7 / 7

第7話

 あの夜、互いにわけがわからないまま交わったあの後。我に返ったあの人の、激しい狼狽と困惑、それにわずかに見せた優吾への疑惑の視線が忘れられない。  あの人を愛している。迷惑をかけたくないし、彼の財産なんて決して望まない。その気持ちをほんの少しでも疑われるのは、耐えられないのだった。 「決めるのはあんただよ。でも、どっちを取っても力になる。よく悩んで結論を出しな」  祖母が言い、その日はもちろん結論は出なかった。どちらにしても実家にいたほうがいいだろうと、一人暮らしのマンションはすぐに引き払った。  その間も悩んで、ふと考えが一つの方向を向いたのは、家族四人で夕ご飯を食べながら、テレビを見ていた時だ。  ちょうどニュース番組ではいわゆる「ワンオペ育児」について、特集をしていた。 「うちだったら四人分、手があるよね」  姉がぽつりとつぶやき、母が「経験者も二人いるしね」と何気なく応じた。 「そうだねえ。共働きどころか、うちは三人も働いてるし、食い扶持が一人増えたって問題ないだろうね」  貯金もあるし、と祖母が言う。優吾ははっとした。  これまで、一人でどうしようとばかり考えていたけれど、家族は当然のように全員で協力するつもりだったのだ。力になる、と言っていたのは慰めでもなんでもなかった。 「……産んでもいいのかな」  小さく言うと、母がうなずいて言った。 「産んだらどうにかなる、ってのは、あながち嘘じゃないわよ」  その日から、もし出産するとしたら、ということを考えるようになった。自分に子供を育てられるのだろうか。仕事も探さなければならない。オメガとして、月に一度、発情する身体を抱えて、果たして働けるのか。あの人との間に起こったようなことが、また起こらないという保証はない。  それでも、中絶するという選択肢は頭からほとんど消えていた。子供ができた、という事実は憂鬱なだけだったのに、産まれた後のことをあれこれ考えている自分がいる。  まるまる一週間悩んで、優吾は結論を出した。 「やっぱり俺、産みたい。これからいっぱい迷惑をかけると思うけど、どうか力を貸してください」  家族が集まった場所で、優吾はみんなに頭を下げた。その後頭部をぺちっと叩いたのは姉だった。 「迷惑なんかじゃないでしょ。家族で助け合うのは当たり前だよ」  産むと決まってからは、忙しかった。医師にその旨を伝えると、すぐに入院の日取りが決められた。  妊娠二か月目、優吾は医療センターの特別病棟に入院した。病室は個室で、退院まで他の患者とはほとんど接触がなかった。各患者の情報にはもともと守秘義務があるが、担当の医師と一部の看護師以外、病院関係者ですら優吾のことを知らなかったらしい。  これは優吾の状況を考えての病院側の配慮だった。男性が妊娠する、という特異な出来事は、世に知られれば面白半分にニュースにされる可能性は大いにある。  携帯電話の番号もSNSのアカウントも変えて、家族とだけ連絡が取れるようにした。友人や、優吾が勤めていた会社から、何度か実家に連絡があったようだが、体調を崩して入院しているが命に別状はない、ということだけ伝えてもらっていた。  生まれた子が差別を受けないように、家族や病院側とも相談し、優吾から生まれたという事実は公にしないことに決まったからだ。  隔離された場所で、優吾はそれから出産までの長い時間を静かに過ごした。日に日に大きくなっていく身体が恐ろしく、本当に生まれるのか、赤ん坊が健康でなかったらどうしようと、不安定になることもあったが、家族や医師、看護師の励ましで乗り切ることができた。  妊娠後期になると、自分の恵まれた環境に感謝する余裕も生まれた。実際、優吾は恵まれていると思う。  世界的に見ても、オメガの出産の症例はとても少ないのだそうだ。妊娠がわかって、中絶を望む人が圧倒的に多いかららしい。  それは無理からぬ決断だ。月に一度発情する身体を抱え、男が一人で赤ん坊を育てることは、ただ想像するだけで尻込みしてしまう。  日本国内ではほんの数例だけで、それだけに優吾は稀な臨床例として、病院内でも手厚く扱われた。  通常、妊娠四十週、十か月ほどで子供が生まれるが、オメガの場合は女性より長くかかるという。  優吾は四十三週目、十一か月で出産した。生まれたのは男の子だ。  その時はただ、やっと出てきた、と思った。看護師に見せられた赤ん坊を見ても、しわくちゃだなあとか、思っていた以上にサルっぽいな、という感想が浮かんだだけだ。  なんだか夢でも見ているみたいで、愛しいという感情を実感したのは、ずっと後になってからだった。  子供は幸多と名付けた。生まれるまでに、家族とあれこれ考えて決めた名前だ。たくさんの幸せに恵まれますように、という願いを込めた。  退院してからは、ひたすら育児に追われた。乳飲み子を抱えた生活は思っていた以上に大変で、家族に助けられながら、ようよう生活ができるという状況だ。  幸多を出産した医療センターには、一か月おきに検診に通っていたが、幸いなことに幸多は女性から生まれた子供となんら変わりがなかった。  優吾も順調に身体が回復していた。就職のことを考え、子供の預け先も探さなければと思いつつ、一年目はあっという間に過ぎてしまった。  祖母から、『珈琲みずの』を継がないか、と提案されたのは、幸多の一歳の誕生日を過ぎた頃だ。 「身体の自由が利く限りは店を続けたいけど、昔みたいにはいかないしね。ずっと店をやってたから、元気なうちに旅行にも行きたいし。あんた、雇われ店長になって、店を手伝ってくれないかい」  ちょうど、二十年近く店を手伝ってくれていた、祖母の友人が年齢を理由に引退し、新しくアルバイトを雇うかという話が出ていた。  しかし、店を継ぐとなると話が違う。『珈琲みずの』は、祖母の大切な場所だ。祖父が誂えてくれた店の椅子やテーブルを、今も修繕しながら大事に使っているのを優吾も知っている。  最初は迷ったが、しかし祖母の大切な場所なら、自分が引き継いでこの先も続けていくことが、祖母への恩返しになるかもしれない。  よろしくお願いしますと祖母の申し出を引き受けて、それで優吾は『珈琲みずの』で働くことになった。  最初は手伝いから始まった。そのうち、母のパートが休みの日には一日、幸多を預けて一人で店に立つ日もできた。  幸多が三歳になると、幼稚園に入れて夕方は祖母か母が迎えに行き、優吾が一人で店に立つ日も増えてきて、ようやく「店長」の肩書をもらうに至ったのである。  祖母が旅行に出られるほど余裕が出てきたのは、つい最近のことだ。  家族にはずいぶん世話をかけたが、おかげで幸多は大きな怪我や病気をすることなく、明るく元気に育っている。  月に一度は発情期を迎える優吾も、発情を抑制する薬の投与と、事情を知って支えてくれる家族のおかげで、日常生活を問題なく送っている。  最初にオメガバース症候群だとわかった時は、どうして自分だけが、と我が身の不運を恨んだし、子供を産んでまともな生活なんかできるのかと、不安でたまらなかった。  状況によっては、幸多は生まれなかったし、優吾は精神的にまいっていたかもしれない。  支えてくれた家族には感謝している。近所の人も店のお客も優しくて、自分も息子も恵まれていると思う。  あの夜以来、逃げるように接触を断ったあの人のことを考えると、いまだに胸の奥がチリチリと痛む。  自分がもっと別の行動をしていれば、あんなことにはならなかったのに。そんな後悔もなくはない。けれどあの夜がなければ幸多は生まれなかったのだ。  日に日にあの人の面影を濃くしていく息子を見ながら、これでよかったのだと優吾は思っていた。

ともだちにシェアしよう!