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#01

 少し後ろから聞き慣れたよく通る声がした。 「那月、今日は絶対にサークルに顔だせよ」  振り返れば思い描いたのと同じ人物が立っている。高校時代は黒かった髪を落ち着いた茶色に染め、アーモンド型の目を細めて笑う男──江田拓人──は、那月の高校時代からの先輩だ。 「俺が行ったって何の役にも立たないじゃないですか」 「読み合わせ、一人休んでんだよ」 「先輩が読めばいいでしょう」 「俺は監督・演出なの。台詞読んでくれるだけでいいから、お願い」  手を顔の前で合わせて「ね?」と念を押してくる先輩に「読むだけですよ」と返事をした。 「助かる!」  そう言って走っていく先輩は憎たらしいほどにかっこいい。無駄に長い足は黒のスキニーがよく似合うし、白いシンプルなシャツにカーディガンを羽織った姿も様になる。  高校時代もよく校舎裏や屋上に呼び出されては女の子に告白されていた。舞台の上の先輩に、何人の女子生徒が心をときめかせたことだろう。  大学に入学したその日、サークルなんて興味なかった那月の腕を掴んで「ちょうどいいから入ってよ」と軽いノリで先輩の所属する演劇サークルに引きずり込まれた。強引に。  高校の時もそうだった。部活に興味なんてなく、新歓もてきとうに聞き流してさっさと帰ろうと思っていた。時間が削られるのが嫌で人となにかをするのが苦手だった。内気な、という表現が妥当だろう。そういう人間だった。  いかにも帰宅部ですといった顔をした新入生の腕を掴んで「君、演劇部に入らない?」と言った先輩の眩しいほどの笑顔を覚えている。  一階の下駄箱前。帰ろうとする新入生に「演劇、楽しいよ!」と言ってぐいぐい腕を引っ張って部室へと連れて行かれた。  鬱陶しくて眩しくて、埃っぽい部室に差し込む夕日が綺麗だった。 「読んでみてよ」  台本を渡されて、つっかえながら台詞を読む。下手だとわかればきっと離してくれると思った。 「下手だね。すごく下手だ。君、向いてるよ」 「下手なのに、ですか?」 「わかっててやっているところが向いてるよ、深谷くん?」  ブレザーの胸ポケットにつけたままの名札を読み上げて、にいっと笑った先輩は、有無を言わせず「よろしく」と右手を差し出した。 「演劇部にようこそ。期待の新人、深谷くん」  これが江田先輩との出会いだった。  強引で、眩しくて、底抜けに明るい人。何もなかった那月にライトを当ててくれた人。  声を張り上げて客席に叫ぶ姿に憧れた。自分で書いた脚本を舞台で演じる姿が綺麗だった。明るくて、那月とは正反対の人で、ずっと那月を気にかけてくれた。  だから先輩が卒業して、先輩がくれた演劇に没頭した。寂しくなって代わりを欲した。進学先は聞かなかったから、どこで何をしているのかも知らなかった。だからこそあんなにも愚かな選択ができたのだと思う。  ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。画面にメッセージが表示される。呼び出しには慣れている。メッセージアプリを開いて、返事をする。今日、サークルが終わった後なら。数分して、了解、と短く返ってきたそれに言葉を返すことはない。  延長された授業を終えて、急いで部室へと向かう。別に遅刻したところで怒られるわけではないのだが、それでも江田先輩に弱味を握られたくはない。 「那月、遅い!」 「すみません! 授業が長引いて」  言い訳をしつつ鞄を床に置き、机の上に無造作に置かれた台本を一部取る。基本的にサークルに参加しないので台本を持ち歩いていない。 「深谷くんが来るなんて珍しいね」 「……江田先輩に、人が足りないからって捕まってしまって」 「大変だねぇ」  今回ヒロインを演じる高木さんが気の毒そうに言った。ちょっとした役でも舞台に立つことのない、ほとんどサークルにも来ない那月がいきなり読み合わせに参加させられることをかわいそうに思っているらしい。  演劇サークル【スクランブル・スクエア】は、他大学の学生も参加している比較的人数の多い団体だ。半年に一回の定期公演、学園祭での公演、他のサークルとの合同公演など、活動に力を入れている。大学のサークルではあるものの、それなりに実力が認められ本格的にその道に進む者もいる。  だからこそ演出でも役者でもない那月は微妙な立場にあった。舞台に立ちたくても立てない人間はいるけれど那月は違う。  もう、舞台には立ちたくなかった。何かを演じるのが嫌だ。ライトを浴びて、声を発して、作り物の綺麗な世界に入りたくない。特別な場所だからこそ余計に、汚い自分を隠すために貼り付けた嘘の深谷那月が立ってはいけないような気がした。  これ以上、嘘に嘘を塗り重ねて本当の自分を見失いたくなかった。役を演じることでハリボテの自分が崩れてしまわないかと怯えた。  演劇は高校で終える予定だった。関わらずに生きて、避けて、見ないふりをしていくはずだった。 「那月、せめて棒読みはやめて普通に読め」 「すみません」  先輩が那月の心を見透かしているようで恐しい。ここで本気を出せばきっと舞台に戻ってしまう。江田先輩に追いつきたくて必死に練習した。褒めて欲しくて「上手くなったね」と言って欲しくてたくさん練習した。  高校生最後の文化祭、江田先輩は褒めてくれた。これでやめられると思った。「才能あるよ」なんて言って、大学でも続ければいい、と言ってくれた。  他人に下手に思われるように、しかし、集中の邪魔をしない程度に配分を心がけて台詞を読む。  目立ってはいけない。悪い方にも、良い方にも。  先輩は那月の演技に笑っていた。初めて台本を読まされた時、下手に読もうと偽った那月を見た時と同じ顔だった。 「そこまで。続きはまた今度な。次は前野も来るだろうし」  終了の声を合図に帰り支度を始めたメンバーの間を縫うようにして、先輩が那月の方へと向かってきた。 「久しぶりの読み合わせはどうだった?」 「みなさんとてもお上手で、俺なんかが邪魔になってないか気が気じゃなかったです」 「ったく、本当に那月は役者だよな」 「どこがですか?」 「そういう、本音を隠してしまうところ」  江田先輩は綺麗な目を少し細めて那月の頭を撫でた。 「用事はそれだけですか?」 「いや、これからご飯でもどうかなって」 「すみません、今日は用事が」 「あいつに会うの?」  一気に不機嫌になった江田先輩に「心配ありませんって」と笑って、鞄に荷物を詰める手を急がせた。 「あんな怪我させられて、まだ一緒にいるのかよ」 「あの時だけです。普段は、優しいんですから」 「優しくたって、また怪我させられるかもしれないだろ!」 「先輩は、俺の母親ですか。もう、子どもじゃないんですから恋愛くらい好きにさせてください……それじゃあ、失礼します」  こういう時、演じることを知っていてよかったと思う。悟られないように、けれど心配がうざったいと思っているように、早口で、ぶっきらぼうに。  演じることに慣れきってしまった。純粋に他の誰かになれる喜びを失ってしまった。自分を守るために演技をはじめた。だから、あの美しい場所に那月は相応しくない。  息を吐くように罪を重ね、罰されたいと嘘を演じる。いつの間にかそんな日常を歩むようになった。  鞄に入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出して、短いメッセージを送る。  返信は待たない。

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