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#03
守衛さんに鍵を借りて部室を開けた。物が雑多に置かれた場所からメイク道具を探し出し、コンシーラーを手に取る。鏡をテーブルに置いてストールを外した。首にくっきりと残った跡をコンシーラーで丁寧に消していく。
いい加減自分で買わなければと思いながらも、踏み出せずにいた。演劇サークルに所属しているとはいえ男が化粧品も持っているのは目立つ。それにコンシーラーを持っているのが知れたら、勘のいい江田先輩はその目的を知るだろう。江田先輩に要との関係を知られるのは避けたかった。
ただの恋人だと思われるのは構わない。相手が男だというのはすでにバレてしまっているし、それを吹聴するような人物でないのも知っている。けれど、那月が和樹の身代わりとして要に抱かれているのだけは知られたくなかった。舞台に立つのをやめた理由が、要との付き合いというのも。
定期公演の練習が始まったばかりの部室に朝から顔を出すメンバーはほとんどいない。痕を消し終わった首筋に違和感がないかを確認して、鏡とメイク道具を元の場所に戻した。
今日は二限からで授業まであと数時間ある。家に帰るのも億劫だ。
鞄に入れたままにしていた台本を取り出して、昨日読み合わせをした役の台詞を目で追う。もちろん、那月が演じる役ではない。昨日は練習に参加できなかった役者がこれを演じる。サークルのムードメーカーとも言えるような男で、みんなに慕われている人だ。過去に演劇経験があり、役者を目指しているというから実力は十分だ。
江田先輩が書いた台本を読むのは好きだ。その役を演じなくとも頭に舞台が浮かび上がる。台詞が流れるように声になり、ステージに役者が配置される。ここがただの部室でも、那月の頭には舞台が出来上がる。
「──世界を救うのは、ヒーローでもなんでもない。めげなかった人間だ。諦めなかった人間だ。結果、そいつは世界を救って、ヒーローになる。救世主とは与えられた役ではなく、結果だ。だから、世界を救えなければ私はヒーローではなくただの人間で、役立たずで、そこらに転がる石と変わりない。君は、私を買いかぶりすぎだ。私はただ、諦められなかっただけだ。諦めが悪かっただけだ。私の大切な人を、手放せなかっただけだ。みっともなくあがいて、あがいて、嘲笑われようと守りたいと叫んだ。私は、ただの弱虫だ」
「でもそれは、誰にでもできることじゃない。あなたは、結果として世界を救っただけかもしれない。でも、世界を救ったのだから、あなたはヒーローだ。そこに高尚な思いなどなくとも、あなたは確かに世界を救ったのだから」
台詞を読み上げて、返ってくるとは思っていなかった。振り向かなくとも声で江田先輩だとわかった。すうっと、通る透き通った声。静かに、しかし力強く人に届く声。
「……那月、おはよう。はやいな」
「おはようございます。先輩こそ、はやいですね」
続き、と先輩が言った。促されるままに台詞を唇に乗せる。世界を救った男と、救われた男が会話するシーン。血だまりの中で、これで救ったと言えるのかと尋ねる主人公に、それでもあなたは正しかったと、すべてを肯定する非力な男。
「──どんなに素晴らしい人間も、誰かを傷つけずに生きてはいけない。あなたもご存知のはずだ。悪者にも大切な人がいるのを、あなたは知っている。でも、あなたは戦い続けた」
英雄に仕立て上げられた主人公は、誰もが求める英雄を演じはじめる。ただ臆病で、失くしたくなくて戦っただけなのに、過剰に褒められ期待されるのが重たくなっていく。
似ている、と思った。自分を演じはじめる男に、那月は少しだけ自分を重ねていた。
周囲に求められるまま男は英雄を演じる。臆病を隠して笑って、大丈夫だ、と言って、勇敢に戦って見せて、弱音を吐かず。そうして仮面を貼り付けた末に、男は大切なものを失うのだ。変わってしまった、と言われて。
「なんで役者やめたんだよ、那月」
「もういいかなって思ったんですよ。ここにはもっとすごい人もいますし」
「お前の方がうまいと思うけどな……練習だけはまだ続けているんだろ」
「そうですけど」
先輩は那月の正面に座ってじっと那月を見ていた。心の内側を探られているような気がして、思わず視線を逸らした。
「主役、那月に演じてもらいたかったんだけどな」
「嫌ですよ。それにそんなこと言うのは、主役の前野さんに悪いでしょう」
「那月がだめなら前野しかいないだろ。でもな、この役は書いてる時からお前の声がしたんだ」
「……錯覚ですよ」
「お前が一年ならまだしも二年になったんだし、舞台に立ってもいいと思うんだ。前野も二年だし、推薦しない理由はないだろ」
前野の演技は下手ではない。むしろ上手な方だ。劇団にも所属しているらしく意外と忙しそうにしている。劇団もサークルも手を抜くつもりはないらしく、きっちりとこなしているようだから器用なのだろう。
「もう、舞台には立ちません」
「なんでだよ。一回くらいいいだろ」
「嫌なものは、嫌なんです。先輩、諦め悪いですよ」
開いたままにしていた台本を閉じて、鞄にそっとしまう。この話は終わりだと那月は窓の外に視線をやった。
「もう、夏ですね」
「あと二ヶ月もすれば本番だ。今からならいけるだろ」
「だからやらないって言ってるでしょう。諦めてください」
肌寒かった朝が終わって、太陽がアスファルトを照りつける。エアコンが入っていない部屋の温度はだんだんと上がり、息苦しくなるのだろう。
「窓、開けてもいいですか」
「うん。いいよ」
パイプ椅子を引いて、窓を大きく開ける。梅雨前の風が部屋に流れ込んできた。
先輩は鞄からノートパソコンを取り出してキーボードを叩いている。台本の手直しをしているのか、それとも次の台本を書いているのか、この位置からではわからない。
「……先輩はどうして役者やめたんですか」
「那月が俺の書いた役を演じてくれたら教えてやるよ」
「なにそれ、ずるいです」
江田先輩は本当にずるい。でもそれ以上に、自分の方がずるいと思うと追求できなくなった。
自分で設定した深谷那月という役は窮屈だと思う。息苦しくて、でもこの仮面を剥いでしまったら那月は立つのもままならなくなる。元の、江田先輩に出会った頃の深谷那月を、今の那月は思い出せない。何を思っていたのか、自然にしていた頃の感覚はもうない。
演じることに慣れきってしまった。それでいいと思うし、やめるつもりはない。苦しいのには慣れている。慣れているのに、どうしてか叫び出したかった。
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