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流星
たまには二人で飲もう、と連れてこられた親父いきつけの居酒屋には、ずっと懐メロが流れていた。ここはいわゆる昔ながらの店じゃなく、レトロ趣味で作られた、あくまでそれっぽい雰囲気を出してるだけの店。
こういうのを喜ぶなんて親父もすっかりジジイだな、なんて思いながら、俺は瓶ビールをぐいぐい手酌で飲む。親父は店のエセ昭和レトロな雰囲気にご満悦のようだ。
まったく、くだらねえ。早く帰って、純さんとドラマのホン読みしたいのに。
やっぱりあの人はすごい。十年近くも演技から離れてたはずなのに、セリフ一つで、ものすごい演技力と表現力を俺に見せつける。俺はただセリフを覚えるためのはずが、つい負けじと役者として純さんに勝ち目のない闘いを挑んでしまう。
「純さんがな」
親父がふいに、懐かしそうに瞳を細めて言った。親父も純さんのことを考えてたのかと、俺はドキッとした。
「今流れてる曲、昔芝居で使ったんだけど、いやあのシーンでこの曲はないわ、って芝居見ても泣いて、ただその芝居の話してるだけでも泣いてなあ」
ふふっと笑って、親父はビールを一口飲んだ。
俺は親父の純さんとの思い出の多さに嫉妬してしまう。ムカつくのと詳しく聞きたいのとで、感情の処理に困り、とりあえずその芝居で使ったという曲に耳を傾けてみる。
「お前も映像見たことあるんじゃねえかな? ほら、俺がろくでもない刑事の役で、借金で首回らなくなったあげくに夜逃げしたはずが、って話。愛人と別れるシーンで流れたんだよ」
俺は首を横に振った。でも本当は覚えてる。この店みたいな昭和の香りが漂うセットで、まだ三十前の親父は情けない中年刑事を、のびのびと本当に楽しそうに演じていた。
「そんなつまんなそうな顔すんなよ。お前、俺が昔の話すると、途端に不機嫌になるよな」
だって、思い知らされるんだ。悔しいんだ。俺がどう頑張ったって、親父が純さんと過ごしてきた時間の長さにも濃さにも勝てない。
純さんをもう一度表舞台に引っ張り出すことは、たぶん俺にはできない。親父にならできるかも知れない。そう思うだけで、たまらなく悔しい。
でも、誰にも居場所を教えないって、純さんとの約束だから。俺がそれを守ってる限り、純さんの気が変わらない限り、純さんは俺だけのものだ。
これは、俺が親父に対して感じられる唯一の優越感。
ガキくさい罵倒の言葉が飛び出してしまいそうで、俺はぐっとビールをあおる。ずいぶんまずそうに飲むなあ、と俺の気を知るはずもない親父が笑った。
そしてやっぱり笑った後には、純さんはどこにいるんだろうな、と遠い目をした。
結構酔ってしまい、俺がマンションに帰った頃には日付は変わっていた。親父のヤツ、絶対早く帰りたがってる俺を見て、楽しんでやがったよな。
「純さん、ただいま」
リビングには明かりがついていて、テーブルの上は酒を飲んでそのまま。寝室に行くと、純さんはもう寝ていた。俺はその場で服を脱ぎ、そうっと純さんの隣にもぐりこむ。
「あ、おかえり」
鼻にかかった声で言いながら、純さんは目をこすった。俺は黙って、しっかりと純さんを抱きしめる。いつものことだから、純さんはただ静かに俺のなすがままだ。
「久し振りに親父と二人で飲んできた」
純さんはうなずいただけで、俺の腕を枕に目を閉じる。
「なんで? なんで、凌ちゃんは元気だったかとか、どんな話したんだとか、俺のことなにか言ってなかったかとか、聞かないの?」
純さんは顔をあげて、やっぱりただ黙って俺を見た。奥二重の大きな瞳。きれいだ。姿を消していた約十年の間、どこにいてなにをしていたのか、純さんの瞳もたたずまいも、神秘的なまでに美しく、かなしげに透きとおっている。
「聞きたいんでしょ? 親父、純さんの話してたよ。昔親父が出た芝居で使われた曲が、たまたま飲み屋で流れてさ。ただその芝居の話になるだけでも純さんが泣いたって」
純さんは微笑んで、俺の頭をいい子いい子と子供にするみたいになでた。なんでなのか、よく分からない。よく分からないのに、泣きそうになる。
「いい歌だから、聴いてみるかせめて歌詞だけでも調べてみな」
純さんはたちまち、たくさんの思い出の中から、心当たりを引き当てたらしい。悔しい。
俺はすぐにベッドを出て、リビングにあるPCで親父から聞いた情報を元に検索した。
「ねえ純さん、これ?」
即見つかって、起きてきた純さんに訊く。純さんはうなずいて、俺の肩に手を置く。PCから流れる古くさくせつない曲にあわせて、純さんが口ずさむ。
聴いてたら、泣けてきた。涙腺が壊れた。ぼろぼろぼろぼろ、情けないと思っても涙がとまらない。
「ほら、いい歌だろ」
純さんは柔らかい声で低くつぶやいて、椅子に座っている俺の頭を脇に抱えるようにそっと引き寄せた。その声とぬくもりのせいで、もっと泣けてくる。
「お前はなんにも、心配しなくていいんだ。俺はずっとここにいるんだから」
ふわふわと降る、優しすぎる声。
「……俺、悔しいっ……。悔しいんだよっ! 純さんは、純さんは今でも、親父をっ……なのに、なのにっ……」
苦しい。泣くって、こんなに苦しいもんか? 苦しい。悔しい。苦しい。
「やっぱり、お前はまだ若いなあ」
純さんは俺の頭を何度もなでながら、穏やかに言った。
「悔しいとか、いっつも親父さんと張りあってるみたいに言って。言葉にしてもダメか。こんな中年オヤジでよければ、一線を越えたら安心できるのかな?」
笑いを含んだ声に、俺はぶるぶると首を横に振った。
「純さんはきれいだよ。すごくすごくきれいだ」
「そう言ってくれるのはお前だけだ。分かんないか、だから俺はお前といたいんだよ」
見上げると、純さんは微笑んでいた。あわく、きよく。
「ほら、顔洗って。寝るまで一緒に、この曲を聴こう」
俺は素直に純さんの言葉に従った。いつもとは立場逆転、純さんの胸に抱かれて、ベッドの中で歌を聴いた。どこか青臭く歌い上げる声が、やけに胸に迫る。
そして、気づく。
さっき純さんは、他人行儀に「親父さん」と呼んだ。
目を閉じると、勝手に敵対視していた俺そっくりの若い頃の親父の顔が、星がゆっくり流れるようによぎって、消えていった。
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