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第6話
「起きたのか」
クロエが目覚めると、ジンがベッドに腰かけていた。
なにか書類を眺めていたようで、ベッドにいくつかの紙の束が置かれていた。
「もう来なくていいって言ったのに……」
声を上げすぎて嗄れきった声でひっそりと呟くようにクロエは言う。
一度や二度セックスしたところで、まだ自分の体からはフェロモンが治まることはなく、いまだに大量に発していると思うのだがジンは平然とした顔をしている。
彼はアルファだからもっとオメガのフェロモンに反応していいはずだが、ぱっと見にはそういう様子が見られない。薬でフェロモンの影響を受けないようにしているのだと言っていた。
とはいえ、いくら薬で彼自身の体をコントロールしているといっても限界があるだろう。それが証拠に、彼の瞳孔は開いている。まだ性的に興奮している状態なのは明らかだった。
「……次のやつが来るまでだと言っただろう。それに毎月そんな状態では、おまえの居場所も悟られてしまう。そうなると俺も面倒だ」
感情のない声。クロエを抱くのが仕事のひとつだからそうしているだけ。
けれど、ジンが冷たいだけでない男なのはクロエが一番よく知っている。ジンは感情をあまり表には出さないし素っ気ないが、本当はとてもやさしいひとなのだ。
「……わかってる。ねえ……次のひと、まだ決まらないの?」
クロエは書類をめくっているジンの顔を窺い見ながら聞いた。
「…………まだだ」
書類に集中していたのか、反応が僅かに遅れる。
まだ、という言葉を聞いて、ホッとした。
まだジンがここに来てくれる。それだけでいい。ジンには疎まれているだろうけれど、クロエはジンのことが好きだったから。
「……そっか」
言いながら、クロエは素肌のままの自分の体に目を落とす。
クロエの白い肌はまだ情事の名残なのか、うっすらと薄紅色に染まっている。そしてその薄紅色には濃淡があり――模様のようなものが描かれている。その模様はクロエの背中全体を覆っていた。
この模様はいわゆる隠し彫りと言われるものだ。
クロエの発情期のとき――ヒートの症状のときだけに現れる特殊な彫り物で、普段は見えない。クロエが生まれ育ったわけでもないルイニアにいるのも、クロエのことを好きでもないジンがここに訪れてクロエを抱くのも、すべてはこの体に刻みつけられた忌まわしい彫り物のせいだった。
これがなかったら――ジンもクロエももっと違う人生を送っていたかもしれないし、ふたりとも苦しむことはなかったのに――。
「ああ、そうだ」
はっとなにかを思い出したようにジンが口にして、立ち上がった。そうして鞄の中から小さな紙袋を取り出し、クロエに差し出した。
「……? なに?」
クロエは首を傾げて訊ねる。
「遅れた詫びだ。急な仕事でコルヌまで行っていてな……そのせいで遅くなった。それはコルヌの隣町の名産らしい。そこでしか買えないと聞いて、珍しいと思って買ってきた。俺も少し味見したが、旨いぞ」
「わざわざ……? 俺のために……?」
クロエは目をぱちくりさせて聞き返した。
「他に誰がいるっていうんだ。せっかく買ってきたんだ。腹も減っただろう? 少しなにか食べたほうがいい」
ぶっきらぼうな口調だが、その中にやさしさが滲んでいた。
「ジン……。ありがとう」
受け取って紙袋を開く。開けたとたん、ぷうん、と香ばしい香りがした。そして美味しそうな焼き菓子が入っている。
コルヌというところはルイニアからかなり遠くにある町だ。飛行船を使っても丸一日かかる。湖のほとりにあって、とても美しい町だと聞くがまだ訪れたことはない。
そのような場所に行っていたのだから、ジンがなかなかやってこられなかったのも当然だろう。それなのに遅くなったと詫びるジンにクロエは申し訳なく思った。
しかもわざわざクロエのために焼き菓子なんかを買ってくる。
(俺のことなんかもっとぞんざいに扱えばいいのに。そうされてもおかしくないのに……)
ジンに対して申し訳なさと、後ろめたさみたいなものに心を痛めつつ、けれどこんな小さな思いやりを内心とても喜んだ。
クロエのために買ってきてくれたその焼き菓子を指で摘まんで口にする。
噛むとサクッとした歯触りと、それから中には木の実が入っていて、それがまた味わい深い。カリカリとした歯ごたえの、噛んでいくと甘くなるその木の実がサクサクとした生地によく合っていて、とても美味しい菓子だった。
「わ……! 美味しい……!」
腹が減っているだけではない、その美味しさに感激する言葉が口を突いて出る。それを聞いていたジンが少し目を細めていた。
「おまえは本当に菓子を旨そうに食うな」
ジンに言われて、クロエは食べるのをいったん止める。
「そうかな」
「ああ。一番はじめにおまえに会ったとき……まだおまえはチビだったけど、俺がやった砂糖菓子を旨そうに食ってた」
「そんなの覚えてない」
昔のことなんか覚えていない、とやや拗ね気味に言うとジンは「そうか。昔のおまえは可愛かったぞ」と懐かしそうに言い、くすっと笑う。
ジンの笑った顔なんか久しぶりに見た、とドキドキしたけれど、それを顔には出さずにいた。
(俺が小さいときのこと……覚えてたんだ……ジン……)
もちろんクロエだって覚えている。覚えていないなんて言ったのは嘘だ。
だって、ジンは大好きなお兄さんだったから。
やさしくて頼りがいのある大好きなお兄さん。
(なんで……こうなっちゃったんだろう……)
昔、まだクロエが小さい頃、ひと夏を家族とともにジンと一緒に過ごしたことがある。未来にこんな関係になるとは予想もしなかったし、できなかったあの頃。あの頃はとても幸せだった。
クロエもジンも幸せだった。
「…………っ」
そのとき再びクロエの体に震えが走る。体の中にあった熾火のような小さな欲情の火が再び燃え上がろうとしていた。
(もう……やだ……)
艶めかしい疼きが背筋から這い上がってくる。気持ちに反して、体は淫らな行為を求めてしまうのだ。これが何日も何日も繰り返し続く。
どうしてこんな体なんだろう。
「クロエ? ああ……またか」
押し黙って体を抱えたクロエにジンが察したように背中に手を触れる。
触らなくていい、と言えない自分に嫌悪しながらクロエはきゅっと唇を噛んだ。
「我慢しなくていい……わかってる」
言いながら、ジンはクロエの体に覆いかぶさる。
あとはなし崩しに抱かれるだけだ。
こうしてジンは淡々と機械のようにクロエを抱くけれど、クロエはそれでもよかった。
(だって好きなひとに抱かれているから……。ジンに抱かれてるから……いい)
クロエはさっき彼が口にした互いに幸せだった過去を思い出しながら、行為に没頭した。
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