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#05
学園祭の台本が出来上がったと江田先輩に呼び出された。コピー用紙の束を手渡してきた江田先輩をじっと見つめた。
那月の手にあるのはよく知っている懐かしい物語だった。確かに書き直されてはいるし、アレンジもされている。けれどこの台本は、那月が高校三年生の夏に演じた『天使の花束』そのものだった。
「ネタがなかったわけじゃないんだ。なんとなく夏になるとこれが書きたくなって、毎年手を入れてた。今年なら出してもいい気がして、な。学園祭の舞台は定期公演みたいに長くはないし、ちょうどいいだろ」
演じてよ、と言われたような気がした。いや、先輩は那月に演じてほしくてこれを引っ張り出してきたのだろう。さっき印刷されたのだろう、ほんのりとあたたかい紙にびっしりと綴られた悲しい夏の恋物語。暑い季節に行われる学園祭にはもってこいの演目だ。
「俺はやりません」
「うん、知ってる。そう言われるだろうと思ったし……。でも、考えてみてほしい。二公演のうちの一公演だけでもいい。前野と那月のダブルキャスト、とか」
「……嫌です」
江田先輩が卒業して寂しさいっぱいの中で演じた役を、誰かに演じられるのは嫌だ。道を踏み外してそれでもその時は正しいと思っていた。こんなにもこじれて自分を見失うと思っていなかった。
だからこそまだ何も失っていなかった頃の那月が演じた役をやり直すのは辛い。
わがままだ。自分の役を人にとられるのは嫌だ。あの時江田先輩が褒めてくれた高校生の那月が薄れていくように感じられる。一方で必死に深谷那月を演じているだけの偽物が、きらきらした思い出を汚してしまうのも耐えられない。
高校の体育館の暑いステージで声を張り上げた思い出も、先輩が卒業した寂しさを埋めるために部室にあった台本を片っ端から読んだことも、棚の奥に隠してあった『天使の花束』を引っ張り出して演じたのも。全部大切な思い出で、失いたくはなかった。
「どうしても、これをやるんですか」
絞り出した声は本心で、どうかこの一言で諦めてくれはしないかと願う。
「やるよ。というか、やっとこれをステージにのせる覚悟ができた」
「……え?」
「いや、こっちの話」
那月の気が変わったらすぐに教えて、と言い残して先輩は去っていった。那月の手元に残った脚本が存在を主張している。
二年前と変わらないタイトルが付けられたその物語は、主人公の男が歩道橋から飛び降りるところからはじまる。死にかけた男が一年前に死んだ恋人とひと夏を過ごす、恋物語だ。
×××
エアコンの効いた教室での講義を終えて、降り注ぐ夏の日差しに目を細める。じりじりと肌を焼く日光から逃げるように部室棟へと向かった。
足早に階段を登り、熱されたコンクリートばかりが敷き詰められた屋上の扉を開ける。陰になった場所に腰を下ろして晴れ渡る青空を眺めた。
正確な距離はわからないけれどずいぶんと先に入道雲ができていた。そのままゆっくりと那月のいる場所までやってくるのならば雨が降るだろう。いっそ夕立がきてくれればと思うが、雨を喜ばない人間の方が多いのだから晴れたままでもいいのかもしれない。
鞄からいつものように台本を取り出した。手に当たったコピーの束は渡された日から読むことも捨ててしまうこともできず、ずっと鞄に入れっぱなしだった。
どうして真っ先に渡されたのだろうか。どうして、これをもう一度やろうと思ったのだろうか。
江田に尋ねることもできないまま数日が経ち、もう直ぐテスト週間に入るから活動も終わり、と言われるくらいになった。
「──でもそれは、誰にでもできることじゃない。あなたは、結果として世界を救っただけかもしれない。でも、世界を救ったのだから、あなたはヒーローだ。そこに高尚な思いなどなくとも、あなたは確かに世界を救ったのだから」
飽きるほど読んだ台本の一節。世界を救ったのならヒーローだと言う男の台詞。高尚な思いなどなくてもいい、どんなに貪欲でも、わがままで自分勝手でも、結果として世界を救ったのならば、それでいい。
たくさんの選択肢があって、何気なく選んだものがこうして結果に結びつく。下駄箱で江田先輩に声をかけられて立ち止まった日も、要に馬鹿な提案をした日も、全部がどうでもいいような選択の末にあった。どこで間違えてしまったのかさえ定かではない。
結果が全てだ。過程なんてものは慰めや言い訳の材料にしかならない。今ここで那月が生きているという結果が全てだ。那月を取り巻く環境も、全部自分で選んだものだった。
「──どんなに素晴らしい人間も、誰かを傷つけずに生きてはいけない。あなたもご存知のはずだ。悪者にも大切な人がいるのを、あなたは知っている。でも、あなたは戦い続けた」
「戦い続けたのは私だけではない。戦場で散っていった数多の兵士もまた、戦い続けたものたちだ。私だけが、救世主などではない。私だけが世界を救ったのではない。私は、私はただ……失くしたくなかっただけなんだ」
「……なんで、ここにいるの」
「部室、一人でエアコン入れるのもなぁって思って屋上に来たら、お前の声が聞こえて。次が俺の台詞だったし」
「声くらいかけてくれればいいだろ」
いつもなら先輩が立っている場所に、よく知っている、けれどそれほど親しいわけではない男──前野郁が立っていた。前野は茶色に染めた髪をうっとおしそうに払って、那月に問いかける。
「なんでそんだけできるのに役者やらないの」
「もうやらないって決めたから」
「なんで?」
「前野に関係ないでしょ」
食い下がってくる前野にそっけなく答えて、台本を鞄に詰めた。見つかってしまったのならもう屋上には来れないだろう。
「そんなこと言うなよ。ってか、練習付き合って」
「なんで俺が練習に付き合わなきゃいけないの。一人でできるだろ」
「テンポつかむのに人とやった方がいいじゃん」
「相手役とやれば」
どうして相手をしてやらなければならない。突き放すように告げて、前野に背を向ける。
「待てよ」
手首を掴まれて、那月は振り向かざるをえない。振り払うのは簡単だったけれど、そうするのさえ面倒だった。
「練習してるの知られたくなかったんだろ。言いふらすよ」
「好きにすれば。たまに参加する読み合わせで棒読みの俺が練習してたくらいで焦るやつなんて、ここにはいないだろ?」
離して、と視線で告げてもなお前野は諦めなかった。
「江田さんは、お前が練習してるのも知ってる?」
「……知ってたら、どうするの」
「どうもしないけど、なんとなく。江田さんの書く主人公はどっか深谷に似てるから」
「そんなことない。俺はあんなに強くない」
彼の書くヒーローであったなら、どれほど誇らしかっただろう。まっすぐでどこまでも駆けていきそうで、自分勝手なくせに全てを救って、押しつぶされそうになっても前を向いて。そうあれたなら、どれほどよかっただろう。
前野の手を今度こそ振りほどいて重たい鉄の扉を開ける。開けた先は、電気の点いていない真っ暗な踊り場だ。当たり前だけれど下り階段がずっと続いている。
「おい、深谷!」
前野が追ってくる気配がして、勢いよく階段を駆け下りた。ばたばたと前野の足音が後ろからする。
「来るな! お前は屋上で練習してればいいだろ」
「なんで逃げるんだよ……ッ」
追いついてきた前野がぐっと那月の手を掴む。今度は振り払えなかった。
「どうして逃げるんだ。なんで、いっつも」
「……前野には関係ない」
「そうかよ、そうだよな。話したのだってこれで三回目くらいだし、お前はいっつも練習には出てこないし」
「真面目にやってる前野やみんなの邪魔になるだろ。どうせ棒読みの大根役者だ。サークルに行かなくたって誰の迷惑にもならない」
走ったせいで上がっていた息がだいぶ落ち着いて、冷静さが戻ってくる。そう、今のスクランブル・スクエアに那月は必要ない。役者でも制作でもない中途半端な人間など邪魔なだけだ。
「あんなの見せられて、俺はどうしたらいいんだよ。深谷、俺は今までお前が江田さんに好かれているのが不思議で仕方がなかった。高校が一緒だったから仲がいいんだろうって思ってたけど、それでも不満だった」
「へぇ……。で、なに」
「俺の方がうまいんだから役がもらえるのは当然だと思ってた。主役だってもらったし、当たり前だと思ってた」
ぎゅっと那月の手首を握る力が強くなる。夏の暑さのせいかじわりと汗が滲んだ。
「深谷が江田さんに呼び出されて読み合わせをしてるのを知って、びっくりした。なんでこんなやつ、あんな棒読みのやつを呼び出すんだって。江田さんが深谷を主役にしたいって思ってるのを知って、高校の後輩にそこまでするのかよって……」
するっと那月の手首から前野の手が離れた。那月を掴んでいた前野の手がぎゅうっと固く握られるのを、那月はどこか遠くを見るような気持ちで見ていた。
「あんなの、あんな演技見せられたら……」
「……前野の方が、主役にふさわしいよ」
那月の口から溢れでた言葉に、前野が傷ついた顔をする。くしゃりと目を細めて今にも泣き出しそうな顔だった。歪められた右目の下にほくろがあるなぁ、とどうでもいいことを考えた。
「本気で思ってんの」
絞り出されるような声に「うん」と返して、前野に背を向ける。
「俺だって、江田先輩の世界の住人になりたい。でもその資格がないから舞台に立つことはできない。あの綺麗な世界にはいけない」
適当に嘘を並べることだってできたはずだった。那月は相手の望む言葉や相手が受け取る自分を意識して言葉を発していた。
前野の素直さのせいか、偽らない気持ちを口にしていた。江田先輩にも伝えたことのない本当の気持ち。
たん、たん、と残りの階段を一歩ずつ降りる。前野はもう追ってこなかった。一階に着いて、今日はサークルに顔を出さないでおこうと決めた。
今日は、ではないか。今日も、サークルには行けなかった。そう思ってため息が漏れた。
ぽん、とマナーモードにするのを忘れていたスマートフォンがメッセージの到着を告げた。
──今日もサークル来ないのか?
うまい言い訳を考えようとしたところで、再びスマートフォンが、ぽん、と鳴った。
──会いたい。
今、その願いを届けてくれたのが先輩であったなら、部室に駆けて行ったかもしれない。
けれど現実は願うようにはいかないものだ。
サークルに行かない理由をくれた要に返信をしながら、熱されたアスファルトの上を歩く。
酷くしてくれればいい。いっそなにもかも壊してくれたら、未練など消えてしまうだろうか。
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