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#06
慣れたように要の部屋のドアを開け、染み付いた嘘の和樹を演じて要の相手をする。食器を洗ってから、静かすぎる時間に耐えられずにテレビの電源をつけた。
特に面白い番組もなく、比較的静かなニュース番組にチャンネルを合わせる。世の中は思ったよりも平和なようで、殺伐としたニュースはさほど流れてこなかった。
戦争特番の時期よりも少しはやく、それでいて暑くて憂鬱な季節。テストが終わった頃には終戦の日に向けて過去の凄惨な歴史がテレビで繰り返される。
悲しい出来事をいつから正面から受け止めなくなっただろう。上滑りする毎日をどうにか生きて、春夏秋冬を繰り返している。
過去にあった悲しい出来事を歴史として知っていても、その悲しさを今に結び付けられない。現代っ子だから、と世間は評価するだろうか。確かにその悲しさを理解していた時期はあったのに。
「お待たせ。なに見てるんだ?」
「面白いのなにもやってなかったから、ニュースにした」
要が那月の隣に座って那月の顎を掬った。静かに口付けられて、舌を差し出す。
「やるなら、ベッドいこ」
「ああ」
要の部屋でセックスをしない日などない。すぐ隣にある寝室になだれ込んで、服を脱がされる。
「今日はおとなしいな」
「……そう?」
「疲れてるんなら、優しくする」
いたわるように髪を手で梳かれて吐き気がした。
酷くしてとは言わなかったが、優しくされたくはなかった。優しくするくらいなら自分勝手に振り回して壊して欲しかった。
「……ん、ぁ」
どうせ行為が終われば投げ捨てられるのだ。殴って、蹴って、本物の和樹を探しに行く。
かわいそうな人。那月のせいでおかしくなってしまった、かわいそうな人。
要も江田先輩も那月にふりまわされている被害者でしかない。ふりまわしている自分は被害者ぶった加害者だ。
腰を強く打ちつけられて喘ぎを漏らす。汗が腿を伝った。
与えられる暴力は、日を増すごとに酷くなっている。
昨晩、那月に与えられた傷はもう洋服では隠しようがないところにまでいたっていた。
要が壊れはじめた頃はまだ服で隠れる場所ばかりだった。きっと要にもどこか冷静な部分があったのだろう。腹や脚、背中が主で、痛みはあったが隠すのには困らなかった。
それが今は首や顔、腕にも裂傷や打撲の痕がある。腕であれば長袖のシャツを着れば誤魔化せるが、顔や首に関しては隠すにも限界がある。それもあって那月は家に家族がいる時間に帰れていなかった。
大学から電車で三十分ほど離れた場所に那月の家はある。今は母と那月の二人暮らしだ。兄は就職を機に一人暮らしを始めた。とは言ってもそれほど離れて暮らしているわけでもないので、休日にはよく帰ってきていた。父は単身赴任中で長期休暇のときくらいしか姿を見ない。
母は那月が小さい頃からずっと仕事をしていた。大学生になってからは、弁当も夕飯も自分でどうにかしなさい、と家にあまり帰ってこない。帰ってきても持ち帰りの仕事をしているようで、那月に構うことをしなかった。
昔から放任主義だったようには思う。父もこの家を買ってからすぐに単身赴任になったし、母も忙しそうだった。最低限必要なことはしてくれていたし会話もある。誕生日や特別な祝い事があれば食卓にケーキが並んだ。
いわゆるネグレクトのようなことは一切なかった。怪我をすれば心配され、悪さをすれば怒られる。ただ何事も起こさないように生きていれば、何も言葉を投げかけられない。那月にとって両親とはそういう存在だった。
兄にとって両親はそうではなかったのだろう。和樹のために作られたアルバムには、和樹が父と楽しそうにキャッチボールをしている写真や遊園地での家族写真、たくさんの記録がそこにあった。そのせいか仕事に忙殺される両親の代わりに那月をかまったのは和樹だった。
「お父さんとお母さんは、那月が嫌いなんじゃないんだ。那月のことが大好きだけど、今はちょっとお仕事が忙しいだけなんだ。だからいい子でお仕事が終わるのを待っていような」
幼い頃に嫌というほど聞かされた。和樹はそうやって那月をなだめて、一緒に遊んでくれた。
誰もいない家に戻って手早く着替える。冷蔵庫の中を物色してベーコンと卵を見つけた。
熱したフライパンに油を引いて卵を落とす。塩と胡椒を振って、端の方で薄く切られたベーコンを焼いた。水を少し入れて蓋をして蒸し焼きにする。
電気ケトルで沸かしたお湯でインスタントのコンソメスープを溶かし、あらかじめトースターに入れておいた食パンを取り出した。こんがりと焼き色がついたそれを半分に切って、焼きあがった目玉焼きとベーコンをのせた。
パンに挟んで食べる目玉焼きは、朝食のメニューで一番気に入っているものだ。とろりと落ちた黄身を指ですくって口に含むのが美味しい。人前ですると行儀が悪いと怒られるが、今は家に那月しかいない。
コンソメスープを飲み干して、軽くゆすいでからインスタントコーヒーをいれる。砂糖もミルクも入れずに飲むコーヒーは、よく身体にしみた。
ガチャリと玄関のドアが開く音がして、ぴくりと那月の肩が震えた。まだ母親は仕事に行っている時間だ。
逃げるのも間に合わず母がリビングへと入ってくる。
「那月帰ってたの? ……って、その傷どうしたの?」
「え、これ? 大道具作ってたら接着が甘かったみたいで、角材が当たったんだ」
「サークルもいいけど、あんまり危ないことしたらだめよ」
「はぁい」
母はダイニングテーブルの端に置いてあった封筒を手にして、少し悩んでから口を開いた。
「最近帰ってこないけど、あんまり人に迷惑かけたらだめよ。先輩とか、要くんのところにも泊まっているんでしょう。要くんも仕事があるんだから」
「わかってるよ。サークルのときは、だいたい先輩に泊めてもらってるから、あんまり要さんのところには行ってないよ」
「そう。でも先輩だってやることあるでしょうから、迷惑かけたらだめだからね。あんまりお世話になるなら、何かお礼の品を買っていくのよ」
わかってる、と返事をすると、母は急ぐのかすぐに家を出ていった。
こういう時、母親というのは「ちゃんと家に帰ってきなさい」というものなのではないだろうか。そんなこと大学に入学してから一度も言われたことはなかった。
連絡を入れれば何も言われない。どこで何をしていようと、騒ぎさえ起こさなければ心配されることもない。
午後の講義に出るために教科書を鞄に詰めて、部室へと向かった。まだ誰もいなかった。
誰か来る前に早く済ませてしまおうととメイク道具の入った箱を取り出す。舞台用のそれは濃くて、下手に扱えば一発で傷を隠しているのがばれてしまう。鏡を見て調整を重ね、どうにか傷を隠したところで、ドアが開いた。つくづく今日は運が悪いと思う。
「おはよう! あれ、深谷くんどうしたの? 化粧道具なんて出して」
「高木さん、おはようございます」
高木からの質問に答えず、そっと箱を元の場所に戻した。
「で、深谷くんはお化粧してなにしたかったの?」
「なにもないですよ。ただどんなふうになるのかなー、って思いまして」
「嘘だね。ぜったい嘘。どうせ何か隠そうとしていたんでしょう? 演技は上手だけど化粧は下手ね」
高木はそう言って那月の顔を親指でぐっとこすった。
「女はね、男よりも化粧について敏感なのよ」
にっ、と笑った高木はいつになく綺麗だった。役に合わせて染め直したらしい真っ黒の髪に、大きな瞳。きりっと上がった目尻に、綺麗に引かれたアイライン。唇はぽってりつやつやしている。
「購買でメイク落とし買って全部落としておいで。私がやってあげる」
高木に背中を押されてすぐそばにある購買へと走った。昼休みになる前に済ませなければ、どのみち江田先輩にばれてしまう。
拭き取り式のメイク落としを顔に擦り付け、部室棟のトイレで顔を洗った。タオルで顔を適当に拭って戻ると部屋には鍵がかかっていた。
「あっ、待ってー、今開ける」
そう言ってドアを開けた高木は那月が入ったのを確認してからまた鍵をかけた。
「深谷くん、座って」
促されるままにパイプ椅子に腰掛ける。向かいに高木が座った。
「昨日友達の家に泊まったおかげで、全部持ってきてることに、よぉく感謝しなさいね。珍しくコンシーラーも下地もあるから」
「すみません……」
慣れた手つきで化粧水を塗られ、乳液とやらをさらに重ねられる。そのまま迷うことなく那月の顔にいろいろなものが塗りたくられた。怪我をした頬や額意外にも薄く化粧が施される。
「こんな傷、どこで作ってきたの」
「……ちょっと、いろいろありまして」
「喧嘩っていうかんじでもなさそうだし、その首のところからなんとなく想像はつくんだけど、やっぱり言えない?」
頬を柔らかいブラシで撫でながら、高木は真剣な顔で訊く。ストールを外したせいで昨日つけられた情交の痕は丸見えだったし、自分で塗った化粧を落としたせいで、首には絞められた痕が残っている。
首を絞められた痕を残したまま電車に乗ることはできず、途中のドラッグストアで買ったコンシーラーで痕を隠してはいた。母は那月が覆い隠した傷に気づいたそぶりは見せなかったから、きっとぱっと見てわかるほどではなかったのだろう。
「男がこんな傷ばっかりで、しかもキスマークまでつけて気持ち悪いと思わないんですか」
「んー、まぁ、なんで抵抗しないのとは思うけどね。深谷くん優しいから、されるがままになっているんでしょう? それに相手は女の子じゃなさそうだし」
そこまでわかっていて、と言いかけて、那月は口をつぐんだ。高木の目が、言わなくていいと訴えていた。
「那月くんほどきれいでかわいかったら、男でもありだなって思ったけど、そういうのじゃなくてね。……江田があまりにも過保護だったから、かな」
「江田先輩がですか?」
「うん。深谷くんが用事あるって帰るとすぐに不安そうな顔をしてるし、いつも顔と腕と首を気にしてるし。深谷くん、夏でも長袖着てるでしょう? それ見て顔しかめてるし……」
「……気がつきませんでした」
「江田も深谷くんと一緒で隠すのが上手だからね」
高木は困ったような顔をして、言葉を続けた。
「このサークルに入ってから江田と一緒にいるけど、江田はいっつもよくできた笑顔を作ってて気持ち悪いなって思ってたの。そしたら深谷くん連れてきて構い出すんだから、一緒にいた子たちはみんななんで深谷くんをそんなに特別扱いするのかわからなかった。私もね、最初はよくわからなかったの」
顔の化粧が終わったのか、高木は那月の首に化粧水を塗りこみはじめた。
「でもね、ずっと見てたらわかったんだよね。深谷くんも、江田と一緒なんだって。何か他の人には知られたくないことがあって、それを一生懸命に隠してる。たぶん、江田はそれを半分くらい知っていて、でも全部は知らない。わざと演技が下手なふりをして、のらりくらりと舞台に立つのを交わして、江田が心配するのを笑ってごまかして……。似てるなぁって」
「そんなに、知ってたなんて」
「知ってたけど、それが本当かはわからなかった。でも今日確信したよ。深谷くんはこれが原因で舞台に立たないし、江田に隠し事をしている。そうでしょう?」
首にあった絞められた痕をつうっと撫でて、高木は言う。小さく「できた」と笑って、化粧道具をポーチに詰めながら言葉を続けた。
「サークルでもさ、役者やってると人を観察するようになるの。みんな色々事情があって、言ってないことも隠していることもあるだろうし、私はそれに突っ込んでいくようなことはしない。けど、私は知っているんだから私には愚痴くらい言ってもいいんだよ」
高木は何も気にしているようなそぶりを見せず、けれど優しい言葉を那月に投げかける。
「江田には言えなくても……私だって、深谷くんの先輩なんだから」
「……はい。ありがとうございます」
鏡を手渡され、促されるままに自分の顔を見た。さっきとは明らかに違う違和感のない顔。
「さっき買ったメイク落としでちゃんと落とさなきゃダメだよ」
「はい」
「あと、あまりにも下手だから、今度ちゃんと教えてあげる」
「ありがとうございます」
面倒見のいい高木は「いいってことよ」と綺麗な笑顔を作って那月の頭を優しく撫でた。
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