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#04

 夕立が降っているのを校舎の内側からぼんやりと眺めていた。雨は意外と好きだが、その中を歩くのは少し煩わしい。鞄の奥にしまっていた折り畳み傘を取り出して、ゆっくりと開く。中学の頃から使っている安物の傘の骨はわずかに歪んでいる。多少歪んでいても使えるから買い直す気はしなかった。  歪んだ針金を指でもとの位置に戻してから、雨の中へと踏み出した。ぴしゃ、と音を鳴らして、汚れたスニーカーが路面に薄く張った水の膜を割った。那月が足を持ち上げれば、割れてしまった雨水はまたもとに戻る。見た目だけ。  夏特有のこの雨を、那月は好きだと思う。梅雨に降る雨とはまた違うすぐに上がってしまう気まぐれな雨。その原理を那月は知らないし調べもしないけれど、雲の上で誰かがこの一瞬にこの場所に雨を降らせたいと思っているのかと考えると、なんだかおかしかった。  あいかわらず要は那月を和樹として扱い、狂ってしまったように事後に和樹を探す。かわいそうな人、と口には出さないけれど思うのは勝手だ。抱かれた数だけ那月に傷か増えていく。要に首を絞められるのはいつものことで、傷を隠すのが億劫なこの季節にはやめて欲しいと思うが拒むことはできなかった。  許されるような気がする。  苦しければ苦しいほど、自分の行いを許してもらえるような気がする。誰に許されているのかはわからない。神様なのか、自分なのか、要なのか、和樹か、それとも江田先輩か。免罪符のようなものなのだろう。行為自体に意味はない。許されたと思うだけだ。何も変わりはしないのに。  ぴしゃ、ぴしゃ、と音を立てて向かうのは部室棟の屋上。階段を登って重たい鉄の扉を開ける。周囲を高いフェンスに囲まれた屋上は誰もいない。雨が降っている屋上に来る人の方が稀だろう。  扉を閉めて軒の下に立った。鞄から本を取り出して、息を吸う。地面に弾かれた雨粒がズボンの裾を濡らした。 「お手紙によりますと、あなたはK君の溺死について、それが過失だったろうか、自殺だったろうか、自殺なら、それが何に原因しているのだろう、あるいは不治の病をはかなんで死んだのではなかろうかと様ざまに思い悩んでいられるようであります」  雨粒が音を吸うから声は遠くまで届かない。発声練習にはうってつけで、高校の頃から雨に向かって台詞を読んでいた。  目の前で降っている雨粒のひとつひとつが観客で、那月の声を聞いている。地面に張った水の膜も同じく。  舞台に立たなくなってからは有名な物語を読むようになった。それはシェイクスピアであったり、ワイルドであったり、今日のように小説を朗読することもある。『Kの昇天』を選んだのもなんとなくでしかない。明日また夕立が降れば、続きにある『檸檬』を読むだろう。  晴れた日にも同じように屋上で過ごす。晴れた日はよく声が通るから台詞を叫んだ。青空に向かって叫ぶのは気持ちがいい。誰も聞いていない、遮るものもない風が通る場所で演じるのは気が楽だ。  この世界で那月が役者だったのを知っているのは何人だろう。指折り数えられる程度の人しか覚えてもいないように思う。両親と兄と、江田先輩。高校の同級生の何人かは覚えているかもしれないけれど、それだって数える程だろう。  那月も観客の顔を覚えてはいない。同じように役者の顔を覚えている人も多くはないはずだ。確証があるわけじゃないけれど、そう思っている方が楽だった。  舞台に立つのが嫌だ。舞台の上で演じるのも嫌だ。だからといって全てを捨ててしまうには那月は弱すぎた。  雨の日は声が届きにくくなる。そう教えてくれたのも江田先輩だった。梅雨に入って屋上での発声ができないと嘆いた那月に、雨の日の練習の方法を教えてくれた。  じっとりと空気に溶け込んだ水分が服を濡らす。雨の匂いが那月に染み込んでいく。ズボンの裾も水を含んで重たく、足枷のように感じられた。  そう長くはない短編を読み終えて息を吐く。誰もいない場所ならば安心して息を吐き出せた。  息を吐くことは、深谷那月とはこうあらねばならないと削った後に残るカスを屋上に捨てるようなものだ。那月は未練を屋上に捨てに来る。高校の頃の思い出を、なんとなく続けている習慣は、うまく噛み合わなくて削り取られてしまった那月を捨てる作業に他ならない。演技を捨てたように見えるように演技をして、大学生の那月になる。  あと数十分もすれば雨は上がるだろう。雨雲は進み、向こう側へと雨を連れていく。いっそ那月も一緒に連れて行ってくれればいいのに。  鞄に文庫本をしまって暗い階段へと続く扉を開ける。電気の点いていない踊り場に座り込んでいた男が、那月に爽やかな笑顔を向けた。 「相変わらずだな」 「先輩、用があるならメールしてくれれば行きますよ」 「呼びに来ただけじゃないって、知ってるだろ」  片手をついて立ち上がった江田先輩は、湿った床に足跡を残して階段を降りていく。那月もそれに続いた。 「今日はみんな集まってそれぞれ練習してる。那月も混ざればいいのに」 「嫌ですよ。出演もしないくせに稽古場に行くなんて、まっぴらごめんです」 「そう? 今回は出ないやつも自主練してるけど」  だからこそ、と言いかけて那月は口を閉じた。江田先輩もわかっているのか、それ以上練習を勧めてはこなかった。  部室ではそれぞれが公演に向けての準備を進めている。チラシやポスターを作っている者、衣装を作っている者、道具類の準備をしている者。役者はみんな、練習のために地下にあるホールへ行っているらしい。 「あ、深谷くん! いいところに来た。手伝って」 「はい。なにをすればいいですか?」  宣伝部のリーダーが那月をよんだ。那月はこのサークルで特定の部署に所属していない。定期的に参加しているわけでもなく、特別な技術を持っているわけでもない。人手が足りなければ手伝いをする助っ人のようなものだった。 「ポスターとチラシの掲示をお願いする場所のリストなんだけど、前回お願いした所ばかりなのよ。大学の学食や廊下の掲示はともかくとして、他にいい場所ないかな」 「人脈がなさそうな俺に聞きます?」 「いやぁ、だってもう深谷くんくらいしか参考になる人いなくて」 「部員のバイト先とか、近くのカフェはお願いしたんですか?」  そっか、と彼女は呟いて、にぃっと笑った。 「バイト変わってる子もいるもんね」  いいこと思いついた、とばかりに仕事をはじめた彼女のそばを離れて空いているパイプ椅子に腰掛けた。  鞄に入れてある台本を開いてぼんやりと眺めた。  那月の立ち位置はサークルの内部でも曖昧だ。真面目にサークルに参加しない、役者でもなく技術スタッフでもない。それなのに脚本兼監督の江田拓人のお気に入り。那月のことをよく思っていないメンバーも少なくはない。だからといって悪意をぶつけてくるような人は少ない。 「那月、ちょっといいか」 「なんですか」  江田先輩に呼ばれて立ち上がる。作業しているメンバーの間を縫ってドアの前で手招きをしている先輩の前まで移動した。 「学園祭の台本書いてるんだけど、なんか台詞のテンポが良くない気がしてさ。ちょっと読むの手伝って」 「今ここで、ですか?」 「ここだとみんなの邪魔になるから、どこか別のところでするよ。場所がなかったら、サークル終わった後でもいいし」  それなら、と那月が了承すると先輩は「ホールの音響室なら空いてるから、そこで」と那月の腕を引っ張った。  部活棟の地下にあるホールは、体育館ほど広くはない。文化系サークルの練習や、屋内スポーツの練習場として予約制で利用できる。とはいえ、運動系のサークルは体育館や格技場を使うことが多く、文科系サークルで広い練習場を必要とするクラブはほとんどない。大学公認の合唱部や吹奏楽部などは授業使用時間外であれば音楽室の利用ができるから、そちらを利用する頻度が高い。残りの非公認系サークルでこのホールを使うのはスクランブル・スクエアくらいだ。  簡易な発表会ができる程度のホールには、小さな音響室がある。もちろん防音の部屋には幾つもの機材と小さなテーブルが置かれている。 「防音だったら文句ないだろ?」 「……はい」  テーブルに置いてあったノートパソコンの画面を那月に向けた。 「ここなんだけど、ちょっと読んでみて」  言われるままに書かれた台詞を読み上げた。  学園祭での演目は準備の都合もあって毎回現代ものなのだという。今回も例に漏れず現代を舞台としたちょっとしたファンタジー物らしい。  那月の台詞の後に続いて先輩が台詞を読み上げる。耳に心地いい優しい声。この声が舞台の上で生き生きと発されるのをずっとそばで見てきた。  後悔、絶望、激怒、激しい感情の波の中、優しさが混ざった人間らしい声。どんなに冷徹な役であっても人形のような冷たさはない。プログラミングされたAIのような硬さも、硝子のような脆さもなく、ただそこに存在している悪になりきれず、善になりきれない、本物の人間のように登場人物を演じる。そんな先輩の演技が、那月は好きだった。  彼が書く物語はいつだって優しさに満ちている。ぼろぼろになっても前を向いて歩き続けようと足掻く人々の話だ。誰かしら前を向いていて、物語を引っ張っていく。それは、主人公であったり、また別の登場人物であったりするが、必ずと言っていいほど前を向いて未来へと進んでいく。  音響室に声が響いた。小さな部屋の中で、画面に写し出された無機質な文字に命をのせる。  こうして那月が江田先輩を手伝うのはいつものことだった。それこそ高校のときからずっとだ。江田先輩の紡ぐ物語の語り手でなくなってもなお、那月は彼の作品の最初の読者だった。 「ありがとう。なんとなくわかった気がする」 「……お役に立てたのならよかったです」  今も那月は先輩の前で演じることをやめていない。舞台でライトを浴びるのを拒んでも、こうして二人で台詞を追うのをやめてはいない。屋上での練習も、一人っきりでの発声練習も、全部今まで通りに続けている。  自分を偽るのに慣れて自分と自分じゃないものの境界があやふやになった。だからこそやめられないのかもしれない。スポットライトに照らされたくはない。演じたくないと思いながらも演じることにすがって生きている。  矛盾していると自分でもわかっている。声を発するのは気持ちが良く、演じていると知られても構わないまま他人になりきるのは心が軽い。  だからと言ってみんなの前で練習しようとは思わない。舞台に立つ気のない人間が本気の人間の中に混ざるのは、彼らを冒涜することだと思う。それに、どうして役者をしないのかと訊かれるのは億劫だ。  扉をひとつ隔てた先でライトを浴びるべき人たちが稽古をしている。江田先輩の書いた脚本を手に持ち最高の演技をしようと努力している。  キーボードを叩く先輩の背に、どうして彼が役者をやめてしまったのか問いただしたい気持ちが湧いてくる。幾度となく問うて、未だ返ってこない答え。何かあったのか、それとも何となくやめてしまっただけなのか。  江田先輩が卒業してしまった後の那月にとって最後の文化祭での発表を、彼は見にきてくれた。あの時は役者をやっていると言っていたのに、那月がスクランブル・スクエアに入った時には、もう彼は舞台に立っていなかった。  一年の間に那月にとっての転機があり、江田先輩にも何かしらの事件があったのかもしれない。そうでも思わなければ江田先輩が演者をやめる理由が、那月には思いつかなかった。

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