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過去のおはなし

 健ちゃんと僕が知り合ったのは、僕がまだ小学生だった頃の、関東が珍しく大吹雪に見舞われた冬の日だった。僕はいわゆる鍵っ子で、その日もパートに出かけている母親を思いながら、数センチだけ積もった雪道をひしひしと歩み、雪にも負けず風にも負けず、午後の授業が終わった放課後に二人暮らしの貧しいアパート(小学校から徒歩十五分)へと帰ってきた。そして吹雪の中、玄関の前に立ってランドセルを漁ったときに僕は気が付いたのだ。昨日お母さんに新しいキーホルダーを買ってもらって、家の鍵にそれを付けて喜んで、それを学習机の上に置いたまま寝てしまったのだった。勿論次の朝の僕がそのことを思い出すこともなく、僕は鍵を持たずに元気に学校へと登校した。その時点では雪は降っていなかったし、予報でもチラつく程度と言っていた。 「どうしよう」  セーターにダッフルコートの僕はぶるりと身を震わせて、母の帰宅時間を思う。今は午後三時くらい……だと思う。母親のパートが終わるのは午後五時過ぎ。残業があればもっと遅くなる場合もある。友達に連絡を取ろうにも僕はまだ携帯電話を持っていないし、近くに住む知り合いもいないし児童館も今日は休館だ。公衆電話なんてものはもう廃れていてどこに電話することもできず、学校に逆戻りするには道が酷すぎる。『都内の小学生、鍵を忘れて吹雪の中、凍死』なんていう大げさな文言が、幼く単純だった僕の脳裏を過って不安になった。その時であった。 「さっむ、」  そう独り言をいって、隣の部屋の大学生がアパートへと駆けて来たのだ。そのころはまだ茶髪で、ワックスをきかせた髪を凍らせながら、ずいぶん薄着で煙草を買ってきたらしいガタイの良い健ちゃんは、言っても小学生の僕にとっては『お隣の強面の、こわいお兄さん』といった存在であった。健ちゃんは部屋の鍵を取り出してドアに差し込み、ふいに隣の部屋の前、吹雪の中でしゃがみ込んで涙目になっている僕を発見する。 「うおっ。隣の子供、どうした?」 「……」  人見知りを発動させて、僕はふいっと顔をそらす。僕の黒髪に雪が積もって、身体も雪だらけなのを見て、健ちゃんは『おいおい』と心配そうにその強面を曲げた。 「なんだよお前、鍵っ子だろ? まさか家の鍵、忘れたか」 「……うん」  なんとかもって一言そう答えると、健ちゃんは『あっちゃー』と額に手を当てて、吹雪で視界の利かない辺りを見やって、それから僕にまた尋ねた。 「お母さんの帰りは?」 「五時、くらい」 「近くに友達の家は?」 「遠い……」 「ん、そっか。仕方ねーな、俺の部屋に入っていいぞ」 「えっ」  日頃から学校でも家庭でも、知らない大人について行ってはいけませんという教育を受けていた今時の小学生の僕は戸惑って、でも相手はお隣さんで、それでも何だか焦ってしまって立ち上がって、ブンブンと首を振っては『結構です!』と声を上げてその場から、行く当てもなく走り出そうとしたのだが、そんな小柄な僕はいとも容易く体育会系で俊敏でもある健ちゃんにその細腕を引っ掴まれてしまった。 「そう警戒すんなって。お隣のよしみだろ?」 「あっ、あっ!?」 「散らかってるけど、コタツくらいはあるからそれに入っとけ」 「おかあさっ……」 「おい、誘拐されるみたいな声上げるなって!」 「ぐすっ」 「あー、泣くな泣くな!」  泣きべそをかいて不安に煽られている僕を健ちゃんはコタツに入れてお菓子をくれて、そう、その駄菓子のほんのみっつでもって、僕はその日から健ちゃんを『健ちゃん』と呼んで慕うようになったのだった。

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