5 / 7

第5話

 オメガバース症候群は現在のところ、男性の症例しか確認されていないそうだ。  呆然とする優吾に、医師は最初の症例が認められた経緯や、ここ十年で急速に進展した同症の研究について、いささかくどく感じるほど丁寧に教えてくれた。  あとで知ったが、優吾を診察したこの医師は、国内で数人しかいないオメガバース症候群の研究者なのだそうだ。 「オメガバースの問題を抱えて受診される患者さんの九割が、オメガ性を持つ方です。水野さんもオメガです。しかし実際、このオメガバースの問題はオメガ性だけではありません。もう一つの性が密接に絡み合っているんです」  医師は何かの書類の裏に、「α、Ω、β」とマークを描いて見せた。 「オメガ。これが水野さん。ベータというのは便宜上の分類ですね。オメガバース症候群ではない、ごく普通の……水野さんが異常というわけじゃないですよ……つまり、その他大勢の男性を仮にベータと分類したんです」  この研究においてはまず、人間の持つ男女の性のうち、男の性をさらに三つに分類することから始まるという。  アルファ、オメガ、ベータ。オメガバースの特徴が見られないすべての男性を、ベータと定義する。  次がオメガ。優吾のことだ。オメガは二次性徴を終えたあたりから、ほぼひと月に一度の周期で身体の火照りや倦怠感、それに強い性的欲求を覚えるようになる。  男性との性交を強く望むようになることから、かつては色情症、つまり精神疾患の一種と診断されていた。  しかし、精神疾患では説明のつかないことが多く、さらにもう一つのオメガバース性、アルファがオメガに強い影響を及ぼしていることが認知され、そしてアルファとの性交によるオメガの妊娠例が発見されると、これが病理ではなく新たな性の形なのだと結論づけられた。 「つまり水野さんのオメガ性というのは、人間が持つ性別の一つの形態なんです」  人間は他の哺乳類と同様、女性しか妊娠しないと考えられていたが、男性の中でもごく稀に、オメガと分類される人間は妊娠が可能だということがわかった。  ただしこれは、アルファとの性交に限る。単純に症例が確認されていないだけかもしれませんが、と医師は付け加えたが、ベータとオメガとの性交による妊娠の例はない。  そもそもオメガは、月に一度、身体が発情の状態を示すが、これも男性に対して発情するというより、アルファに向けられたものだという。 「その証拠に、発情期のオメガは固有のフェロモンを発することがわかっています。しかし、ベータや女性にはこのフェロモンを感知できません。男性の中でもアルファだけがこれを受け取ることができるのです。ベータの中でもごく稀に、感知できる人がいますが、アルファほど顕著ではありません」  オメガの発情のフェロモンに影響を受け、アルファも発情する。これによってアルファもオメガに向けたフェロモンを分泌するようになり、発情したアルファとオメガは互いに大きな性的興奮を覚え、多くのケースで性交渉に発展するという。  時にはそれぞれ既婚者であったり、別にパートナーがいる場合もある。そもそも同性愛者ですらなかったケースもあったが、発情の影響は強く、その場合の理性はあっけなく脆いものなのだそうだ。 「言ってみれば本能ですからね。理性だとか、感情は関係ないんです」  やむを得ずパートナー以外の相手と性交渉をしたとしても、仕方がないことだ。医師の口調は、暗にそう言っているようにも思えた。 「……本能」  あの夜を思い出す。確かにその数日前から、優吾はいつもの症状に悩まされていた。そういう時は休みをもらうのに、無理に仕事に出たのは、その夜、あの人と食事の約束をしていたからだ。せっかくプライベートであの人に会えるのに、体調不良だという理由でふいにしたくなかった。  顔を合わせた時から、あの人はおかしかった。今思えば、その時すでに優吾の発情のフェロモンにあてられていたのだろうか。  そしてあの人も、世界中でも稀なオメガバース症候群の一人、アルファだったのか。 「水野さんは今、妊娠中ですので、出産まで発情期はありません。赤ちゃんが生まれてしばらくして、身体が回復したらまた、定期的に症状が出てきます。女性の生理と一緒ですね。これは中高年になるまで続くと考えられています。ですのでそれまではずっと、発情の症状を和らげる薬と、フェロモンの分泌を抑制する薬を飲み続けることになります」  それでも、この薬で倦怠感や性的欲求はほぼ抑えられるのだという。しかしそれより、優吾には気になることがあった。 「赤ちゃんが生まれたらって……。俺がその、出産を?」  医師はすぐには答えず、じっと優吾を見た。 「中絶は可能ですよ。女性と違ってオメガの場合、妊娠が予測しがたいことだというのと、母体の健康を優先するという理由で、妊娠六か月を超えても中絶することが許されているんです。ですが、処置をするなら早いほうがいいでしょう。オメガの場合、初期の妊娠でも入院が必要ですから」  どうしますか、とは聞かれなかったが、優吾の判断を待っているのがわかった。  だが、すぐには答えられなかった。判断できるはずがない。自分が妊娠したということだって、半信半疑なのに。 「相手の、アルファと思われる男性とは、このことを相談したり、協力していただくことは可能でしょうか」  医師は控えめに提案した。優吾は即座に首を横に振った。そんなこと、できるはずがない。あの一晩のことを、彼はきっと後悔しているだろう。  言えば金銭的な協力はしてくれるかもしれないが、優吾が頼みたくなかった。 「ではご家族の方に」  優吾の反応を見越していたように、医師は続けた。 「言いづらいとは思いますが、一度、どなたかご家族を連れてきていただけませんか。私からご家族に説明します。どういう選択をするにせよ、入院と手術は避けられません」  オメガの出産は、帝王切開になるとのことだった。その上、出産までは入院し、栄養を入れたり様々な処置をしなければならない。自然な環境では胎児が育ちにくいのだそうだ。  そしてこれこそが、オメガバース症候群の発見が現代までされなかった理由でしょうと、医師は言っていた。これまでもオメガの妊娠はあっただろうが、母体にいる段階でほとんどが死亡してしまったのだろう。運よく臨月までもったとしても、適切に母体から取り出される可能性は極めて少ない。男性の身体ゆえに、腫瘍などと間違えられ、外科手術によって命を落としたケースもあるかもしれない。  さりとてそんな話をされても、優吾にはやはり、お腹の中に別の生命が宿っているという事実が受け容れられなかった。  なるべく近日中に、家族を連れてくること、日取りが決まったら診察の予約を入れるということで、その日は終わった。病院を後にし、一人で暮らすマンションに戻ろうと思ったが、どうしても帰る気になれなかった。  自分は普通の男性ではなかった。そしてこのお腹の中に、新たな生命が宿っている。あの人と、自分との子供が。

ともだちにシェアしよう!