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第2話

担当にメールを出し、仕事が終わったのは午前5時だった。 伸びをしてパソコンの電源を落とし、欠伸をしながら寝室へ向かう。ドアを開けると、誰かがベッドにいてビクッとする。そういえば、昨日から雪弥を預かってるんだった。ゆうべ、とは言っても日付を超えていたが、あれからちゃんと眠れただろうか。 付けっぱなしになっていた明かりを消し、雪弥の隣に身体を横たえると布団を手繰って目を閉じた。疲れと眠気で、とてもではないが他人に構っている余裕はない。すぐに眠りに落ちた。 目が覚めたのは、夕方4時半頃。生活習慣の乱れた物書きなんて大体こんなものだろう。なぜか夜の方が仕事が捗るため、夜に仕事をして朝方眠りに就き、夕方頃起き出してはまた仕事をする。例外はあれど、これが俺のライフワークだった。いつもと違ったのは、たまに起きたときに布団を抱きかかえていることがあるのだが、今日はそれが犬耳の少年だったことだ。 「ごめん」 すぐに解放するが、雪弥は一瞬俺をじとっとした目で見ると、寝返りを打って向こうを向いてしまった。 「おはよ、雪弥。トイレは?」 返事がない。こちらを振り向く気配もなく、勝手に行かないものと判断し、お先に、と声を掛けてベッドを降りた。 用を足しながら、ふと雪弥が歩けなかったことを思い出す。この時間まで、雪弥はトイレにも行けず食事もできず、ずっとベッドの上から動けずにいたのだ。俺は夕方起き抜けに1食と、夜仕事をしながら小腹が空いたら間食をするだけで事足りるのだが、成長期の雪弥にはそれでいいはずがない。俺自身、生活習慣を見直す必要があるのではなかろうか。 「ん?やっぱりトイレ行く?」 寝室へ戻ると、犬耳の少年はベッドに腰掛けていた。部屋に入ったときに目が合ったが、すぐに逸らされた。隣に腰掛けると、あからさまに雪弥が身体を強張らせる。 「お腹空いてない?」 問いかけに対して、雪弥が小さく首を横に振った。 「別に遠慮しなくていいんだぞ」 これに対しては、無反応。 「じゃあ先に風呂入るか」 話しかけているつもりが、完全に独り言になっていた。風呂を沸かし、脱衣所に椅子を設置する。 たまに雪弥と同い年くらいの甥を相手にすることがあるのだが、生意気な甥に比べたら雪弥の方がおとなしいからなんとかなるだろうと思っていたがとんでもない。甥は甥で疲れるが、雪弥は雪弥で何を考えているのかわからないし、とにかく神経を使う。まだ1日も経っていないのに早くも疲れた。 お湯が溜まるのを待つ間、部屋干ししていた洗濯物を乾いているかチェックしながら竿から外し、畳んでクローゼットに収納する。その間、雪弥はベッドの上で置物と化していた。クローゼットは寝室にあるため、服をしまいに行くときに雪弥を放置していたことようやくに気付いた。 雪弥を横抱きにして隣の部屋へ移動する。ソファに座らせると、適当にテレビをつけてリモコンを雪弥に渡した。新聞受けにぎっしり詰まった郵便物を取りに行き戻ってくると、リモコンを渡したところで雪弥がチャンネルを変えているということはなく、テレビはつけたときのままの報道番組の画面になっていた。テレビの音を聞きながら新聞とその他の郵便物とで仕分けをし、雪弥の隣に腰掛けてローカル新聞を開いたところで風呂が沸いたことを知らせる音が鳴った。 「じゃあ行こうか」 開いたばかりの新聞を畳み、脇に置く。雪弥を抱き上げ、狭い脱衣所へ向かった。脱衣所に用意しておいた椅子に座らせると、サスペンダーを外した。雪弥には尻尾が生えているため腰までズボンが上げられず、それでサスペンダーをしていたのだろう。寝苦しかっただろうに、夜寝かせるときに外してやればよかった。 シャツに手を伸ばしたところで、昨日の久坂の「セクハラしてるみたいだぞ」という言葉を思い出し、ボタンをひとつ外したところで手を引っ込めた。 「自分で脱げる?」 白い手を胸元に持ってくると、第2ボタン以降を自分で外し始めた。男同士だから遠慮することもないのだろうが、何となく気まずくて後ろを向いた。時間を置いてそっと後ろを振り返ると、上半身裸の雪弥が脱いだものを膝の上に置いておとなしくしていた。透き通るような肌の白さに、思わずドキッとする。薄い肩に、浮いた鎖骨。目を引くのは、身体のわりには少し大きめの乳輪。薄い桜色をしていて、乳首がツンと立っていた。雪弥の顔立ちが中性的なのも相まって、見てはいけないものを見ているような気分になる。 「それ、ちょうだい」 雪弥の膝の上からシャツを取ると、雪弥のすぐ隣に置いてある洗濯機の上に置く。ドラム式の洗濯機なので、雪弥が退いてくれないとドアを開けられない。 「ズボン脱がすから、掴まってて」 雪弥に身体を近づけると、長い腕がするっと首に巻きついた。身体を支えるために片手を背中に回して素肌に触れると、温かくてサラサラしていた。着衣のときにはなんとも思わなかったのに、悪いことをしているような気分になる。少し腰を浮かせて、ズボンを下着を一緒に下ろした。 「もういいよ」 尻を椅子の上に戻してやると、ふっと腕の重みがなくなった。雪弥の前にしゃがみ、太ももまで降りているズボンと下着を足から抜く。そこで気付いたのは、雪弥が紙パンツを穿いていたことだ。道理でトイレに行かなくても平気だったわけだ。 意識的に下半身は見ないようにした。ズボンの裾を捲くって雪弥を抱き上げ、浴室に入る。床は冷たかったが、床の上に雪弥を下ろした。万が一バスタブの縁に座らせて、ひっくり返って溺れるとも限らないし、風呂椅子に座らせて踏ん張りが利かず滑って頭を打ったら事だと思ったからだ。 洗面器でバスタブの湯をすくい、雪弥のつま先に掛けた。 「熱くない?」 無表情な顔で雪弥が頷く。 「そう。じゃあ全身濡らすね」 再び浴槽から湯をすくい、今度は背中に掛けた。右肩、左肩と濡らしたところで雪弥の尻尾が身体に巻きつけられ、小刻みに震えていることに気が付いた。 「もしかして、お風呂嫌い?」 心なしか、蒼褪めて顔色が悪いように見える。このような場合、どうしたらよいのだろう。一日二日預かるだけならばじゃあやめようと言ってやれるのだが、何日になるかわからないのならいずれは風呂に入れなければならなくなる。 「目瞑っててね。髪濡らすよ」 可哀想だとは思うが、無理矢理洗うことにした。洗面器で一気にお湯をかぶせるよりは多少はマシだろうとシャワーを手に取り、温度を調整してから雪弥の髪を濡らす。シャンプーを出し、手のひらに広げて雪弥の髪を洗った。雪弥がおとなしい子供でよかった。抵抗されるわけでもなく、滞りなくシャンプーが済んだ。すぐに乾いたタオルで顔を拭いてやる。 「偉かったな、雪弥」 褒めてやるが、ふいっと顔を背けられた。 「もうちょっとで終わるからな」 スポンジを手に取り、そこにボディソープを乗せる。泡を立ててから、それを雪弥の小さな背中に擦り付けた。 雪弥の背中を洗っていると、ふと、左足のかかとに黒いものが付いていることに気付いた。最初は汚れかと思ったが、よく見ると縦線が何本も入っていて、バーコードのようだった。スポンジで擦るが、取れる気配がない。雪弥は俺が何をしているのか気になるらしく、こちらを振り返った。 「前は自分で洗いな。終わったら呼んで、流してやるから」 雪弥にスポンジを渡して、浴室を出た。書斎にスマートフォンを取りに行き、画面を立ち上げる。朝出したメールについて担当から返信があったが、それは後回しだ。QRコードのアプリを立ち上げると、浴室のドアを開けて雪弥の足のバーコードを読み込む。いきなりドアを開けられて、雪弥がこちらを向いたまま固まっていた。ごめん、と声を掛けてドアを閉める。脱衣所の椅子に腰掛けて、情報を表示させた。 出てきたのは、恐らく雪弥のコードナンバー。大量の文字が羅列していて、下にスクロールしていくと、区分、オメガという表記と顧客ナンバーが出てきた。なんだか、嫌なものを見てしまった気分だ。 スマホを開いたついでに担当からのメールをチェックし、画面を閉じて洗濯機の上に置いた。そろそろいいだろう。呼んで、とは言ったが、雪弥から俺を呼ぶとは考えられない。一声掛けてから浴室のドアを開けた。 浴室の床でひっくり返っている雪弥を見てギクッとする。片手は性器に添えられ、もう片方の手は足の間に割り込ませていた。とっさにドアを閉めようと思ったが、待てよ、と思い止まった。この体勢で、一畳にも満たないこの狭いスペースで、しかも濡れて滑りやすい床で。足の筋を切られて踏ん張れない雪弥が自力で起き上がれるわけがない。肩を抱き膝の裏に腕を入れて抱き起こす。 「大丈夫か!?どこも打ってない?」 呆気にとられたように目を丸くした雪弥が力なく頷く。身体が冷えて、冷たくなっていた。すぐにシャワーを捻り、雪弥の身体にお湯を掛けた。 「ごめんな、放っておいて」 泡を全て流したところでシャワーを止め、すぐにバスタオルで雪弥の身体を包んだ。抱き上げ、浴室を出ようとしたところでふと足を止めた。 「……続き、する?」 雪弥が首を横に振った。 雪弥を椅子に座らせ、雫が滴る髪をタオルで拭く。雪弥はまだ子供だと思っていたが、デリカシーに欠けていたと反省する。雪弥よりも身体も態度も大きい甥も、俺が知らないだけで大人の身体になっているのだろうか。それとも、雪弥はオメガだからヒトよりも身体の成長が早いのだろうか。 身体を拭いていると、嫌でも白い肌が目に入る。見ないようにと意識していた下半身も目に入ってしまい、先程見た光景と相まって目のやり場に困る。まともに雪弥の顔が見られなかった。 キメラは去勢・避妊が義務付けられているが、雪弥も睾丸が摘出されているようだった。全体的に体毛は薄く、陰毛や脛毛は生えていない。もはや尿道としての役割しか果たせていない男性器は、ヒトのそれとは異なった形をしていた。 子供用の服などは持ち合わせておらず、一先ず自分の服を着せることにした。一番サイズの小さいものを選んだつもりだが、それでも雪弥にはブカブカだろう。スウェットを一枚渡し、それを着てもらっている間に自分は濡れた服を脱ぐ。下着までびしょ濡れになっていて、着替え終わる頃には雪弥の着替えも完了していた。 下着を身につけていない小さな身体に、くたくたでブカブカのスウェット一枚。久坂に見られたら、間違いなく変態扱いだろう。 本当は脱衣所でドライヤーを使いたかったが、脱衣所は寒いのでソファのある部屋に移動した。部屋を閉め切って暖房の温度を上げる。意外にも雪弥はドライヤーを嫌がらなかった。濡れてぺたっとしていた髪はふわふわになり、いくらか細くなって見えていた尻尾もボリュームを取り戻した。あとで濡れた床を拭くのが大変そうだが、なんとかひとつの仕事が無事終わってやれやれする。 だが、これで終わりではない。飯を作ってやらなければならないし、自分の風呂も済んでいない。その前に、床掃除だ。 無意識に溜息を吐き、立ち上がる。床を拭いてから冷蔵庫を開けると、昨日土産に買って持って帰ってきたアップルパイと酒以外ほとんど何も入っていない。買い出しにも行かなければならない。卵とベーコンと、冷凍庫にご飯があったからオムライスか炒飯くらいは作れるだろう。子供が好きなメニューといったら、オムライスだろうか。 メニューが決まったところで早速調理に取り掛かる。雪弥にオムライスを作ってやり、自分の夕飯にはアップルパイ1ピースをオーブンで温めた。マグカップにインスタントコーヒーを入れたところで、ふと雪弥の元へ足を運んだ。 「雪弥、コーヒー飲める?」 テレビを見ていた雪弥が無表情な顔をこちらに向ける。 「コーヒー。わかる?」 雪弥は首を横に振る。 「うーん……緑茶と紅茶、どっちがいい?」 この質問に対しては、雪弥は何も答えなかった。 「じゃあ、水でもいい?」 ようやく雪弥が頷いた。このやり取りに違和感を覚えながらキッチンへ足を向ける。久坂は食べ物は人と同じでいいと言っていたが、雪弥はコーヒーを知らなかった。オメガの食事についてきちんと調べておいた方がいいのかもしれない。 雪弥にはオムライスと水を、自分にはアップルパイとコーヒーをそれぞれ用意して雪弥をキッチンへ連れて来た。ひとりの時には絶対言わない「いただきます」をして、シナモンの効いたアップルパイを一口齧る。 雪弥が手を付けようとしないのは想定していた。いくら勧めても、じっと目の前のオムライスを見つめるばかりでスプーンを持とうとしない。 オムライスを一口すくって口元に運ぶと、雪弥が口を開けた。大きな耳をピクピクと動かしながら咀嚼をする。また一口、スプーンですくって差し出す。今度を意地悪をして、2秒ほど雪弥の前で止めていたが、やはり雪弥の方からスプーンを咥えることはなかった。雪弥を見ていて、気付いたことがある。何をするにしても受身で、食事ですら自発的に動かない。 席を動くために椅子を引くと、雪弥がビクッと身体を緊張させた。雪弥の隣に移動するが、後ろめたいことでもあるかのように目を合わせようとしなかった。 「雪弥」 一口分すくって、食べさせる。 「スプーン持って」 柄を雪弥に向けて渡すと、おずおずと伸びてきた手が柄を握る。 「全部食べていいよ」 しばらく俺を見つめた後、食べかけのオムライスに視線を移し、ぎこちない手つきで卵と、ケチャップライスをスプーンに載せる。上目遣いで俺を見上げながらそれを口に含んだ。 「美味い?」 雪弥が頷く。 「よし、いっぱい食べな」 犬を撫でるように、ぐしゃぐしゃと雪弥の髪を乱す。嫌がるかと思いきや、テーブルの下でパタパタと尻尾が振れていた。それからは、俺の顔色を窺うこともせずにオムライスに夢中になっていた。表情がないせいで子供らしさが感じられなかった雪弥だが、オムライスを頬張る姿を見ていると歳相応に見えてくる。その食べっぷりに、自分の食事を忘れて雪弥を眺めていた。 「ケチャップついてる」 皿を空にした雪弥に手を伸ばすと、雪弥がビクッと身体を硬くする。口の周りについたケチャップを指で拭ってやり、ティッシュを一枚引き抜いて手を拭く。 雪弥がじっとこちらを見つめるから、つい構いたくなって大きな耳に触れた。髪を撫で付けると、雪弥がとろんと目を細めた。 「これ、食べてみる?」 雪弥の前に皿ごと食べかけのアップルパイを置くと、わかりやすく雪弥の尻尾が大きく振れた。 「いいよ、食べな」 雪弥が俺の顔色を窺う。フォークとナイフを出してやるべきかと思った時には、雪弥がアップルパイに手を伸ばしていた。豪快に素手で頬張る雪弥の髪を撫でてやる。手を伸ばすとビクビクされるが、触れても嫌な顔はされないから、きっと雪弥は触られることが嫌いではないはずだ。 よほどお腹が空いていたのか、オムライス一人前とアップルパイ1ピースをぺろりと平らげてしまった。コーヒーを飲ませてみたが、これはお気に召さなかった様子で眉間に皺を寄せて一口飲んだきり二度と口を付けようとはしなかった。

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