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第3話
雪弥をソファのある部屋に移動させ、テレビを見せている間に食器を洗う。明日の朝食は残ったアップルパイにするとしても、どの道買い物に行く必要があるし、雪弥の着替えは早急に必要だった。雪弥をひとり家に残すのは少々心配ではあったが、買出しに出ることにした。
洗い物を済ませと、キッチンを出て雪弥の隣に座る。少しは心を開いてくれたかと思っていたが、近づくとやはり身体を強張らせていた。
「雪弥、買い物行ってくるけど何か欲しいものある?」
雪弥が黙って俺を見上げる。そうだった、雪弥は喋れないんだった。忘れていたわけではないが、つい二択では答えられない質問をしてしまった。仕事で使っている手帳とペンを持ってきて雪弥に渡した。手帳とペンを握り締めた雪弥が、きょとんとした顔で俺を見る。
「もしかして、字書けない?」
頷く雪弥を前に、膝から崩れ落ちそうになった。喋れない子供を相手に、平松先生はどのようにコミュニケーションをとっていたのだろう。
「雪弥、字を教えてあげようか」
あいうえお練習帳を購入品リストに追加したところで、インターホンが鳴った。何か宅配でも頼んでたかと首を傾げながら玄関へ向かう。覗き穴から覗いてみると、久坂が立っていた。
「あれ、こんな時間にどうしたんだ?」
「どうした、じゃないだろう。さっきメールしたんだが、見てないのか」
そういえば、スマートフォンは洗濯機の上に置きっぱなしだった。仕事帰りなのか、大きな荷物を抱えていた。
「邪魔するぞ」
溜息を吐いた久坂がずかずかと部屋に上がりこむ。雪弥の姿を認めると、俺を振り返り一言、変態、と冷たい声で罵った。
久坂がうちに立ち寄ったのは、雪弥を撮るためだった。一眼レフや三脚、反射板まで持ち出してきて、一体どうしたのかと訊ねるとこれらは会社の備品で、取材の帰りなのだと言っていた。
「本当は昨日撮っとけばよかったんだが、飲んでてそこまで気が回らなかった」
「で、撮ってどうすんの」
「こいつを紹介するときに写真がいるだろう」
カメラを弄っていた久坂が、突然雪弥にカメラを向けてフラッシュをたいた。不安そうにしていた雪弥が、ビクッと身体を強張らせて耳を寝かせた。
「なぁ、ちょっと留守番頼んでいい?買出しに行ってくる」
撮った画像をチェックしている久坂に声を掛けると、おー、と生返事が返ってきた。撮影開始までにまだ時間が掛かりそうだし、そもそも俺が立ち会う必要はない。雪弥が怯えているようだったが、それは俺がいても同じことだし、久坂の方が雪弥と付き合いが深い。
財布とスマホと、車のキー。最低限の荷物で家を出た。
向かったのは、車で30分ほどのショッピングモール。ここならば一ヶ所で用事が済む。まず最初に向かったのはよく利用している本屋。いつもなら真っ先に小説の棚を覗いて新館をチェックし、ジャンル問わず雑誌をパラパラするのだが、今日は小説の棚をスルーし、児童書を扱う一角へ足を進めた。馴染みの本屋でも、普段行かないコーナーへ足を踏み入れるとまるで別世界のようだった。数あるあいうえお練習帳のうち、平積みになっている一冊を手にとった。漢字練習帳が目につき、興味本位で手にとったが、雪弥にはまだ早いと棚に戻した。児童書の大半を占めている絵本だが、さすがにこれは対象年齢が低いだろうか。だが、文字を読む練習にはいいかもしれない。棚を眺めていると、俺が昔読んでいた絵本がちらほらと目に入って、懐かしさを覚えるのと同時に未だに読み継がれていることに驚きを隠せなかった。昔懐かしさに昔好きだった絵本を3冊手にとり、これ以上寄り道はすまいとレジへ向かう。本屋にいるとついつい目移りして時間を忘れてしまうが、今日は留守を任せているので早々に会計を済ませ、本屋を後にした。
次に向かったのは、ファミリー向けの衣料品の専門店。最初に目についたのは、店頭にディスプレイされていた女の子向けのワンピース。雪弥には尻尾が生えているため、ズボンは腰まで上げられないし、自力で立つこともできないので、上から一度で着られるワンピースは部屋着には良いのではないかと本気で考えたが、また久坂に変態と罵られるのが容易に想像できたのでやめた。マネキンのサイズ感を参考に適当に服を選び、ズボンはゴムのものを選んだ。雪弥は紙パンツを穿いていたが、トイレもすぐに覚えられるのではないかと思い、下着も購入。ついでに自分の下着と靴下も買った。
荷物が多くなってきたので、薬局に寄ったら一度車へ戻ることにした。薬局では、紙パンツと雪弥の歯ブラシを購入した。
車へ戻って荷物を降ろし、スーパーへ向かう。閉店間際で、野菜や果物など、一部棚がガラガラだった。一番時間が掛かったのがスーパーでの買出しだった。雪弥の好みがわからず、甥の好みを参考にしてかごに入れた。
帰って来る頃には、家を出て2時間ほど経過していた。すでに撮影は終了しているかと思っていたが、場所を寝室に移して撮影が行われていた。
違和感を覚えて、寝室を覗く。全裸の雪弥が、ベッドの上に転がされていた。
「おかえり。遅かったな」
「お前……何してるんだ?」
「何って、見ての通り写真撮ってるんだけど」
「カメラ寄越せ。データ全部見せろ」
会社のだから壊すなよと言いながら、久坂が涼しい顔で俺にカメラを渡す。液晶画面には、全裸の雪弥の写真がいくつも表示されていた。中には出会った頃のように拘束具を使われている写真もあった。
「お前、いつからポルノを扱うようになったんだ?」
「勘違いするなよ。オメガをそういう目的で飼う輩も一定数存在してるんだ。これは事実だ」
今にも掴みかかりそうな勢いの俺とは対照的に、久坂はどこまでも冷静だった。
「この写真、今すぐ消せよ」
「お前はただこいつを預かっているだけに過ぎない。自分には関係ないと、冷静なお前なら判断できるはずだけど」
「いいから消せよ!!今は俺が預かってるんだ。関係ないとは言わせないぞ」
溜息に苛立ちを滲ませた久坂が俺の手からカメラを取ると、画像を消去して俺に見せた。雪弥の写真は一枚も残っておらず、高級そうな旅館の写真と、豪華な料理の写真のみが表示されていた。
「猥褻目的にオメガを利用しない奴を探せ。約束だ」
「……わかったよ。写真は後日、また改めて送ってくれ。今日は帰る」
頭に血が上った俺を相手に話をするのは無駄だと思ったのか、拍子抜けするくらいあっさりと久坂が引き下がった。雪弥に駆け寄り、毛布で身体を包んだ。ぎゅっと雪弥の身体を抱きしめる。
「ごめんな、雪弥。ごめん……怖い思いさせたな」
雪弥からは何のリアクションも返ってこなかった。
「おいおい、俺を悪者にするなよ。じゃあ俺は帰るから、戸締りちゃんとしとけよ」
帰り支度を整えた久坂が、ドアを開けて出て行った。どれくらいの間そうしていただろう。雪弥を安心させるためというよりも、自分が落ち着くために雪弥を抱きしめていた。
「雪弥、お前の服を買ってきたんだ。着てみてくれる?」
待ってて、と声を掛けて隣の部屋に服を取りに行く。タグを切ってから、一枚一枚広げて見せた。雪弥は相変わらず無反応で、何のリアクションも示さなかった。
白の肌着を着せてから、星が散りばめられたパジャマを着せる。サイズが大きかったのか肩周りはブカブカだったが、雪弥は腕が長いため袖の長さはピッタリだった。されるがままになっている雪弥は、まるで等身大のお人形だ。
「これからトイレ覚えような」
ベッドに座る雪弥の前にしゃがんでブリーフを穿かせ、両足にズボンを通した時。雪弥が俺の髪に触れた。驚いて見上げると、灰色の瞳と視線がぶつかる。
「なに、雪弥。どうしたの」
聞いたところで、雪弥が喋るはずがない。雪弥の手が、優しく俺の頭を撫でる。年甲斐もなく涙が出そうになった。酒が入っていたら確実に泣いていたと思う。
雪弥を置いて出掛けてしまったことへの後悔。雪弥への同情。何もしてやれなかった不甲斐なさ。久坂への怒り。そして、裏切られたかのような失望感。動揺を20以上も歳が離れているであろう子供に全て見透かされているようで、恥ずかしい。雪弥の方がずっと辛い思いをしているはずなのに、俺の方が慰められるなんて情けない。雪弥は、何事もなかったかのように涼しい顔をしていた。それがまた哀しかった。
「あいうえお練習帳買ってきたんだ。明日からひらがなの勉強しような」
顔を見られたくなくて、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
湯船に浸かっていると少し冷静になれた。俺はオメガについて何も知らないんだと己の無知を認める。だが、やっぱり雪弥に慰められたことを思い出すと穴を掘って埋まりたくなった。湯船に張られているお湯を両手ですくい、勢いよく顔にぶつける。いっそのこと、なかったことにできればどれだけいいか。
風呂から上がって寝室を覗くと、雪弥がこちらに背を向けて布団をかぶっていた。ドライヤーで髪を乾かしてからソファに寝そべり、携帯でオメガについて調べてみた。
オメガ、と検索すると、真っ先に出てきたのはオメガ販売専門店のURL。その次に、オメガ専門の風俗店。キメラ廃止を訴える論文だったり、キメラの生態や歴史について詳細に書かれているページなど色々出てきたが、その中でもオメガ飼育日記、と書かれているブログを開いてみた。何かの参考になれば、と見てみたが、猫耳のついた裸の女の子を首輪で繋いでいる画像を見てすぐにブラウザを閉じた。残念だが、久坂の言う通りだった。全く嫌な世の中だ。
雪弥の声と足についてだが、どうやら口が利けず、歩けなくされているオメガは多いらしい。その理由は、国のオメガの飼育環境の立ち入り調査に原因があるようだ。オメガの飼育には、脱走を未然に防ぐために厳重な管理が義務付けられている。いくつかチェック項目があるのだが、歩けなくすることによってそれをだいぶクリアできるらしい。口が利けないということもそれに関係していて、声を失わせることによって防音設備が不要になる。オメガの不自由と引き換えに、人間がオメガを飼いやすくなるというわけだ。声帯の切除と腱の切断は国の推奨らしい。中には全て歯を抜かれたり、両手が切断されているオメガもいるらしいから、それに比べたら雪弥はまだマシなのかもしれない。
色々なページを見ていく中で、オメガの人権を訴える記事だったりオメガを我が子同然に可愛がっている人の存在があったことに少しだけ救われたような気がした。
気がついたら時刻は午前1時を回っていた。生活習慣の見直しを決めたばかりだ。アラームを8時にセットして寝室へ向かう。ベッドに入ると、耳だけ残してすっぽりと頭まで布団をかぶっていた雪弥が顔を覗かせた。
「ああ、ごめん。起こしちゃった?まだ寝てていいぞ」
じっと俺を見つめていた雪弥が、すっと目を閉じた。無意識のうちに手が伸びて雪弥の頭を撫でていた。
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