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神の獣ルプゼノビス

いつからだろうか。 いつも、ただ自分の好きなことをしているだけで、お前は変わり者だなと言われる。 学生の頃、友人達が好きな女子の話や親の決めた婚約者との文通の話をしている時に、一人なにも語る事がなくてただ微笑んでいたあの時からだろうか。 それとも。幼馴染達が騎士に憧れ、剣の稽古をかねて木剣を振り回して遊んでいた時に、一人木陰で生き物図鑑を見ていた頃からだろうか。 その図鑑に載っていた、不思議な生き物。 ヒトのような二足歩行をする巨大な狼。 気高く賢い、特別な獣。 ルプゼノビスというその獣は、つい二、三十年ほど前までは神話の中の生き物だと思われていた。 逆立つ毛並み、逞しく太い腕。尖った小さな耳が頭の上にあり、腰にはまるで箒の先のような尾っぽ。 その白黒の絵を繰り返し眺めては、瞳や毛並みの色、手触り、匂いを空想していた子ども時代。 幼い俺は、すでにこの美しい生き物に魅力されていた。 そして、その憧れはまるで棘のようにこの胸にささり、ほかのなにも考えられなくさせていたのだ。 ※ 「本当に行くのか?別にお前でなくてもいいだろう」 そう心配気に言う父に、黙って微笑んでみせる。 パンパンに膨れた背嚢(リュック)と、頑丈な登山靴を前に、俺の心は踊っていた。 荷造りを終えた俺は早く部屋を出たいのだが、父はなんとか一人息子を思い留まらせようと必死だ。 「父さんが決めたんだろう?……グレゴール山脈に隧道(トンネル)を作って、首都と直通の線路を作るんだって」 「あ、ああ。私が議会で提案した」 「その作業を進めるためには、麓の森を焼き払う必要がある。将来的にはあの場所に、石炭を補給するための駅や新しい街を作らなければならないしね。そうだろ父さん」 「そうだ、だが」 「そうしたら、あの森の生き物はいなくなってしまう。その前に、生物学者として、俺は森を徹底的に調査したいんだ」 この国のほぼ真ん中に、グレゴール山脈という高い山々がある。その麓は深い森となっていて、森に入ると天罰を受けるという言い伝えがあった。 その暗く怪しい森は、神話の時代よりずっと、人々を拒み続けている。 そのため、西側にある首都から東側の港町までの道は、ひどく遠回りしなくてはない。 中央議会の議員である父は、その状況を改善しようと、隧道(トンネル)を作って線路を引き、蒸気機関車を走らせようと議会で提案した。 そして、俺からすればとち狂っているとしか思えないが、その案は承認されてしまったのだ。 あの深い森、険しい峰は、まだほとんど人間が足を踏み入れたことがない。狩人や薬師が時折、森のごく浅い場所に入る程度だ。 まだ知らない生き物。 未知の生態系。 それらが、あのうす汚い煙をあげてもたもた走るあの黒い鉄の塊の為に、焼き払われてしまうなんて。 線路なんてなくてもいい。野生生物の美しい生の営み以上に大切なものなどないのだ。 机の上に置いてある、背嚢にはあえて入れなかった一冊の本。それを手に取り、俺は付箋の貼ってある(ページ)を開いた。 幼い頃から、ずっと大事にしている図鑑。その、ルプゼノビスが載っている(ページ)。 「あの森には……恐ろしい獣がいるって話じゃあないか。調べるにも、人を雇えばいい。お前が自分で行かなくても」 ため息混じりにそう言って、父はすがるような目を向けてくる。 一人息子を旅に出すのが不安だというのは分かるが、俺はもう三十手前の大人の男だ。 ふと、壁に立てかけられた姿見に視線を向ける。父によく似た、蜂蜜色の髪の痩せた男がそこにいた。はしばみ色の目は目付きがキツく、とても美青年とは言いがたい。だが、その瞳は期待と希望できらきらしている。こんなにもご機嫌な自分は久しぶりに見た。 「この目で見たいんだ。その森の獣を……ルプゼノビスを」 「しかし、なにかあってからでは」 「さあ、もう行かなきゃいけないんだ。説教は帰ってから聞くよ父さん」 「な!おい待て!」 父を置き去りに、俺は急いで荷物を背負うと、あの本を手にして部屋を出る。そのまま真っ直ぐ、屋敷から飛び出した。 門の前に待たせていた馬車に乗り込み、御者に笑顔を向ける。 「さあ、グレゴールの森へ」 困惑ぎみな御者は素直にうなづいて、手綱を取った。ガラガラと車輪が回る音と共に馬車はグレゴール山脈へと向かって走りはじめる。 馬車はガタゴトと揺れるが、蒸気機関車はこんなには揺れないらしい。それに、馬車よりずっと早い。 それでも、俺は馬車の方がいい。 馬の息遣いや、蹄の音を聞きながら旅をするのが好きなのだ。 グレゴール山脈までは、雇った馬車に乗って3日ほどの旅だった。 途中の町や村で宿を取り、夜を過ごす度に、膝に乗せた図鑑のルプゼノビスの挿絵を眺める。 この本だけは、常に手に持っていないと落ち着かないのだ。質のいい革製の表紙は、すっかり俺の手に馴染んでしまっている。子どもの頃からずっと一緒だが、大事に大事にしているからか修繕に出したことはない。 出会ったころと変わらない形で、俺の手が触れた分、表紙の革が色合いを変えただけ。大事な友人が俺と一緒に年を取っているような感覚。 「もうすぐ、本物に出会えるかもしれないんだ」 ルプゼノビスの(ページ)を開いて、俺は美しい獣人のその毛並みを、そっと撫でた。 きっと、こんな機会でも無ければ、俺は本物の彼らに会いたいとは思わなかったろう。幻想は、夢だから美しいのだ。現実に彼らと相対して感じるのが、感動や歓喜であるとは限らない。 複雑な感情と図鑑を抱いて、俺は旅の夜を過ごした。 そして、ついに目的地へと到着したのだ。 ルプゼノビスという生き物は、神話の時代から存在していた。 彼らは、神が人間と同時に作ったとされている。 人が過ちを犯す時、彼らが神罰の地上代行人になるという。 森の奥深く、あるいは険しい山々、閉ざされた深い洞窟の中……人間から身を隠すようにして、彼らは暮らしていた。その為、実在すると広く知られるようになったのは、近年になってからだ。 「この国での目撃例は、グレゴール山脈の麓の森にしかないのに。それを、焼き払うなんて」 まだ、ほとんど研究されていないルプゼノビスを、むざむざ焼き殺してしまうなんて、俺には耐えられない。 この美しい獣を、一目でも見る機会が永久に失われてしまう。なんとかそれを阻止するために、俺は森の中へ足を踏み入れた。 生物学者という仕事柄、山歩きや森の散策には慣れている。だが、この森は勝手が違った。 猟師も近寄らないというのが、なんとなく分かる。 「毒草ばかりじゃないか」 俺は背嚢(リュック)から手拭いと手帳を取りだす。手拭いで口と鼻を覆うようにして、首の後ろで留めた。万が一のためだ。 そして、手帳を見て今までに調べたこの近隣の植生を確かめる。やはり、全く違う。 森の外、馬車を降りた場所には、こんな草は生えていなかった。 よく見れば、まるで日を拒むように枝葉を広げる木々達も、この国では見かけないものだ。たしかもっと北に自生している種で、樹液に強い毒がある。 歩くにつれて、どんどんあたりは暗くなる。まだ太陽は真上にある時間のはずだが、日が暮れてきたかのようだ。背嚢に吊るしておいた小型の洋燈(ランプ)に火を灯しても、足元しか見えない。 木々の間隔も狭まり、足元の毒草の下生えも背が高くなっていく。 空気自体も、なんだが濃くて重く感じた。 ゾクゾクする。 「なんということだろう。この国の真ん中に、こんな秘境があったなんて」 感動に体が打ち震えていた。 ここは未知の世界だ。 ありとあらゆる神秘的なものが、ここに隠されているような気がした。 暗さや毒草など、俺は恐ろしくはなかった。ただ、この特殊な森がただ焼き殺されるのが恐ろしい。 更に奥まで進むと、俺はより奇妙なことに気がついた。 「……虫一匹、見かけないな」 鳥の声も、虫の音も聞こえこない。 その場にしゃがみ、手袋をつけて毒草を掻き分けてみる。地面は見たところ特になんの変哲も無いが、アリの一匹もいない。 そうか、毒草や毒樹ばかりだから、生き物は生きてはいけないのだ。そもそも食べ物がない。 まさに、呪われた森だ。 「この環境で生きているなら……ルプゼノビスは毒に耐性があるのか?」 先程から空気が重く感じるのは、毒が大気にまで及んでいるからなのかもしれない。 長居はできないのだろう。 ただ、俺は……ルプゼノビスに出会うまでは、森を出る気は無かった。 方位磁石と、か弱い洋燈(ランプ)の明かりを頼りに、更に森の奥へと向かっていく。 がさり。 ふと、どこかで茂みが揺れる音がした。 音のした方へと振り返って、俺は洋燈(ランプ)を掲げてみる。しかし、そこには何もないように見える。ただ、樹と草があるだけ。 もう下生えは腰まであった。 この種の草は、こんなにも背は伸びないはずなのに。また、春にしか咲かないはずの黄色い小さな花が、秋の今頃に咲いている。虫のいないこの森で、花を咲かせる意味はあるのだろうか。 がさり。 また、音がした。 今度は近い。 俺は手拭いをはずし、ゆっくりと振り向いた。 何も、いない。 俺が歩いてきた軌跡が、草むらを掻き分けた跡が、残っているだけだ。 「ああ、一目、姿を見せてくれ」 そう呟いた瞬間。 どずん、と。 後頭部に、重い衝撃が走った。 ぐりんと、目玉が回転する。激痛と、体から力が抜ける虚脱感。意識が飛ぶ、その瞬間。 視界の端に、黒い毛に覆われた腕が見えた。

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