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はじまりの男
あの古ぼけた革鞄の中には、男物の服と十字架。聖典。日用品。そして、使い込まれた手帳が出てきた。
手帳はところどころ虫に食われ、また、筆跡に随分と癖があり、判読するのに骨が折れた。
どうやら彼は俺と同じような目的で、数十年前にここにやってきたようだった。
神罰の地上代行者。神の作り出したる獣。それがルプゼノビス。
彼は聖職者だった。だから、ルプゼノビスに焦がれ、森へ足を踏み入れたらしい。
そして、俺と同じように、彼らに保護された。
『彼らは人のような言葉は話せず、狼の群と同じように仕草や鳴き声や表情、匂いで意思疎通を図る。しかし、教えれば手話を理解する者もいた』
『三十人ほどの群を、数人の支配階級で統治していた。被支配階級の中でも序列はあるようだが、数人の特に序列が低いものがいるようだった』
それは、狼の群れと同じ構造だ。
アルファと呼ばれる序列の高い優秀な狼達が、ベータと呼ばれるその他の狼を率いている。そして、もっとも序列が低いものはオメガと呼ばれる。
『支配階級 達は、最下位 のルプゼノビス達には肉を与えず、不思議な果物だけを食べさせていた。手話で理由を聞けば、子を産ませるためだと答えた。神が彼らに与えた木の実で、ルプゼノビスの集落には必ずあるのだと。オメガの木と、そう呼ばれているそうだ。この実しか食べないものは、子を産めるようになるらしい。ルプゼノビス達には見たところ男しかいないが、実を食べることで体に変化が起こるようだ』
喉の渇きを覚え、俺はあの赤い実を手に取りかぶりつく。
この石窟に連れ込まれ、一週間。俺は、この果物しか口にしていなかった。
肉も野菜も穀物も食わずに果物だけなんて体を壊しそうなものだが、むしろ調子はいい。
その不思議な果物とは、この甘い実のことだろうか?
『果物を食わされ、子を産む役にさせられるのは、最下位階級 のみのようだったが、そのかわり彼らは群れの支配者 たちに寵愛される機会を得た。それもまた、その他のものたちを攻撃的にさせる理由の一つとなっているようだった』
『彼らは非常に長命で、そのため繁殖に関してはとても慎重だった。支配者 のみが番を持つことができる。最下位階級 の中から番は選ばれた。一夫一妻制で、一生添い遂げるそうだ。そして、必要な時に繁殖をする。誰にも選ばれなかった最下位階級 は、その他のものたちの慰みものになることもあるそうだが、妊娠には至らないようだった』
なんと興味深い手記なのだろうか。
俺が知りたかったことが、ルプゼノビスの生態が、ここには詰まっていた。
しかし、次第に様子が変わってくる。
『私にも、果物が与えられるようになった。黒い毛並みの若いルプゼノビスが、私を気に入ったようだった』
ちくりとした痛みを胸に覚えて、隣で眠るルプゼノビスへ視線を移す。
あれから彼は、頻繁に俺を抱いた。
夜明けと同時に出かけて、昼に果物を持って帰って俺を抱き、また出かけて日暮れに戻ってきてまた俺を抱く。毎日、同じことの繰り返しだった。
この一週間で、俺は周囲を散策して、三種類の新種の高山昆虫を見つけた。
彼は毎日、どこで何をしているのか。全くわからない。
『群れは怒っている。私を殺そうとする』
『彼は次代の群れの長となる男だった。私は、群れの中の調和を乱したのだ』
『私は選択しなければならない』
その言葉が記された項 のあとは、しばらく空白が続いた。
そして、最後の項 。
『私は選択を間違えた』
『殺し合いが起きた。みんな、死んだ』
『彼もたくさん殺す羽目になった』
『さようなら、私の、美しい神の獣』
『信仰より貴方を選んでごめんなさい』
『許されるならば。次に生まれ変わるなら、貴方と同じものになりたい』
血の指跡を残したその項 には、彼の遺言が書かれていた。
何が起こったのかはわからないが、ただ……この手帳の持ち主をきっかけにした悲劇が、この集落を無人のものに変えてしまったのでは。そんな、悲しい想像をしてしまう。
そしておそらく、それは事実なのだ。
「なあ。これは、お前の事なのか?」
そう声をかけても、返事はない。黒い耳がピクピクと揺れただけだった。
無防備に熟睡している姿が、愛おしく思える。そっと肩を撫でて、柔らかな毛並みを堪能した。
胸が、焼けそうに熱い。吐き出す呼吸が、震えている。
誰かが、俺の前に……彼に抱かれて、こうして毛並みを撫でていたのだろうと思うと、息ができなくなりそうだ。
なんて、馬鹿な考えなんだろう。
毎日抱かれているから、勘違いをしたのだ。馬鹿な思い違いを。
俺は手帳を閉じると、ルプゼノビスの黒い胸に顔を埋めて目を閉じた。
すると、彼の熱い手が、俺の頭を優しく包み込む。ふかふかとした、柔らかな毛並み。嗅ぎなれた、獣の匂い。
どうしてこんなにも、心地よいのだろうか。
いつか俺も選択しなくてはならない。それはわかっている。だが今は、もう少し彼に溺れていたかった。
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