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安息の場所
マンションのエントランスでばったり親父に出くわした瞬間、嫌な予感に俺は思わず立ち尽くした。
「お、おお、早かったんだな」
親父もとっさのことに、取り繕う暇なんかなかったらしい。真っ赤な目で俺を見る顔が、かなり不自然にこわばっている。
「部屋、入ったのか? どうやったんだ、おふくろに開けさせたのか?」
このマンションは、指紋を登録した人間しか入れない。いくら訪問者が親父でも、純さんはドアを開けないはずだ。詰め寄ると、途端に親父は怖いぐらいの真顔になった。
「そんなのどうだっていいだろう、どういうことなんだ、なんでお前のところにいるんだ!」
いきなり、感情が爆発した。分からん、なんでだ、と舞台役者らしくよく響く大声で繰り返す。
「大声出すなよ。偶然見つけたから、連れて来たんだ」
親父はいまいましそうに舌打ちした。
「おんなじこと言いやがって。偶然なんて、そんなことあるかよ?」
言われてはっとした。偶然だと思いこんでた。運命だとすら思った。でも確かに、偶然にしてはできすぎてる。
純さんは稽古場のそばに、ひっそりしゃがみこんでいた。俺の足音に疲れきった瞳を上げ、目があったその瞬間の、心臓を殴られたような衝撃。いまだに胸に残っているような気がする。
「思い当たる節があんだろ? ったく、十年もどこ行ってやがったんだ、なに聞いてもろくに答えねえで、にこにこ笑ってよ」
乱暴に言う親父の本心が見えた気がして、俺は唇を緩めた。強がってる。本当は純さんが無事だったのがうれしいんだ。目真っ赤にして、何度も鼻すすってさ。
そんなふうに気持ちがなごんだのも一瞬で、俺は厳しく親父に迫った。
「誰かにしゃべんなよ。絶対に秘密だぞ、バレたら純さんまたどっか行くぞ」
下向いて鼻こすって、一呼吸置くと親父は顔を上げた。晴れやかに笑ってやがる。すげえ喜んでんじゃん。純さんは絶対渡さねえからな。
「あの人はもう、どこにも行かねえよ」
くそ、やっぱりお前は分かってねえなあ、みたいな余裕の表情しやがって。さっきまで怒ってたのはどうしたんだよ?
「いい加減疲れたし、芝居もやりたくなったんじゃねえのかな。お前のドラマの台本、読んでたみたいだったぞ」
俺の肩をなだめるようにたたいて、親父はあっさり帰ろうとする。あっけにとられて後ろ姿を眺めていると、親父はくるっと振り返った。
「純さんのこと、よろしく頼むわ」
「おい、親父!」
思わず呼び止めた。親父はにっと笑って、
「とにかく、生きててくれりゃそれでいいんだ」
と言うと、エントランスの自動ドアをくぐって帰っていく。見届けて、俺は急いで自分の部屋に帰り、リビングに駆けこんだ。
「おかえり。どうしたの、忘れ物でもした?」
純さんはいつもどおりのんびりと、ソファに寝転がって俺を迎えた。親父の言ったとおり、台本を読んでいたらしい。
「親父、来たでしょ?」
なんでもないことのようにうなずいて、純さんは起き上がりソファに座る。
「テレビで見て知ってたけど、かわいそうだね」
おどけて自分の頭にさわりながら、くすくす笑う純さん。目を真っ赤にしてた親父とは違って、普段とどこも変わらない穏やかさだ。
いい加減疲れたから。
親父の言うとおりかも知れない。どこまでも穏やかな笑みがひっそりたたえる、宝石みたいなかなしみは消えることがないけど。
純さんもそろそろ、自分を許そうという気になったのかも知れない。そもそも、そのことで純さんを責める人なんていなかったんだから。
訊きたいことが渦巻いて、複雑に絡みあいすぎて言葉にならない。代わりに力強く純さんを抱きしめた。
「……確かに、偶然じゃないよ」
俺の身体にゆるく腕を回して、ふわっと置くように純さんはつぶやく。
「お前の活躍は知ってた。あるインタビューを読んだら、俺のことが書いてあった。そう思ったのは、うぬぼれかな?」
即座に思いっきり、首を横に振る。
どんな役者になりたいですか? 尊敬する人は? そんなことを聞かれるといつも、純さんの話をした。もしかしたら、純さんの目にふれるかも知れない。そんな淡い期待の結果、他の誰でもない俺を選んでくれて、純さんはここにいる。
「ありがとう、俺すげえうれしい」
「こっちこそ、ありがとな」
やっぱり親父は、純さんのことよく分かってる。だけど、純さんは俺を選んでくれた。俺を。
ぎゅうっと抱きしめてたのをいったん離した時、純さんの瞳はしっとり濡れていた。
「……本当に、ありがとう」
なんでだ? なんでさっきよりもずっとかなしそうなんだ?
俺は呆然としてしまう。しっとり濡れた瞳が部屋の明かりを吸いこんで、本当にきれいで。
純さんはかなしみを俺の肩に沈めて、黙りこむ。どんなに時間がかかったっていい、俺はこのかなしみを小さくしよう。完全に消せるはずはないし、そんな力が俺にないことはよく分かってる。
だから、せめて。純さんのために、いつでも笑っていられる男になろう。ここがいつまでも安息の場所であるように。
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