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第1話
──笑った顔を初めて見たとき、息が止まりそうになったんだ──
オレと友人2名はまっしぐらに購買に走っていた。今日こそは、と意気込んで。
4時限目は化学室での実験で、いつもの教室よりはるかに購買に近い化学室 からなら、いつも売り切れのやきそばカレーパンが手に入れられる。
やきそばカレーパンと旧校舎の怪談話。私立真宮堂 学園高等学部に入学してから二ヶ月、この2つの噂を耳にしない日はない。
あの廊下を曲がれば購買は目の前だ。
「とっつげきー」
士気を上げるべく、オレは友達を振り返って拳を上げた。
「あ、ちょっとシオっ」
「やばい、前!」
友の焦りの意味を知るヒマもなく、身体にドスンと衝撃が走る。持っていた教科書がバサリと落ちる。大きな木にでもぶつかったような反動に弾かれて尻もちを着いた。
「廊下を走ってはいけませんと、言われる理由が分かりましたか」
上から声が降ってくる。第一声はお説教だ。だけど怒るでも呆れるでもない、聞こえた感じは、おっとりとやさしかった。
見上げると、肩幅が広くがっしりとした背の高い男が見下ろしている。どんな表情かは分からない。ほぼ目を覆い隠す、伸びすぎた黒髪と太い黒縁メガネのせいで。マジマジとその姿を見つめる。あまりの風貌に一瞬自分がしたことを忘れ去った。
(スーツ着てるし生徒じゃねーな。オレが知らない先生か……)
「転ばせてしまってすみませんでした。怪我はないですか」
自業自得で転んだのに、そんな風に言って手を差し伸べてくる。見掛けはともかく、良い先生みたいだ。
「大丈夫……ぶつかったのオレだし、ごめん」
素直に差し出された手を取った。関節の目立つ、乾いた大きな手のひらだ。手を握ると先生はヒョイと音がしそうに軽々と引き起こす。
「うん、良かった。何でもなければいいんです。えーと……」
先生は床に目をやってしゃがみ込む。オレの教科書を拾い上げ表紙を眺める。
「1年A組 汐見眞尋 君──」
オレの名前を読み上げる声が何故か嬉しそうに明るくなる。膝を着いたまま先生がオレを見上げ、ようやく顔が見えた。
なんとなく想像していた薄い印象とは正反対だった。目元には長くて多い睫毛。柔らかい印象の黒目がちな瞳はキリンを思い出す。鼻筋はしっかり通っていて、唇は薄いが大きくて形がいい。
(なんで隠すみたいに、ダサい眼鏡と陰気な頭してんだ。こんなかっこいいのにもったいねー。オレなら無双すんのにな)
さっきと真逆の意味でマジマジ見てしまう。
「かわいい」
その超絶美丈夫が子供のような顔で笑った。不意打ちに胸が詰まる。こんな破壊力のある笑顔を見たことがない。
(──かわいいってナニ!?)
「ペンギンの親子」
名前の横を指さしている。
(あ、シール)
小1の妹が勝手に貼ったシールだった。彼女は今シール期で、被害は家中に及んでいる。
シール期とは目に付いたもの全てにシールを貼ってしまう成長過程における行動の一つ、とオレが勝手に思っている。
「はい、どうぞ」
立ち上がった先生に教科書を渡される。
「あ、りがと……」
なんだかおかしい。目と胸と耳がゾワゾワする。かわいいは、シールのことだったのに脳みそが勘違いしてるのか。
「もう廊下は走りませんね?」
「うん……」
全部が先生に反応してるみたいでドキドキしている。
「汐見君が良い子で、先生嬉しいです」
頭にポンと手を乗せられる。一瞬なのに、ほんわりあったかかった。
「君たちもね」
「あい」
「へーい」
クラスメイトの気の抜けた声に送られて、先生は職員室に戻って行く。
「ねー今の誰」
友人の片方、左十 が尋ねる声がした。
「選択生物の先生。間宮 先生、だっけな」
もう一人の友人、右白 が答えている。
(かわいいって、オレに言ったわけじゃないのに……)
「っていうか汐見──」
オレの顔を見た右白が何かに気づく。
(──やめろ、言うな)
「わ、シオ顔真っ赤」
左十がこちらを向いて驚いている。
「汐見……お前……チョロ過ぎじゃね?」
「うるさい分かってる。それ以上言うな」
オレは先生に恋をした。自分でも残念なくらいチョロかった。
その日、やきそばカレーパンは手に入らなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日の昼休み。同じメンツでまた購買に向かう。オレは今にも走り出しそうな二人の後ろを歩いている。
「シオー?今日は伝説のパン、チャレンジしないの?」
左十がオレを振り返る。
「欲しいけど。昨日の今日だしさ」
「あーあー、なるほど。そっかそっか」
右白がわざとらしい声を上げて巻き込むように肩を組んでくる。
「汐見きのう、あの先生に一目惚れしたもんな」
「そうだった。シオ、キラッキラだったよね」
左十が自分こそ輝いた目でオレを見上げる。恋バナ大好きだ。
「告白、しちゃっとくー?」
「そんなわけないだろ単細胞」
(そりゃ昨日はありえない位ドキドキしたし、あの後ずっと先生のことばかり考えてるし、夜も寝れなくて完徹はしたけど)
「自分だってまだ、なんだか良く分かってないし」
「んなことないだろ。どう見ても『先生……すき』って顔に書いてあった」
右白がニヤニヤと楽しそうにからかう。
「う、うるさい……」
「今だって、走るなって注意されたの律儀に守ってんだろ?健気でかっわい」
「怒られたら気を付けるだろ」
「怒ってなかったじゃん間宮センセ。あんなの普通、気にしないよねー」
左十も加わり無責任に言いたい放題言ってくれる。
「……一目惚れだってことくらい自覚してるよ。でも相手は男だし先生だし躊躇 もするだろ。戻れなくなったら、怖いじゃん」
「──あ」
購買の方に目を向けた左十がオレをつついた。視線の先に間宮先生がいる。
(やばい、聞こえた?)
距離は十分にある。たぶん大丈夫なはずだった。
「え、なんで来んの」
右白が小声になる。
先生がまっすぐこちらに向かっていた。どうやらすれ違うだけのつもりではないようだ。
「……うー……」
「汐見?」
先生の姿が見えてから、またおかしい。じわじわと体温が上がっている。うわああと叫んで逃げ出したい。右白の腕を掴んでなんとか踏み止まった。
「こんにちは汐見君」
先生はもう目の前まで来ている。
(なんで名指し!?)
テンパって挙動不審になりかける。
(待て、落ち着けオレ。先生が名前を知っているのは、多分この中でオレだけだ。それだけだ)
「……こんにちわ」
返事をすると先生は口元に弧を描き、満足そうに何度かうなずく。今日も目元は隠れているけど、どうせ目なんて合わせられない。
「今日は廊下を走っていませんね。素直に聞いてくれて嬉しいです」
「……うん」
急に大人しくなったオレを、右白と左十は黙って見ている。笑いを堪えているのが丸わかりだ。きっと後でバカにされる。
先生が腕に下げたビニール袋をゴソゴソ探り、一つのパンを取り出した。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、あのやきそばカレーパン。
「???」
(……どうぞってなに?くれるの?何で?)
考え込み、動けなくなったオレの手を先生が取った。
取った腕は、まだ右白を掴んでいた方だ。指を開かせ、わざわざ右白から離してから、その手のひらにパンを乗せた。
「コレが、欲しかったんでしょう?」
オレの手を握ったまま一歩近づいた先生が、確かめるように声をひそめた。
(パンのことだって分かっているけど、何か別の意味みたいじゃね!?)
止める間もなく頭の中に映像が流れてくる。
──先生の手のひらが頬に触れ、オレの身体がビクリと竦んだ。手がゆっくりと頬をすべり、髪の中に差し込まれる。『何が欲しいんですか?』耳に口を寄せ囁いた先生が、オレの唇に指を這わせ──。
「間宮先生ずるーい!なんでシオだけー!?」
左十の叫びに肌色の妄想が切り裂かれた。危険な白昼夢から目が覚める。
(今オレ何考えた!?)
けど──覚醒は許されない。
先生が手を握ったまま後ろにまわり込む。そしてその位置で止まってしまうので、オレを片手で抱きしめてるみたいになる。
「えこひいき──ですかね」
背後から異様に甘ったるい声色を吹き込まれた。これだけの身長差があるのに耳元で聞こえるなんてわざとだ。
(──もうダメだ)
遠くで爆発音がした。オレはきちんとトドメを刺される。
腰から崩れ落ちそうになった時、先生がクスクスと笑い出した。
ぱっと腕を離して解放する。
「なんて、冗談です。言いつけを守ってくれるご褒美ですよ。三人で仲良く分けて下さいね」
「間宮先生って変わってるねー」
「変わってるてか……距離感やばくね。あんなコミュ障みたいなアタマしといてグイグイ来んじゃん」
「だね、ギャップがすごい」
「──おい、汐見。大丈夫か」
「………え?」
肩を揺すられて、先生が消えた廊下から視線を引き剥がして右白を見る。
「あー。今日のシオはとろけるチーズだ」
左十がオレを覗き込み呟いた。
「分かりやす過ぎ」
右白に頬をつねられる。
「いって」
「また『先生大好き』って顔になってる。バレても良いならいいけど」
(なんか、もうオレ……バレたって良いかもしれない……)
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