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第4話

アラームの音に驚く雪弥の気配で目が覚めた。外は明るいのに電気はつけっぱなしで、消し忘れて寝てしまったかと思ったがすぐに雪弥のために付けっぱなしにしていたことを思い出す。 「おはよ、雪弥」 アラームを止めて声を掛けると、布団の中に隠れていた雪弥が顔を出した。元々くるくるしている毛が、あらゆる方向にはねてボサボサになっていた。相変わらずにこりともしない仏頂面だったが、その綺麗な顔にはくっきりと布団の跡がついていた。 「トイレ行こうか」 雪弥の背中に腕を回すと、雪弥の両手がするっと首に巻きついてきた。緊張している様子はあまり見られず、少しずつ慣れてきてくれていることが嬉しかった。 狭い個室に入り、雪弥を便器の上に座らせる。ズボンと下着を下ろすのを手伝ってやり、トイレットペーパーの使い方と、終わったら水を流すことを教えてドアを閉めた。その間に寝室に向かってシーツや枕カバーを剥ぎ取る。お漏らしされていることを覚悟していたが、シーツは濡れていなかった。キッチンや洗面所のタオルを回収して洗濯機に放り込んだ時、水が流れる音が聞こえた。入るよ、と外から声を掛けドアを開ける。 「ちゃんと出来た?」 雪弥の首が縦に振れた。毎晩シーツを汚されるだとか、トイレを汚くされることを覚悟していた分、あっさりとクリアしていて拍子抜けだった。トイレが出来ないから紙パンツを穿かされていたわけではなくて、トイレに連れて行く手間を惜しんで紙パンツを穿かされていたのかもしれない。 ズボンをあげるのを手伝ってやってから、ソファに座らせてテレビを付けた。雪弥にテレビを見せている間に、用を足して新聞受けに新聞を取りに行く。経済新聞、スポーツ新聞、ローカル新聞、職業柄見聞を広めるために色々な新聞を取っているが、昨日は読んでいる暇がなかった。昨日の新聞を処分しようとした時、雪弥がしきりに服の上から腕を掻いていることに気付いた。 「雪弥?どうした、痒いの?」 服を脱がせてみると、あせものような赤いぶつぶつが出来ていて、腹や腕には無数の赤く引っ掻いた跡がついていた。雪弥の肌は白いから、赤い引っ掻き傷がよく目立って痛々しい。風呂に入れたときには赤いぶつぶつはなく、パジャマを着せる前にもなかった。原因は、気温の変化か、ストレスか、あるいは衣類か。こんなとき、すぐに医者に診せてやればよいのだが、皮膚科に連れて行けばいいのか動物病院に連れて行けばいいのかわからない。まだ病院がやっている時間ではないし、一先ず全部脱がせて様子を見ることにした。原因を衣類の染料と想定して、念のため風呂場に連れて行ってシャワーを浴びせた。全裸というわけにはいかないので、また俺の服を着せて、昨日買った服は全て洗濯機に突っ込んだ。 雪弥と暮らすにあたり、いくつかルールを作った。まずは返事の仕方について。当てはまるものには首を縦に振り、当てはまらないものには首を横に振る。そして、わからないこと、困ったことがあったら首を傾げること。次に、俺に用事がある時には服の裾を二度引っ張ること。離れていたら、手を叩いて俺を呼ぶこと。次に、遠慮せずに我儘を言うこと。出来る限り雪弥の意思を汲み取ってやれるよう、努力することを約束した。 今日の朝食は、残りのアップルパイとヨーグルト。自分にはブラックコーヒーを用意し、雪弥にはホットココアを淹れてやった。雪弥を食卓に就かせ、まずはヨーグルトを選ばせた。プレーンと、アロエと、イチゴと、ブルーベリー。文字が読めなくてもパッケージでわかるだろうと、現物を雪弥の目の前に並べた。 ヨーグルトを見て、俺を見る。またヨーグルトをじっくり見て、それからやはり俺に視線を戻した。ただ好きなのを1個選んで、と言っただけなのだが、雪弥がどうしたいのかがわからない。悩んでいるのだったら急かすのは可哀想だし、困っているのだったら、何らかのリアクションを示して助けを求めてほしい。出来る限り意思を汲み取る努力をすると約束したばかりなのに、早速雪弥に試されているような気分になる。 「どれがいい?」 焦れて、つい声を掛けてしまった。ヨーグルトに集中していた雪弥がビクッと身体を強張らせ、首を横に振った。 「もしかして、いらなかった?ごめんね」 自分にアロエヨーグルトを残して、残りは全て冷蔵庫へしまった。俺が席に就くまでの間ずっと雪弥が俺を見ていた。食べ始める頃には、せっかく温めたアップルパイは冷めてしまっていた。キッチンにある小さなテレビを付けてぼんやりと画面を見ながらアップルパイを齧っていると、雪弥が耳を寝かせ、食事に手を付けていないことに気付いた。 「雪弥?食べな」 勧めるとすぐに食事を始めた分、昨日よりかは手が掛かっていないが、一々行動を示してやらないとならないことに対する煩わしさを感じた。 ココアは飲んだことがなかったようで、勧めてもすぐには口を付けず、匂いを嗅ぐような仕草を見せた。口を付けてみると気に入ったようで、耳をピクピクと動かしながら一気に飲み干していた。 試しにヨーグルトをあげてみたら、いらないと言っていたわりにはあっという間に容器を空にしていた。食べ切れそうにないからいらないと言ったのか、ヨーグルトを知らなくていらないと言ったのか。もしかしたら、何か伝えたいことがあったが、俺が急かしたばかりに返事を急いだ可能性もある。雪弥に文字を覚えてもらうことの必要性を改めて感じた。 雪弥に歯磨きをさせている間に、テーブルの上を片付けた。歯磨きが終わると、雪弥をソファに移し今度は自分が歯を磨く。歯磨きを終えたら、回転を止めた洗濯機から溜まりに溜まった洗濯物を取り出し外に干す準備をする。新品の雪弥の洋服を見て、あせものような赤いできものが出来ていたことを思い出す。 「雪弥、ちょっとごめんね」 テレビを見ている雪弥の前にしゃがみ、思い切り裾を捲りあげる。白い肌と小ぶりな性器が露になって、そういえばパンツも脱がせていたことを思い出した。 「赤みは引いてるな。どう?もう痒くない?」 動揺を悟られまいと平静を装う。雪弥が首を縦に振った。 「そっか。それならよかった。あとでクリーム塗ろうな」 なるべく雪弥の顔を見ないようにして、早々に洗濯に戻った。まだ断定はできないが、原因はやはり衣類の染料だろう。洗濯をすればいくらかマシになるだろうか。知人にも服の染料でかぶれるという人がいたが、雪弥も肌が弱いのかもしれない。 クリームを塗ると言ったが、あえて忘れたふりをした。雪弥は敏感肌のようだから、もし合わなかったら大変だし、何よりも目の毒だからだ。不注意で雪弥の裸を見てしまってからは、裾から伸びる白い足でさえも直視することに罪悪感があった。 家事を済ませてから、雪弥に文字を教えるためにキッチンへ場所を移した。テーブルがあるのは書斎として使っている部屋とキッチンしかない。書斎は散らかっていて和室で狭く、足に傷がある雪弥には椅子に座らせてやる方がいいと考えた。雪弥の前に昨日買ってきた練習帳と絵本、それからノートとペンを用意した。雪弥の目の前で、ノートの一番最初のページに、大きく「ゆきや」とひらがなで書いて見せる。 「ゆ、き、や。書いてごらん」 ひとつひとつ指で指して発音する。ペンを握り締める雪弥に、まずはペンの握り方を教えてやってから文字を書かせた。ミミズの這ったような文字が、いくつもいくつも白い紙を埋めていく。10回書かせたら、今度は次のページにあいうえおと書く。それを10回書かせて、次にかきくけこと書かせる。思っていた通り、雪弥は嫌がる様子もなく真面目に取り組んでくれた。雪弥が文字の練習に励んでいる間に、隣で時々様子を見ながら新聞を読んでいた。こうして自分の時間を持てることはありがたい。書き終わったら裾を引っ張るように言っておいたから、自分の時間を確保しながらも効率よく文字を教えることができた。あっという間に正午を知らせる町内の鐘が鳴って、思っていたよりも充実した時間だったと実感する。 ずっと勉強漬けでは可哀想なので、昼食後はソファでテレビを見て過ごした。ひとつ仕事を提出し、残りはまだ納期に余裕があるので、雪弥の隣でテレビの音を聞きながら新聞を読んでいた。この時間にやっているのは大体ワイドショーか、サスペンスドラマの2択で、この2つならとワイドショーを付けていたが、雪弥には退屈ではなかろうか。子供が好きそうなアニメなり特撮なりを借りてくるべきかと考えていると、雪弥の首が傾いていることに気付き、そっと顔を覗くと目をとろんとさせていた。 「ベッド行くか?」 目を擦りながら、雪弥が素直に頷く。横抱きにして寝室へ連れて行くと、雪弥はすぐに眠りに就いた。勉強して疲れたのか、お腹がいっぱいになったから眠くなったのか。出会った頃のあの警戒心が嘘のようだ。夕方3時頃、洗濯物を取り込みに寝室に入ると、雪弥が目を覚ました。身体を起こして、寝ぼけ眼でじっと俺を見つめる。 「ああ、ごめん。起こしちゃったね。……トイレ?」 雪弥がこくんと頷く。近くに寄ると、俺が腕を回すよりも早く雪弥が抱きついてきた。生来子供好きの俺は、きゅんとせずにはいられなかった。寝起きの子供の体温の高さが心地よかった。 翌日、久坂に送るために雪弥の写真を撮った。本格的な一眼レフではなく、スマートフォンを用いて撮影した。趣味と実益も兼ねて一眼レフも所持していたが、スマートフォンの方が変に緊張しないですむかと考えた。椅子に座らせて全身と、顔のアップ、後ろ姿。特徴的な耳や尻尾、足の傷も撮影した。意外にも、雪弥に緊張している様子は見られなかった。他にも、食事をしている様子や勉強している姿、テレビを見ている姿や寝顔も写真に撮って久坂に送った。 久坂が菓子折りを持ってうちを訪ねてきたのは、それから3日後のことだった。 「ちょっとの間に随分手懐けたもんだな」 3人掛けのソファに雪弥と並んで座る。本当は久坂に座ってもらって、自分は立って話を聞こうと思っていたのだが、久坂が雪弥の隣を嫌がった。急遽、書斎から来客用のひとり掛けソファを持ってきてそこを久坂に勧めた。同じく書斎から持ってきた背の低いガラス張りのテーブルの上に、久坂が持ってきた饅頭とコーヒー、雪弥には砂糖を入れて甘くした紅茶を用意した。 「聞いて驚け。見つかったぞ、引き取りを申し出てくれた人」 「え」 久坂から連絡があったとき、このことを全く予想していなかったわけではないが、いざ面と向かって言われると頭が真っ白になる。 「よかったな。ようやく晴れてお役御免だ」 頭をよぎったのは、仕事のこと。少しずつ準備はしてきていたが、雪弥に構っている間にも納期が迫ってきていた。そろそろ本格的に取り組まなければまずいと思っていたし、次の仕事も取りに行かなければならない。フリーライターの俺の主な収入源はブログだった。よっぽど煮詰まっていない限り外で原稿を書くのだが、同じ場所では飽きてしまうのでカフェ巡りをしていた。行ったカフェの外観や料理を写真に撮り、レビューを添えてブログにアップする。趣味でやってたブログだったが、これが若い女性に受けて今や大事な収入源となっていた。雪弥を預かってからはずっと家にこもりきりになり、ぱったりと停滞している。 「信用できる人なんだろうな?」 「60になるご夫婦なんだが、子宝に恵まれなかったそうだ。60って言うと、孫がいてもおかしくない年齢だろ?つい先日飼っていた犬が亡くなったばかりで、こいつの写真見せたら是非引き取りたいって」 亡くなった犬は白のハスキーだったらしい、と付け加えた。久坂の仕事柄、人脈の広さは予想できたがそれにしてもこんなにも早く引き取り手が見つかるとは思わなかった。 「……だってさ。よかったな、雪弥」 雪弥が黙って俺を見上げる。ぱさぱさの銀色のまつ毛の下の灰色の大きな瞳には俺の姿が映っているだけで、雪弥が何を思っているのかちっとも読み取れない。 「また3日後にこいつを迎えに来るよ。その間、よろしくな」 「ああ、うん」 用件が済むと、久坂はコーヒーを飲み干し、さっさと席を立った。この後も打ち合わせか何か予定が詰まっているのだろう。玄関まで見送り、ドアが閉まると急に部屋が静まり返ったような寂寞感があった。部屋に戻ると雪弥がいて、寂しいような何とも言えない気持ちが少し薄らいだ。 「雪弥、饅頭食べな」 久坂がいる間、雪弥は饅頭にも紅茶にも手を付けていなかった。雪弥はなかなか手を付けようとしなかったが、しつこく勧めるとようやく手に取り、一口齧った。テレビを付けると、すぐにいつもの日常が返ってきた。テレビの音がしていて、隣に雪弥がいる。まだ、たったの6日間しか一緒に過ごしていないが、雪弥がいることが日常になっていた。あと3日後に、この日常が終わる。唐突に始まって、唐突に終わる。テレビでは、連日話題になっている女子大生殺人遺棄のニュースが流れていた。何度も見た遺棄現場の画面を見ながら、俺は今寂しいんだと自覚する。雪弥は、今何を思っているのだろう。また捨てられると思っていたらそれは違うよと言ってあげたいが、雪弥が何を考えているかわからない以上、俺に掛けてあげられる言葉は何もなかった。

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