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#02
鍵を差し込む瞬間は、初めての時のように緊張する。いつから那月が那月でなくなればいいのか、わからないから。
部屋に彼がいれば、ドアを開けた瞬間から自分は別の者にならなければならない。そうして彼を慰め、彼にゆるされるのが那月の罰の受け方だった。
「おかえり、和樹」
「ただいま。遅くなってごめん」
「謝るなって。連絡くれただろう? それより、夕飯作っといたから」
「うん。ありがとう」
目の前にいるのは、兄を好きだという兄の同級生。彼にとって那月は兄である和樹の代わりでしかない。
「和樹、この前食べたいって言ってたから」
ナツメグが多めに入ったハンバーグは、和樹の好物だ。いつだって食べたいと言っているから、五回に一回はハンバーグが食卓に並ぶ。
「覚えてくれたんだ、ありがとう」
薄っぺらな会話をして、ハンバーグを咀嚼する。那月はナツメグが効いたこのハンバーグが苦手だった。母親もそれを知っていて、ハンバーグを作る時は那月の分だけ別に肉を混ぜてくれるくらいなのに。
嫌いなものを笑顔で胃に押し込める。和樹なら美味しいと心から思うのだろう。サラダにかけられたマヨネーズでさえ憎たらしい。
「仕事忙しそうなのに、今日は早かったんだね」
「ああ、ようやくプロジェクトが落ち着いて」
「そっか。じゃあ、これからは要にたくさん会えるんだ!」
嫌いなものを口にして、でまかせばかりを吐き出しす。腹に納めた肉が嫌だと言わんばかりに胃が暴れている。食べたものを全部吐き出してしまいたい。
要と付き合いはじめたのは、高校三年のゴールデン・ウィークを過ぎたあたりだった。江田先輩が卒業して自分が最高学年になったことで、心が不安定になっていたのだろう。誰でもいいと思っていたのかもしれない。
その日はちょうど部活が休みで、特に寄り道もせずに帰ってきた。兄の和樹が要を家に連れてきた。確かレポートかなにかをしていたのだと思う。
和樹はよく要を家に連れてきていた。那月が中学生で和樹が高校生の頃も、要はよく家に遊びにきていたし、一緒に勉強している姿を何度も見かけていた。だからその時も、また来ているのか、と思っただけで、特にそれ以上の感情を抱かなかった。
冷蔵庫の麦茶を飲んで、服を着替えようと自分の部屋へ向かおうと階段を上った。和樹と要がいるはずの二階はやけに静かだ。二人とも集中して勉強しているに違いないと足音をたてないように静かに廊下を歩いた。
短い廊下に面した那月の部屋の隣にある和樹の部屋のドアが開いていた。
閉め忘れたのかと思った。しかし、キーボードを叩く音も、声も、紙をめくる音も聞こえない。誰もいないのかもしれない。そう思いながらも、那月は確かめるように扉を開けた。
「兄ちゃん、ただいま。要さんも来てるの?」
扉を開けた先、見た光景を忘れることはないだろう。
要が和樹に好意を持っているのは知っていた。けれど、それが欲情を含む感情だとは知らなかった。
「……要、さん?」
うたた寝している和樹に、要が顔を近づけていた。もっと端的に言い表すのならキスをしようとしていた。
「那月くん、これは……!」
「兄ちゃんと要さん、付き合ってるの」
「そ、それは……」
「片思い?」
「……そうだよ」
静かに、けれどはっきりと口にした言葉に、驚きはしなかった。一方で、うっすらとした嫌悪感があったのも事実だ。
「兄ちゃんには黙ってて欲しい?」
「そりゃ、そうだけど」
言われても仕方がないかな、という顔がなぜか江田先輩に似ているように感じた。要がもともと明るい人柄なのは知っていたし、ずるいことをしない人なのも知っていた。
要はスポーツ青年で、よく日に焼けている。江田先輩は体力作り以外に運動をしないと言っていたから肌は白かった。顔の作りも、動作も、年齢も、体格も、似ていない。短く切られた髪も、一度も染めたことのなさそうなのも、何もかもが違う。
「代わりに俺が付き合ってあげようか」
なんでそんなことを言ったのか、覚えていない。
要の表情が先輩に似ていたからかもしれないし、兄の部屋に差し込んだ夕日がはじめて江田先輩に会った日のように、要を後ろから照らしていたかもしれない。
「俺、演劇部だから、きっとうまく代わりになれるよ」
きっと寂しかったのだ。よくできたと褒めてくれる人がいなくなって、甘やかしてくれる人が減って。先輩が卒業していなくなってしまって、ひどく寂しくて人が恋しかったのだ。そうでなければ、あんな嘘をつかなかったにちがいない。
「俺、要さんのこと好きだから、俺を利用して。兄ちゃんの代わりに、俺を恋人にして」
嘘だった。手近な要を利用するために吐いた嘘だった。
「兄ちゃんが要さんを好きになるまで、要さんが兄ちゃんを諦められるようになるまで、俺を利用して。俺も、要さんを利用するから」
最初から契約だったのだ。嘘だらけの、どこにも恋愛感情なんてない薄っぺらな関係。
「那月くんがいいなら」
はじまりはあっけなかった。偶然でしかなかった。あの日、部活がなくて、寄り道をしなくて、まっすぐ家に帰った。それだけの選択が引き起こした偽りの関係。
すべては選択の末に起こることで、大学に入学してもなお那月が和樹を演じているのは、この日の那月の選択によって導かれた未来でしかない。
予想はできていた。
夕食後、ベッドへとなだれ込む。シンクに置いたままの食器は、明日の朝に那月が洗って棚に戻す。
息苦しい時間が心地いい。自分の犯した罪を罰してもらえているような気がする。
「和樹、和樹……」
要が和樹を呼んで、那月がそれに答える。うまく真似をして、舞台を現実と取り違えてしまった要に作り物だと気づかれぬように、声を上げる。
「要、もっと……」
ぐ、と奥を突かれて、縋るものを探すように要の背中に手を回した。汗で滑る指をどうにか肌にひっかける。
「あ、あっ、ん……」
大丈夫。このまま、このままいけば騙されてくれる。快楽に侵されながらも、思考は冷めている。瞳に焦点を合わせないように、与えられる律動に反応できるように。
存在を殺す。那月という存在を殺して、和樹を演じる。どんなふうに喘げばいい、どんなふうに名前を呼べばいい。すがり方は、泣き方は。
カチリ、と噛み合って、声を吐き出す。淫猥な音が寝室に響いて、身体の熱が徐々に上がっていく。シーツに背中が擦れて痛いと、冷静に思う自分がいる。
何もかも偽りだ。目の前の男は那月を瞳に映さない。同じように、那月も彼を映さない。
一緒に果てて、息を整えた。どうか気づきませんようにと願っても、うまくはいかない。
「和樹……?」
夢は醒めるのがはやいという。和樹を抱いていたつもりの要は、セックスが終わって那月の顔を見て、いつも間違いを見つけるのだ。
「……偽物」
「ん、……ッ」
ひゅうひゅうと喉が音を立てて、酸素を求めて上下する。要の腕が首筋に食い込む感覚に、慣れを感じるのはいけないことなのだろうか。動脈が圧迫されて音を立てる。頭の中に音が響いて、要の憎しみを孕んだ声は聞こえない。
「かな、め……」
「和樹はどこだ? 和樹は! 偽物、どこへやった、どこだ!」
どうして、と泣きたくなる。慣れてはいても、彼は那月を呼ばない。那月が代わりをしているのをわかっていて、那月を和樹と呼ぶ。その証拠に彼は、和樹がいる場所では那月を那月と認識するのだ。
首を絞める力が緩められ、空気が一気に肺へと流れ込む。げほげほと噎せて本能的に要との距離をとった。
要がこれだけで正気に戻れば苦労しない。病気のようなものなのだと思う。何年も続けるうちに、要は那月を見失ってしまった。かわいそうな人だ。
「お前じゃない、和樹は、お前じゃない」
「そうだね」
「どこだ、和樹をどこにやった」
「ここにはいないよ。もう、ここには」
「嘘だ! だってさっきまで!」
ベッドから突き落とされ、要の足が那月の腹を踏む。内臓が潰れて、無理やり腹に収めたハンバーグを吐き戻しそうになった。胃酸が口の中に広がって気持ち悪い。
「要、俺だよ。和樹だよ」
和樹の声に似せて嘘をつく。
「戻ってきたよ。俺だよ。どうしたの、そんなに怒って」
「嘘だ!」
顔を蹴られて、那月はおもわず腕で頭をかばった。口の中が切れたのか、血の味がした。
「どこだ!」
「……いッ」
首を掴んで投げられ、ベッドサイドに置かれたカラーボックスに背中がぶつかった。
「和樹!」
怪我をした那月を置き去りにして和樹が寝室を出ていく。和樹を探す声がドア越しに聞こえた。
那月は痛む身体を起こして、衝撃のせいで床に散らばってしまったカラーボックスの中身を元の位置に戻し服を着た。要が和樹のために買った部屋着を身につけて、笑顔を作る。
「大丈夫、ちゃんとできる」
頬を両手で挟んで、魔法の言葉を口にする。大丈夫、大丈夫。ちゃんとできるから──。
痛みの残る腰を叱咤して立ち上がりドアを開け、和樹を探し回る要に声をかけた。
「要、どうしたの?」
「和樹、どこ行ってたんだ……?」
「ずっといたよ。怖い夢でも見た?」
「お前が、違うやつになってて……」
「変な夢。ほら、もう寝よう」
要の腕を引いてベッドへ向かう。背中がじんじんと痛んでも笑うのをやめてはいけない。
「明日も仕事、はやいんだから」
二人で布団に潜って、要が眠りに落ちるまで那月も目を閉じる。穏やかな寝息が聞こえてしばらくしてから、そうっとベッドを抜け出した。
鞄から付箋を取り出して、「先に出勤します。またね。 和樹」と置き手紙を残して床に転がったままの鞄を拾った。
そのまま要の部屋に泊まっても良かったが、今夜はそんな気分にはなれなかった。明日も学校だし、と言い訳をして部屋を出る。渡されている合鍵を使って鍵を閉めた。
終電に間に合うなら家に帰っても良かった。ぼんやりと駅へと続く道を歩いた。那月がアスファルトを踏む音と、時折通り過ぎる車以外何も聞こえない。駅前まできてようやく、疲れ果てた人々が那月の横を通り過ぎた。
午前零時三十六分。もう電車がないのを確認してネットカフェに入った。シャワーを借りてこびりついた精液と血を洗い流す。お湯がしみて小さく呻きをあげ、背中の傷が思ったよりも深いことに気づいた。
手当をしようにも小さな絆創膏しか持っていない。今からコンビニに買いに行く気力もなく、那月は割り当てられたブースの椅子に身を沈めてため息をついた。
首には絞められた痕が残っている。明日の朝部室へ行ってコンシーラーを借りよう。ストールで隠すには厳しい傷跡だ。
痛みのせいかうまく眠れず合皮の椅子がなんども軋んだ音を立てた。
はやく朝になればいい。和樹ではなく、那月を演じられる朝に。せめて自分で自分を演じていたい。嘘ばかり塗り重ねて、本物が何かもわからなくなってしまっても、せめて深谷那月を演じていたかった。
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