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朝の光の中で
純さんは、窓辺にいる。
昼も、夜も。
フィギュアを飾っていた背の高いスツールが、今では純さんの定位置だ。常に俺に彫りの深い横顔を見せて、飽きることなく窓の外を眺めている。空に向かってアピールしてるかのような大きな窓じゃなく、キッチンカウンターのすぐそばの、小さめな窓ってところがこの人らしい。
とは言っても、俺が純さんと出会って一ヶ月ぐらいしかたっていない。でも俺はものすごく、この人のことを知っている。
「俺、明日早いからそろそろ寝るけど、まだ起きてる?」
声をかけると、純さんは穏やかな笑みで首を横に振った。のんびりと俺の後をついてきて、俺のベッドの隣に敷きっぱなしになっている布団に潜りこむ。
しゃべれないのかしゃべらないだけなのか、俺は耳にやさしい深く甘いその声を、本人の口から聞いたことがない。純さんはすべてを、笑顔で語る。一目見れば、うなずいたりかぶりを振ったりという動作がなくても、気持ちが分かってしまう。
笑顔がこんなにも雄弁だったなんて、知らなかった。こんなにもかなしい笑みを、今まで知らなかった。喪失感にも似た、発見だった。
「純さん、そっち行ってもいい?」
真っ暗で純さんの顔が見えないと、不安になる。この人のことは大事にしたいから、気持ちにそぐわないことはしたくない。だからふれる時も、本当はいつも緊張している。純さんは俺の緊張もお見通しなのか、そういう時ゆったりやさしく笑っている。でも幸せそうじゃないのが、ちょっとかなしい。
衣擦れの音がして、黒い影が俺に向かって布団をまくった。吸い寄せられるように布団に入り、そうっと純さんを包む。親譲りの天然パーマでウェーブがかっている俺の髪をいじる純さん。どことなくあどけない笑みを浮かべているのが、闇の中でも分かった。
キスはしない。できない。俺は小さな子供が母親に甘えるように、でも慎重に臆病に純さんにふれる。白髪だらけの長めに伸ばした髪。純さんの男前の要素、深度が人を引き寄せるきれいな瞳、外人みたいに高く筋の通った鼻。唇、耳、あご。ゆっくり指をすべらせる。
若い頃の純さんにこうできた親父がうらやましい。俺も純さんと同じ舞台に立ってみたい。俺が役者になったのは、親が役者だからじゃない。純さんのことを聞かされ、見せられて育ったからだ。
子供の頃、純さんは俺の一番のヒーローだった。舞台やドラマのまねをする俺に、両親は喜んでつきあってくれ、俺はいつも純さんの役をやってはしゃいでいた。
「明日のラブシーンの練習させてもらっちゃった。おやすみ」
俺は回想から抜け出し、純さんの実在を確かめられたことにようやく満足して、目を閉じる。純さんが遠慮がちに身体を寄せてくるのに、内心叫びたいほどの喜びを感じる。
ずっと憧れてた。思いがけなく手に入れられた。誰にも教えない。渡さない。
でも……。純さんは本当に、俺のこと誰か分かってないんだろうか。
いつも、出かける時は不安だ。俺の留守の間に純さんが出て行ってしまわないか。親とかが訪ねてきて、純さんがいるのを知ってしまわないか。
純さんと暮らすようになって、不安ばかり増えた。もちろん、一般に幸せと呼ばれるものは、その十倍はもらってるけど。
一番不安なのは、純さんが俺のところにいついた理由はなんなのか、ってことだ。似てたから、なんて理由なら、カンベンして欲しい。
でも純さんがなにも言わないように、俺もなにも言わない。本当は純さんを見つけたこと、親父達や警察にも通報すべきなんだろうけど、してない。独り占めしていたいから。
「じゃ、行ってくるね。今日は早いか遅いか、よく分かんないから夜メシ待たないでいいよ」
俺は純さんの横顔に声をかける。朝の光の中で、純さんは微笑んでうなずく。
リビングを出ていきかける背後で、声がした。たぶん、俺の名前を呼んだ。突然すぎて、頭が認識してくれなかった。
「……純さん……?」
おそるおそる振り返ると、純さんはもう一度、俺の名前を呼んだ。子供の頃、俺と遊んでくれた時みたいに。
なんて顔で笑うんだろう。光にとろけるようで、まばゆすぎてまともに見れない。泣きそうだ。
「誕生日、おめでとう」
え……? どういう、ことだ……?
俺はただただぼんやり、突っ立っていることしかできない。出会って一ヶ月、初めて聞いた声。幸せそうな笑顔。
「誕生日おめでとうって、凌ちゃんに」
ああ、そうか……。今日は親父の誕生日か……。
純さんは、忘れてなかった。俺のことも、親父のことも。
でも、だからって、初めて聞いた言葉が、親父を祝う言葉だなんて。こんなに幸せそうだなんて、ひどい。あんまりだ。
ああ、だけど……。よかったな、親父。純さん純さん言い続けて、必死に捜してきたあんたの思いは、報われたよ。
「親父に、会いたい?」
純さんはとびっきりきれいに、かなしげに微笑んで、ゆっくり首を横に振った。
「ここにいたい。だから、会わない」
静かな言葉。俺はまた混乱する。純さんの言葉の真意が分からない。聞き返したくても、言葉が出ない。
「行って。遅刻するよ」
純さんはそう言うと、また光の中の彫刻に戻った。微笑みを残したまま、何事もなかったように。
外に出て春めいた朝の光を浴び、空を見上げた時、俺にはもう不安はなかった。
なんだっていい、細かいことは考えない。親父にすら会おうとしない、純さんの気持ちも。俺はただその気持ちに添うように、純さんを世間からかくまい続けよう。
ここにいたい、と純さんが言ってくれたから。
「ああ、親父? おはよう。誕生日、おめでとう」
待っていたマネージャーの車に乗りこみ、早速親父に電話をかけた。純さんの思いを、その一言にこめたつもりだった。
まさか、それに親父が気づくわけはないだろうけど、そっくりだと言われる年をとって渋みのきいた声が、なんだかやけに照れくさそうだった。
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