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楽園と番

もともと、人間の社会にはうまく溶け込めていない俺だった。だからだろう。俺は、この廃墟での生活に全く不便を感じていなかった。 妙に軽い体を弾ませて、俺は山を登る。来たばかりの時は岩に足を取られていたのに、今は軽々と山頂までたどり着けた。 ここへ来て、もう二ヵ月半が過ぎた。すっかり山に適応した俺は、ぺたりとしていたはずの腹もうっすら六つに割れてきた。素直に嬉しい。 特に鍛えたわけではないのだが、……体が変わってきたのか。あの果物しか食べていないからだろうか そして、変わったのは、体だけではなかった。 今まで俺は、随分窮屈だったように思う。変わり者だ、おかしなやつだと揶揄されて。女性にも男性にも興味がないことを気味悪がられた。 だが、ここにはルプゼノビスしかいない。 相変わらず彼とは言葉は通じない。それがむしろ心地よい。 俺が昼間何をしていたかは、彼には匂いを嗅げばわかるようだった。危ない場所に行けばキャンキャンと叱られたが、他は好きにしていてもいい。 そして俺は、彼が昼間何をしていても気にはならなかった。 ただ一緒に食事を摂り、体を重ね、お互いの匂いを嗅ぎあい、抱きしめあって眠る。 なんて楽で、心地よい、満ち足りた関係なのだろうか。 心も、体同様に満ち足りて、穏やかだった。 しかし、いつまでもこのままで良いとも思ってはいない。 「……父さんは、俺を待っているんだろうな」 山頂からは、麓の毒の森がよく見えた。 毎日、夕方の散歩がてら、ここから下を眺めている。ここで考えているのだ。 この山で見つけた新種の生物を、街に戻って発表すれば。ルプゼノビスも含めてだ。 そうすれば、議会は考えを変えるだろうか。 しかし、それは本当に彼のためになるのだろうか。この地に、俺や手帳の主のような人間が足を踏み入れるのは正しいことなのか。 はじめはそのつもりでこの森にやってきたのだ。このグレゴール山脈の学術的な価値を認めさせることができれば、馬鹿な開発計画を止めてくれるのではないかと。 毒の森は、ルプゼノビス達を人間から守るために神が創りたもうたもののように思う。 もし、本当に森が焼いたなら……天罰を受けるのは人間の方だろう。 それならば、俺はどうすればいいか。どうすれば、人間と、彼と、この場所を守ることができるのか。 ふと、森の端の方。俺が馬車を降りたあの場所の方で何かが動いた気がした。 よく目を凝らしてみる。近視がちで、あまり遠くは見えなかったはずの俺の目は、少し良くなっていた。 そこには何な小さなものが集まっている。 小さな動く何かは、ちらちらと燃える何かを掲げていた。松明だ。 人だ。 森を焼きにやってきた、人だ。 体中の毛穴が開いたような気がした。 俺は靴を脱ぐと、罵声とともに眼下に向かい投げ捨てた。そして、山道を転がるように駆ける。 まるでカモシカのように。俺の体はしなやかに岩と岩の間を跳ねた。 風切り音が鼓膜を揺らす。 俺はいつの間にか、人間ではなくなっていたのだろうか? はぁ、はぁ、と。激しい息遣いはまるで獣だ。 毒の森に飛び込んで、命を拒む土を蹴る。 この視界の悪い森でも、不思議と向かうべき方角が分かった。 かすかに焦げた油の匂いを感じたと同時に、俺は茂みからひらけた場所に飛び出した。 「──やめてくれ、息子がいるんだ!まだ、この森の中に、息子がいるんだ!」 はじめに耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた父の声だった。懇願する父の声は、誰の耳にも届いてないようだった。 作業服を着た無表情な男達が、軍人や役人の指示で森に油を撒いている。ずらりと並んだ火薬と、油の入った樽。 「やめろ!!!」 怒声をあげ、俺は作業の指示をしている役人に飛びかかった。驚いた顔をしたそいつが飛び退り、となりに立っていた軍人が血相を変えて体を割り込ませてきた。 軍人に腕を捕まれ、俺は満身の力で腕を振り払った。あっけなく、彼は転がった。 「父さん!」 「な、あ?」 父は、俺を見て目を丸くしていた。俺の名前を呼んで、おどおどしている。 奇異なものを見るような表情に、息子の無事を喜ぶ笑顔が混じり合った、複雑な顔。 「無事で、よかった、しかし、な、何か変わったか?二ヵ月でそんな、む、ムキムキに」 そんな事は今はどうでもよかった。 俺は怯える役人達に睨みを利かせる。ヒッと悲鳴をあげ、彼らは後ずさりをした。 「この地には、ルプゼノビスがいる。ここは神の庇護があるのだ。我々人間が、手を出していい場所じゃない……ここの植物は毒草ばかりだ。この規模の森が焼け、毒の灰が撒き散らされることになれば、大惨事になる。どうか、諦めてくれ」 この森には、熱を加えても消えない毒を持つ草木も多い。灰になった毒は、風に乗って近隣の町にも降り注ぐだろう。 燃やしてはならない。手を出してはならない。 それを必死に訴えかけるが、俺を見る人々の目は化け物を見るように冷ややかだった。 「何を、ごちゃごちゃと。いったいこの森がなんだというのか。この科学の時代に、聖職者どもが言うような天罰が下るとでも言うのか?」 先程の役人が、鼻で笑って森を指差す。 それを合図に、撒かれた油に向かい次々と松明が放り込まれていった。 ごうっと、火の手が上がる。 熱風が頬を炙り、暮れ始めた空を焼いた。 「なんてことを!」 俺は髪を掻き毟り、悲鳴をあげた。 まだ火を投げ込もうとする作業服の男に掴み掛かろうとする俺を、軍人達が取り囲んだ。数本の太い腕が、迫ってくる。 オォォ!! 森を揺るがすような怒号と共に、黒い風が吹いた。 瞬き一つするうちに、俺を囲んでいた男達が血飛沫をあげて崩れ落ちる。パタパタと降りかかる返り血に、俺は情け無い声が出てしまった。 男達が全員地に伏せた後には、牙と爪を血と肉片で汚した、俺のルプゼノビスがそこにいた。 なんということだ。 俺などのために、彼に人殺しをさせてしまった。 「ば、化け物だ!」 父が叫ぶ。 その声に、その場の全員が蜘蛛の子を散らすように悲鳴をあげて走りだした。 さきほどの役人は腰を抜かして、軍人達に抱え上げられて運ばれていく。 炎は、どんどん燃え広がる。 真っ赤な炎を前に立ち尽くすルプゼノビスは、悲しそうな、苦しそうな表情だった。 「に、逃げるぞ!はやく、こっちに」 細い声が聞こえて振り返れば、父が悲痛な表情で俺に向かい手を差し伸べていた。もうあたりは火に飲まれかけているのに。煤だらけの頬には、初めて見る父の涙が光っていた。 ぐるる、と。ルプゼノビスが父に牙を剥いて唸る。 ──私は、選択しなくてはならない。 炎に包まれ、熱風が髪を炙る。 俺も、選択をしなければならない。 もう時間はないのだ。 「父さん、逃げてくれ。口を布で隠して。灰を吸わないように。出来るだけ、遠くへ」 俺は……父の手を取れなかった。 父に背を向け踵を返すと、俺のルプゼノビスへと向き直る。大きく逞しい獣は、俺に向かい両腕を開いた。その胸へと、飛び込む。 このまま二人で炎に飲まれても良かった。 しかし、俺を姫抱きにすると、ルプゼノビスは咆哮をあげて駆け出した。 火の手の弱い場所を探しながら、彼は炎を飛び越えるように走る。蒸し焼きになりそうな熱さが、森の奥へと向かうほどマシになった。幸いにして火をつけられたのは森の入り口だ。 この深い森を焼き尽くし山の方まで火が届くまでは、まだ時間がかかるだろう。 「待て、行くな、行くなー!!」 父の慟哭は、炎のあげる金切り声と燃えおちた木の崩れ落ちる音にかき消された。 「あ、ああ……ううぅ」 丸い月が浮かぶ空に、星は見えない。炎が明るすぎて、星々の輝きが隠されてしまっているのだ。 森は全て炎に包まれ、眼下はまるで赤い海だ。 炎の熱が吹き上げる風を生み、ひらひらと、季節外れの雪のように灰を振らせる。 しかし、グレゴール山脈の峰までは、炎は届かなかった。 墓のある白い花畑で、俺はその灰を、裸の胸に受け止めていた。 「んあっ、あ、ああっ」 涙で霞む視界には、俺を膝に乗せてゆさゆさと揺するルプゼノビスの金色の瞳と、その黒い毛並みに積もる灰が、ぼんやりと映っている。 ぐちゅ、ぐちゅ、と。濡れた音が響く。 もう血は出ない。 何度も何度も抱かれて慣れた俺のそこは、もう彼を受け入れるための性器だ。女のように濡れ、簡単に口を開く。 ごりごりと、硬い肉が俺の内側を擦る。その度に、俺の唇からは甘い声がとめどなく溢れ、腰がピクピクと跳ねた。 「ひっ、く、ああっ、も、イ、くっ」 炎が、毒の灰が、今にも父の命を奪っているかもしれないのに。 そんなことは、俺の淫らになった体にはおかまいなしで、触れられてもいない性器からは白濁が飛び散る。 「あ!だ、いま、イ、あっ!ひうぅ!」 それでも、ルプゼノビスは腰を止めない。気持ち良すぎて泣く俺を、まるで全てからもぎ取ろうとするように、激しく抱いた。 毒の灰は、風に乗ってどこまでも流れていくだろう。それは、土を汚染し、人々を苦しめる。 人々はこれを天罰だと思うだろうか。無知ゆえに犯した間違いを、神の怒りだと恐れるのだろうか。 それをどこか、他人事のように思う。 何も考えられなくなるくらいの快楽と、ルプゼノビスの金色の視線が、俺の理性を貪り食っていく。 「ひう、い、イ、も、出し、て、はら、にぃ、おねが、あ、あ」 まるで子種を強請る発情期の猫のように。 体をくねらせ、彼を誘う。 優しく微笑み頷いて、ルプゼノビスは俺の腰を強く掴むと、根元の亀頭球をねじ込んだ。 「ひぐっ!う!」 そこまで挿れられたのは、初めてだった。 ずぷりと太いものが押し込まれ、切っ先が今まで入ったことがないくらいな奥まで突き刺さる。 それは、脳みそが沸騰しそうなくらいの快楽だった。 「ああ〜……あ、あっ、うっ」 目の前がチカチカ点滅して、呼吸すらままならなくなる。彼の黒い毛並みにしがみつき、衝撃に耐えた。 ぶしゅっと、腹の一番奥で熱いものが吹き出す。甘い声が止まらない俺は、射精しないままで深い絶頂に溺れた。 はっはっ、と。荒い息を繰り返す彼も、いつもよりも気持ち良さそうに見えた。尻尾がピンと立ち、ビビビッと震えている。 柔らかな肉球が、優しく俺の頭を支える。促されるまま、彼にうなじを晒した。 ぺちゃりと、熱いものがそこを拭う。 そして、焼け付くような痛み。 咬まれた。 だが、不思議と恐怖心は浮かんでこない。ただ、彼ものになったのだという気がした。 ゆっくりと地面に横たわらされる。白い花が、視界の端で揺れている。 ひらひらと舞う灰と、燃える月を背にルプゼノビスが俺を見下ろす。黒い毛並みが風に揺れ、俺の血で濡れた牙が彼の唇から覗いている。 彼は天を仰いで、遠吠えをした。 オォォ……ォォォン 世界の端まで届きそうな、雄々しい雄叫び。 支配者(アルファ)に組み敷かれる喜びに打ち震えて、俺も声をあげた。 人の言葉など捨てて、獣の咆哮を。 ※※※※※ 私は選択を間違えた。 あれから、二十年も経つ。 息子が目の前で黒い獣に連れさらわれ、国が滅んだあの日から。 森が焼けた後、空から灰が降ってきた。それは国中に広がって、雪のように降り積もった。 その灰は強い毒を含んでいて、灰を吸い込んだ多くの人々が肺や気管支の病気で死んだ。 土壌は汚染されて、人間が住める土地ではなくなってしまった。 難民として隣国に保護された私達は、かつての地位も名誉も失われ、最下層の労働者階級としてではあるが、細々と平和に暮らしている。 私は、選択を間違えた。 森を焼き線路を作ることが、国がより栄える方法だと思ったのだ。あるいは、息子が妄執するルプゼノビスがいるというあの地が疎ましかっただけなのかもしれないが。 結局、息子は消え、かつて私の故郷だった地は全て……毒の森に変わった。 灰が届いた範囲には、毒のある草木しか生えなくなり、いつのまにか森になっていた。 天罰だったのだと、みな口を揃えて言う。 ルプゼノビスは人間に天罰を与える存在だ。その住処を焼こうとしたから、天罰が下ったのだと。 だが、私は違うことを知っている。 幼い息子にあの図鑑を与えた日から、こうなることが決まってしまっていたのだ。 私が選択を間違えたあの瞬間から。 だから、これは、私の罪なのだ。 毒の森のそばでは、時折ルプゼノビス達が見かけられる。 その中に、毛皮に覆われた獣ではなく、人の姿をしたものもいるそうだが……それが息子なのか、違うなにかなのか。それを確かめる術すら、もうない。 ただ、あの日炎から逃げながら聞いた──息子の獣のような遠吠えだけが、あの幸せそうな声が。 私の耳にこびりついて離れないのだ。

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