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第6話

 あの夜のことは、本当にただ一度きりの過ちで、互いの中に苦い記憶として残るだけのはずだった。なのにそれでは終わらず、優吾はここで、命を生かすか殺すかという選択を一人でしなくてはならない。 (なんで、俺だけ……)  どうして自分だけ、こんな目に遭わなくてはならないのだろう。一人で背負いたくない。誰かに相談したい。でも、こんなこと友達にも言えない。  その日は、優吾の心を表したかのようにどんよりと曇った日だった。次第に日が沈み暗くなっていく空に気持ちが圧し潰されそうになって、ほとんど衝動的に電車を乗り換えた。  それは実家へ向かう電車だった。社会人になってからは、まとまった連休以外には戻ることはなかった下町に、ただ流されるように赴いた。  実家といっても、優吾が生まれ育った家はもうない。家を建てた父は、優吾が大学に入る年に突然の病で亡くなった。父は、子供たちは社会に出たら独り立ちすべし、という考えだったから、姉はすでに実家を出ていて、優吾も忙しい社会人になってから一人暮らしをするより、学生のうちにと、大学の近くに下宿する予定だった。  父のいない家に一人で住むのは心細いと、母は家を売って『珈琲みずの』のある実家に戻ったのだった。  だから今は、祖母の家が優吾の実家だ。祖父はずっと前に亡くなっていたが、優吾の姉が同棲相手と別れて戻ってきていて、その当時、実家には女三代が揃って暮らしていた。  平日の夕方、突然ふらりと戻ってきた優吾を、母は驚いた顔で迎えた。だが、すぐに何かあったとわかったのだろう。何も言わずに「晩ご飯、食べるでしょ」とだけ言った。  母の何気ない言葉を聞いた途端、なぜかホッと気持ちが緩んで涙が出た。泊めてほしいという優吾を、やはり母は何も聞かずに「もちろん、いいわよ」と請け合った。  やがて店から祖母が戻り、姉も仕事から帰ってきて、しょんぼりした優吾の姿に驚いていたけれど、彼らは何も聞かずにいてくれた。優吾はそのまま実家に二晩泊めてもらい、三日目の朝、実は……と自分の身に起こったことを家族に打ち明けた。  男性と性交渉を持った、ということを告げるのは恥ずかしくて、最後まで曖昧に濁したおかげで、彼女たちは最初、優吾が何か精神的な病になったのだと思ったようだ。  オメガバースを診断した医師の名刺と、おそらくこんなことのためにと医師が持たせてくれた診断書を見せて、ようやく優吾の妄想ではないと納得してくれた。  それでもやっぱり、半信半疑だったらしい。それは優吾も同じだ。 「とにかく、そのお医者さんに話を聞いてみましょ」  祖母の一声に縋るように、病院の予約を入れ、家族全員で話を聞いた。みんな仕事があったが、休んでくれた。  医師も丁寧に説明してくれた。早期中絶の場合でも、オメガは入院が必要なこと、中期に入ると回復までに入院が長引くこと、また出産する場合でも、妊娠三か月目くらいから分娩が終わるまで、母子の生命維持のために入院が必要だと言われた。  どちらも優吾にとっては憂鬱な選択だった。一つの命を抹消することも、産んでこの先、一人で育てることも。  唯一、救いのある話といえば、オメガバース症候群の臨床研究のため、入院費用を含めた医療費がすべて無料になる、ということくらいだろうか。  話を聞き終えて家族四人、病院から家に戻ってきたが、誰もどうすればいいのかわからなかった。しかし、選択に残された時間はそう多くはない。 「相手の人には、やっぱり話せないの?」  控えめに尋ねる母に、優吾は首肯するのが精いっぱいだった。  会社にはすでに、退職届を出していた。ずっと体調不良を理由に休んでいたが、オメガバースの診断を受けた直後、すぐに退職届を郵送した。あの人と会うのが気まずいという気持ちもあったが、どのみちアルファがいる職場では、もう働けないと思ったからだ。 「日本ではあまり知られてないけど、母国では有名な資産家なんだ。子供は彼と俺だけの問題じゃないし、俺やうちの家族が嫌な思いをするかもしれない。彼に言えば金銭的な援助はしてもらえるかもしれないけど、それは俺が嫌なんだ」  あの人自身、父親の後継者問題でさんざん嫌な思いをしてきた。だから母親の母国である日本に来たのだが、それはともかく、不意の妊娠など彼は喜ばない。  冷静で誠実な人だから、医師とともに説明を尽くせばオメガバース症候群については信じてもらえるはずだ。言ってわからない相手ではない。誰より頼もしい人だ。それにもし子供を出産するとして、経済的な援助があるのはありがたい。  でも優吾は言いたくなかった。なぜそんなに依怙地になるのか、と自分でも思う。  もしかしたら、怖いのかもしれない。彼の困惑、こちらを見る疑惑の目、そんなものに優吾はもう、耐えられる自信がなかった。

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