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◇05

 人生で上から数えて三番目にはランクインする程の、最悪の目覚めだった。  まず薄ぼんやりと瞼を開けた私は、見慣れない白い天井に違和感を抱いた。私の自室の天井は、無駄に美しい飴色の木材が格子状に組まれて貼り付けられている。私の趣味ではなく、さらには主人の趣味でもない。おそらくはアブダビの建築士の趣味だ。  自室ではない場所で目覚める事の少ない私は、さてここは何処だったかと身の回りを確認しようと身体を起こしかけ、急に重くなった外気やぐらりと回転するような頭痛や一気に迫り上がる胸の悪心に対応できず、すぐさま元の位置に身体を戻した。  どうやら私は、ソファーに横になっているようだ。ということに気がつき、やっとこの天井がイギリスのフラットのものであることを思い出す。  そうだ。飲んだ。私は酒を飲んだのだ。  笑うチリコ、どぶどぶと音を立ててグラスの中に落ちるワイン、空き瓶の音、オフェリアはトルコへ、グレッグはアメリカへ、ノルはラティーフと共に――二日目ならばまだカナダに着いた頃か。昨日起こった様々な事が情報と体験ごちゃ混ぜになりつつ頭に浮かぶ。  私はイギリスに来た。目的地はリトル・ヒューストン。手狭な少しだけ古いフラット。目的の人は、ああ、そう……チャールズ・ヘンストリッジ。  頭が良い天才で、それなのに引きこもっている。変人かと思いきやフラットの同居人とは仲がいい、不思議な赤髪の青年。  彼の伏せた瞳にかかるまつ毛の影の麗しさを思い出すと同時に、ふわふわとした酩酊状態の私からグラスを奪い取る細く長い腕まで思い出してしまう。  掴みたい、と思った記憶はあるが、本当に掴んでしまったのか覚えていない。我慢のきかない人間だという自覚はあるが、それでも人間としてギリギリ失礼ではない程度に保っていた理性は、見事酒に溶かされた。  アルコールとは恐ろしいものだ。自制と規律が生活の基本であるUAEは、アルコールを禁止して正解だ。あんなものが巷に溢れている世界は恐ろしい。  昨日私の理性を見事に溶かしきったアルコールは、一夜明け私の健康を奪ったようだ。  頭が痛い。特にこめかみのあたりが痛む。息をするたび、少々身体を動かすたびに笑ってしまいそうな鈍痛が私を襲い、実際少しだけ笑ってしまった。  頭痛だけではなく、身体に力が入らず起き上がる気力がまったく起きない。胸の奥が気持ち悪く、内臓が重い。指の先まで毒に浸っているような感覚だ。アルコールは私の身体の中で見事毒に変わったらしい。  なるほどこれが噂にきく二日酔いというものか。  私がそう理解しつつもまったく起き上がれずに怠惰に天井を眺め始めてから三十分後、ようやく何処か扉が開くような音が響き、頭上から声が降って来た。 「……生きてんじゃん」  グッドモーニングの代わりに掛けられた言葉は物々しいが、開口一番詰られたわけではないしおそらく心配していただいているのだろう、と判断して口を開く。腹に力を入れるだけで内臓全てが悲鳴をあげているかのように気持ち悪い。 「おはようございますチャールズ……あー……生きて、いますか。私は」 「残念ながら生きてるように見えるけど、健康かどうかっつったら微妙だな。水飲みゃ多少マシになんだろ。ほら起きろプラスチック野郎」 「その呼ばれ方は好きではないです……」 「呼ばれたくなかったら起きろっつの」  乱暴な言葉で急かすわりに、彼は蹴ったり殴ったりはしない。  自分のペースでゆっくりと、どうにか身体を起こそうとしたものの、その挑戦は失敗に終わった。  仕方なく起きられる気がしない旨を正直に伝えると、ため息をついたチャールズは水のペットボトルを持ったままスツールに座った。 「……チリは――」 「夜中のうちにトイレでダウンしてたから、引きずってチリの部屋に置いて来た。吐ききってたみたいだし、まぁ死ぬこたねーだろ。たぶん。あいつだいたいトイレに篭ったまま寝落ちるから嫌なんだよ……」 「ああ……まぁ……思う存分吐きたい気持ちは、確かに、えぇ。わからなくも」 「バケツいる?」 「いえ……悪心はありますが、実際に吐くほどではない、ような。私は、その……、最後のキングを引きましたか?」 「なに、あんた酔うと記憶ぶっとぶタイプか?」 「――かもしれません」  ふんわりと、夢うつつに私はスペードのキングを引いたような記憶があるにはある。しかしどうにも現実味がなく、まるで映画を見ているかのような感覚だった。  酔っ払ったチリ嬢は結局私とチャールズを巻き込みキングスカップゲームを始めてしまった。やたらと引きの悪いカードのせいでどんどんカップにワインを注がれているうちに、ふわふわと浮いていた意識はさらに朦朧とし、最後にパイントグラスを手に取った記憶はない。  だがチャールズ曰く、私はその中の酒を飲み干したらしい。 「無理すんなって止めたんだけど、ここまで来たら無理もなにもないですっつってたよ。まぁ、途中で存分に水入れて薄めたし、最後のはそこまでひどいアルコール度数じゃなかったとは思うけどさ。ここがロシアで酒がウォッカじゃなくてよかったな」 「ええ、まったく、その通り……、世の中の酔っ払いは毎回このような壮絶な朝を迎えるのですか?」 「酔わない奴もいるし、適量嗜んどきゃ悪くない娯楽だろ。禁止するほどの悪じゃないんじゃない? って俺は思うけど、まぁ、あんたの場合はしばらく酒には手をつけない方がいいとは思うわ」 「全くもってその通りで反論する余地など皆無ですね……」  未だに身体を起こすことさえできない私は、チャールズの呆れた視線に返す言葉もない。  チリに注がれた酒とは言え、己の意思で口をつけた。無理やり飲まされたわけではないし、途中で酒を断ることもできたはずだ。……記憶があやふやなのでどの程度の判断力が残っていたのか定かではないが、とりあえず好き好んで酒を飲んだことに変わりはない。  アルコールは恐ろしい。これほど身をもって体感する事もなかなかないのではないか。  ぐるぐると脳が回るような感覚に重い息を吐き、断片的に覚えている場面を思い返し、私は口を開く。 「……私は、貴方に、なにか失礼なことをしませんでしたか?」  この問いかけは、チャールズの軽い言葉で適当に流される――ことは、無かった。  数秒待ってみたものの、返答がない。訝しみ視線だけをずらした私は、妙な顔で押し黙る青年を見てしまった。  なんというか、なんとも言い難い顔だ。悩んでいるような、苦いものを食べたような、それでいて居心地の悪そうな。  ただでさえ重い頭がさらに重みを増したように感じる。どうやらアルコールに勝てなかった私は、彼に対してなにかしら普段とは違う行動を取ってしまったようだ。 「…………わかりました、私は貴方に対して、なにかこう、やらかしたわけですね。どうぞお気兼ねなく昨日の私の醜聞をお聞かせください。只今は残念ながら身体を起こすこともままならず、頭も鈍痛が響くだけでうまく動いてはくれませんが、後日誠心誠意お詫びさせていただきますので。私は何をいたしましか? 貴方を物理的に枕にした? 昨日のようにまた己の感情のままに詰め寄った?」 「いや、そーゆー感じの迷惑は被ってねーけどさ……」  なんとも歯切れが悪い。ズバズバとした言葉のキレがない。  酒は理性を溶かすものだ。ということは、欲望に忠実になると解釈できる。  私が昨日、昼頃から唐突に抱いた欲望の対象はチャールズ・ヘンストリッジその人だった事を思い出し、今度は私の方が妙な顔を晒す番となる。対して表情が変わったとは思えないが、大変居心地の悪い気分で私はチャールズに詰め寄る勢いで口を開く。 「私は、貴方になにか、言った……?」 「………………」 「目をそらさずにぜひとも昨晩の私が貴方に何を言ったか教えてください」 「嫌だよ自分で思い出せよ馬鹿。つか一生思い出すな馬鹿」 「それは思い出してほしくない言葉だった、ということ?」 「……面倒くさい聞き方すんのやめろほんと。俺まで頭痛くなりそうじゃん」 「チャールズ」  名前を呼ぶ懇願に対し、チャールズは少しだけ息を飲んだような気がした。気のせいかもしれない。頭がうまく動かない上に、物理的に首も動かない。訝しんでも詰め寄り確認する力がなく、ただ横になるだけしかできない私に、チャールズは渋々というように低い言葉を投げつける。 「…………サンドイッチ」 「は?」 「あのサンドイッチ、うまかった。また作ってくれたら、あんたが何を喚いてたか教えてやってもいい」  ほんの少し視線をずらした彼のこの言葉を、体調万全の状態で受け止めることができたならば、どれほど幸福だっただろうか。いやおそらく元気な私ではすぐに彼に詰め寄ってしまう。お互いの為に、私は瀕死で良かったと思う。  料理を褒められただけでも、実はかなり喜ばしい。私は己の食事以外でキッチンに立つことがない。ラティーフは間食を好む人ではなく、朝昼の調理は数少ない使用人の貴重な仕事だ。  キッチンに立つことは苦ではない。しかし己の手で作ったものを誰かに提供し、なおかつ悪くない評価をもらうのは初めてで、どうにも座りの悪いような高揚感が襲う。  その上今ほどのチャールズの不服そうな様子は、存分に私を誑かす。口を少し尖らせるのをやめなさい。私が調子に乗ってしまう。  などとは微塵も口にださず、さも支給し慣れたコックを装った私は、お気に召したようでと殊勝な言葉を吐いた。  無駄な感情を交えた言葉で、チャールズに詰め寄りたくはない。ただでさえ私は一度失敗している。  幸いにも私は感情の高ぶりが表情に直結していない。意図して無表情の仮面を被っているわけではなく、単にこういう顔と性格である、というだけの話だが、今ほどの己の面白みもない顔面に感謝したことはない。 「リトル・ヒューストンでは主に誰がキッチンに立っていたのですか?」  内心の感情をすべからく押し殺し、しれっと質問を口にする。  チャールズはしばらく眉を寄せた後に、少々天井を見上げる。考えごとをする時の癖かもしれない。 「あー……ウチはほら、別に合宿所でもねーし寄宿舎でもねーから、各自食事は自分でどうにか……ってのは理想と建前で、料理できない奴は飯作れる奴から買い取って食うスタイル。だいたいオフェリアとグレッグが多めに作ってストックしてくれてる。たまにノルも作る」 「ということは、貴方とチリは基本的にはキッチンには立たない?」 「料理できねーもん。あとチリの料理は俺よりやばい。あいつの飯はまじでやばい」 「不思議なことに大変リアルに想像できます。では私が滞在している間は、微力ながらコックとしてお二人に貢献いたしましょう。……頭痛と悪心が引き、私の身体が地球の重力に耐えられるようになったら、の話ではありますが」  頭を数センチ動かすだけで具合の悪さに絶望するような現状では、それこそ口を動かすことくらいしかできないが。 「まー、水飲んでアルコール追い出してとりあえず寝ときゃ夜には回復してんじゃないの?」  水のペットボトルを私の顔の横に起き、チャールズは少し表情を崩した気配がした。 「……貴方は、二日酔いの人間には優しくなる習性でもあるのですか?」 「なんだそりゃ。んなわけねーだろ。最後のキング引いたのはあんただし、今日一日は王様だと思って存分に使われてやってもいい。チリはよく言ってるしな。『王様の命令は絶対』だって」 「ああ。日本の、王様のゲーム。王様になった人間が暴虐無人に命令を下す恐怖のゲームですね。絶対にチリ嬢とはやりたくない」 「俺もそう思うわ。んでどうするよ王様。水飲む? サイダー? シャワー浴びる?」 「優しくしてください。存分に」 「抽象的な命令は禁止だっつの。もっとわかりやすい行動しかできねーの平民は」 「普段から主人に仕えているもので。急に王様になれ、と言われましても。では、そこにいてください。慣れない部屋で味わう孤独は二日酔いには些か強すぎる、ということを学びました。動きたくはないですが、話していた方がマシです」 「あっそ。じゃあ、白のポーンd4」  唐突に投げられた暗号のような言葉が何か、悔しいことに一瞬どころか三秒ほどわからなかった。  チェス盤の番号だ、と気がついた私は、よろよろと水を飲んだ後に訝しく眉を寄せた。 「…………チェス? 口頭で?」 「暇なんだろ。できんだろチェスくらい。頭のいいやつはだいたいチェスが好きだろ」 「実物の無いチェスはやったことはありませんよ。二日酔いでどこまで貴方についていけるかわかりませんが、まぁ、確かに暇ですね。では黒のポーンをf5へ」 「負けたら王様交代な。g3」 「勝てる気などまったくしませんよ。貴方は王様に向いているし、私は従者に向いている。しかしながら勝負事は精一杯、誠意を持って大人気なく立ち向かうのが私の信条です。あー……ナイトを、f6へ」 「上等。他になんか賭ける?」 「賭博は趣味ではありませんので」 「じゃあ、まぁ――いつも通りか」  チャックの言葉に、私は思わず息を零した。  そう、いつも通り、金銭も契約もない、ただの暇つぶしとしてのゲームだ。  結局私は画面越しでなくとも、彼とゲームばかりしている。本来ならば、もっと話す事が――例えば趣味とか、好きなものとか、苦手なものとか、いままでの交友関係とか、そういう話を聞き出すのが恋する人間としての初動なのかもしれない。  けれど私は重力に逆らえないまま、チャールズとゲームをしている。相変わらず彼について知ることは少ない。  酒には多少強い。チリコとは仲が良い。そして私のことは、どうやら隣に座ってもいいていどには嫌いではないらしい、ということくらいは新しい知識として蓄積された。  どうやら私の作ったサンドイッチも好きらしい。  天井に六十四マスの白黒の盤を思い浮かべながら、せめて好き嫌いくらいは夜までに聞き出さなくては、と思った。

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