久坂が再びうちを訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。インターホンが鳴り、溜息を吐きながらドアを開けると、予想通りニヤニヤした顔で久坂が突っ立っていた。 「……どうぞ」 今すぐドアを閉めて追い返してやりたい気持ちになるが、久坂の手荷物に大事な用事があったため、無碍にもできず家に招き入れた。 「あれ、あのがきんちょは?」 「あっちの部屋で寝てるよ。だから静かにしててくれ」 言った傍から、久坂が無遠慮に寝室のドアを開けた。この手癖の悪さ。たまになぜ未だにこいつの親友をやっているんだろうと疑問に思うときがある。こいつのせいで、雪弥が目を覚ましてしまっていた。 「こいつがうるさいせいでごめんな、雪弥。もうちょっと寝る?」 目を擦りながら、雪弥が首を横に振る。 「トイレ?」 雪弥が大きく首を横に振る。 「じゃあ起きてこっち来ようか。おいで」 手を伸ばすと、ぎゅっとしがみ付いてきた。普段の雪弥は構うとちょっと迷惑そうな顔をするが、寝起きの雪弥は甘えたで、一度しがみ付くとなかなか離してくれない。 「なぁ、いつもそうなの?」 来客用のソファに腰掛けた久坂が、雪弥を抱っこしたままソファに座る俺に訊ねる。目をとろんとさせていた雪弥は、俺にしがみ付いたまま二度寝を始めた。 「いつもじゃないけど、今日はお前が起こすからこうなってるんだろ」 悪かったな、と不貞腐れたように久坂が言い、持ってきた鞄から茶封筒を取り出した。 「この中に権利書とかオメガに関する書類全部入ってるから」 「悪いな」 テーブルの上に置かれた茶封筒を手にとると、思っていたよりも書類が入っていてずっしりとしている。今日久坂が訪ねて来たのは、雪弥の所有権譲渡に関する必要書類を届けるためだった。 「しっかし、あんときのお前、傑作だったよなぁ」 「もうその話は蒸し返すな」 久坂の言う「あんとき」とは、一週間前に遡る。雪弥を乗せた車が見えなくなり立ち尽くしていた俺は、ハッと我に返り久坂に電話を掛けた。 「何?」 運転中のはずの久坂は、すぐに電話に出た。 「お前、今どこにいる!?」 「お前んち近くのコンビニだけど」 「そこを動くなよ!?いいな!!」 一方的に電話を切った俺は、徒歩5分のコンビニに向かって無我夢中で駆けた。運転席側のドアに凭れかかってコーヒーを飲んでいる悪友の姿を認め、掴みかかるようにして待ってくれ、連れて行くなと懇願した。 「最初は変な奴がこっちに来るってビビッたんだけど、よく見たらお前じゃん?35のオッサンが汗だくになって息切らせながら全力疾走してくんの、あれ今思い出してもやばいよな」 「お前だって35のオッサンだろ。やばいとか言うな」 「必死すぎてマジウケル」 返す言葉もない。本当に、何でこいつの親友やってるんだろう。一番嫌なのは、こいつに弱みを握られたことだ。この話はしばらくネタにされるに違いない。 後から聞いた話なのだが、本当は雪弥の引き取り手は見つかっていなかったのだという。老夫婦の話は嘘で、そもそも、探してすらいなかったのだそうだ。最初から俺に雪弥を引き取らせるつもりで小細工を仕掛けてきたのだと言っていた。つまり、俺は久坂の手のひらの上で踊らされていたというわけだ。この話を聞いたとき、コンビニの駐車場で懇願する俺を見て久坂が爆笑していた理由がよくわかった。 そのときの俺はとにかく必死で、久坂が何をそんなに笑っているのかわからなかったが、助手席のドアを開けて雪弥の目隠しを取ったら、全てがどうでもよくなっていた。雪弥が目に涙を溜めていて、このとき、初めて雪弥が泣いている姿を見た。 「そういえば、名前はどうするんだ?」 「ん?」 片手で雪弥を支え、もう片方の手で書類を捌いていた俺に久坂が訊ねる。 「所有者はもうお前なんだから、雪弥じゃなくても好きにつけてもいいんだぞ」 そう言われてみれば、それもそうかと思う。 「んー雪弥は雪弥でいいよ」 呼ばれたと思ったのか、雪弥が目を開けた。 「な、雪弥でいいよな」 頷く代わりに、雪弥はますます首を抱く腕の力を強め、俺の頬に擦り寄った。はいはい、そーかい、そーかい、と久坂はつまらなそうに言う。 雪弥が雪弥じゃなかったら、きっと俺たちは出会っていなかっただろう。雪弥を引き受けたのは、わずかでも平松先生との繋がりが持てるかもしれないという下心からだった。今ではもうそんなことは関係なくて、雪弥が何という名前でどういう生い立ちなのであろうと、大切な存在であることに変わりはない。雪弥がいなくなったら、もう生きていけないのではないかとさえ思う。 「ここからは仕事の話なんだが、どうだ、うちで書いてみないか?」 「は?うちでって、小説?」 久坂がいきなり声のトーンを変えてきた。 「いや。小説も書きたかったら受け付けるけど、今日持ってきた話は週刊誌のエッセイだ」 久坂が鞄の中からもうひとつ茶封筒を取り出して寄越した。 「アンケート結果がよかったら不定期連載。どうだ、悪い話じゃないだろう。担当はそこに書いてある安斎って奴だから、興味があったら連絡してくれ」 久坂がわざわざ別の雑誌の営業をするとは思っていなかったから、驚いた。今月はあと2本仕事があったが、来月のスケジュールは1つしか入っていなくて、これからどうしようかと思っていたところだった。 「じゃあそろそろ帰るから。また連絡する」 すっと立ち上がり、玄関に向かう久坂をかっこいいと思ったのは、後にも先にもこれが最後なんじゃないかと思う。 後日、サインと捺印をしたオメガ所有権譲渡に関する必要書類を国に提出し、立ち入り調査を経て正式に認められた。仕事も順調、久坂が紹介してくれた仕事は、次の雑誌で連載第2弾が載ることになっている。雪弥との生活が始まったことで、長期間取材に拘束される仕事を諦めざるを得なかったり、主な収入源であるブログの更新ができなかったりと弊害もあるが、そんなものは些細なことだと感じるくらい、雪弥との生活は充実していた。幸せになれなんて言って送り出そうとしていたが、今、雪弥を幸せにする責任は俺にある。具体的に何をしてやればいいのかはわからないけれど、俺が今感じている幸福感を、雪弥も同じように感じてくれていればいいと思う。

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