1 / 3

第1話

 少し伸びた髪を撫で付け、掻いては撫で付け、白衣の青年は頭を抱えていた。デスクには様々な機械の設計図が並んでいる。そのうち1枚の紙を手にし、神経質に寄った眉の下の切れ長の瞳が目の前の大きな繭型の機械と紙面との間を往復している。湯気を上げるその機械にある窓から蛍光グリーンが射し込み、暗い室内をぼんやりと照らしている。中ではごぽぽ…と栄養ドリンクによく似た色味の液体が気泡を上げている。白衣の青年は顔を上げた。彼には期待していない変化だった。髪を掻き乱し顔を顰めていた白衣の青年は、眩しいほどの明るい窓へ注目する。繭型の機械は大きく歪んだ。内部から物凄い力で殴られたような圧がかかり、複数の場所が大きく突起する。そして別の箇所が凹んだ。繭の形状は見る影もなくなった。内部の液体が抜け、蛍光色は消えてゆく。大きな湯気を上げ、大きく凹んだ鉄板の扉が、白衣の青年の意思に反して開いてしまった。ひとつの照明代わりを失った暗い室内は他の機械の小さな明かりたちで薄らと内装を浮かび上がらせる。湯気の中から毛だらけの足が現れる。  熱風に包まれながら目が開く。視界が拓けのとほぼ同時だった。小麦色の毛が揺れている。目に痛いほどの不自然な色をした液体が無機質な床に広がっていた。足を踏み出すと、足裏の触れる熱さに跳び上がった。 「()っち」  細かく艶やかな毛に覆われた足を持ち上げ跳ね、液体の池を出る。体毛の水気を払うため頭を勢いよく振り、大きく溜息を吐いていると口をぽかんと開けた青年が脇で突っ立っていた。毛先が肩につくくらいの少し伸び放した色素の薄い髪色で、知的な印象のある美しい顔立ちをしていた。見覚えがある。 「ね!ね!誰?助けてくれてありがと!」  人の形を模した獣は呆然としている白衣の青年へ飛び付いた。記憶の限り、薄明りのコンクリート打ちに狭く仕切られた柵の向こうから現れたのがこの青年だ。その光景が何なのか、今ならばすっと理解できた。 「ね!オレね!オレね…オレ…?なんだっけ…」  獣とも人とも判断のつかない生命体は濡れた目を伏せる。 「あぁ、そうだ!お散歩」  白衣の青年に抱き付いたまま叫んだ。丸く巻かれた尾が激しく左右に揺れた。 「…お前は…?」 「お前?オレ?オレねぇ…オレ?オレって誰?」 「…ミルフィ、じゃ…ないんですか…?」 「お前?オレ、ミルフィ?」  白衣の青年の視線が獣人の身体を眺めた。長く柔らかな毛に覆われてはいるものの下半身にぶら下がる性器に目を止めた途端、顔を背けてしまう。 「散歩行くんじゃないの」 「行きません」 「…行きません?あれだな、新しいご主人様?」  ミルフィというらしき人の形をした獣は耳をぴんぴんと揺らした。 「間違っても御主人ではありません」 「うん…?そうなの?」  ミルフィは二足歩行に疲れたのか前足を下ろし、四つ這いで青年の足元に擦り寄った。だが「よせ」と彼は言い、毛だらけの腋へ両手を入れ、立ち上がらせる。 「疲れちゃった…」 「すぐに慣れますよ」  頭を抱え、ミルフィに背を向けると白衣の青年は暗がりへ進んでいく。 「ねぇ…えっと、何人(なにじん)様?」  耳がぴくぴくと動いた。 「ティランです。ここの研究室を任されています」 「分かった。じゃあ散歩!」  モニターの青白い光がティランと名乗った青年を病的に照らし出した。彼はいくつも並ぶそれらを眺めていたが、ミルフィはお構いなしに叫ぶ。 「散歩には行きません。分かりましたね。どうしてもというのなら…いや…お待ちください」  ティランは何やらぼそぼそ独り言ち、ミルフィの目の前へ寄ってきた。資料を眺めては観察している。穴の開くほど視線が彷徨う。 「何、なに?」 「そのうち色々と分かると思います。今は少し、まだ安定していないようですので。その散歩に行きたくなる欲求もいずれ治まるでしょう」  ティランはミルフィの身体を触りながらそう説明した。彼から微かな甘い香りが漂ったため、鼻を近付ける。毛に覆われているが厚く筋肉ののった胸板をヒステリックなまでの力で押し返された。 「なんですか」  少し怒っているようで、ミルフィは首を傾げた。 「いい匂いしたんだもん」 「気の所為でしょう…」 「うん、散歩の匂いだと思うな」  ミルフィは笑った。ティランはまだ怒っているようで睨むような眼差しをくれた。  ティランはミルフィに研究所内にある寝泊まりする部屋を与えた。ベッドはひとつしかなかったがあまり使われている形跡がない。室内に掛けられた服をもらったが、体毛が擦れてあまり好ましくなかった。ティランが着るように怒るため仕方なく狭い布の中に身を置いている。彼は適当に案内を終えると専用の研究室に戻ってしまった。捨てられる間際だった自身を救ってくれた恩人の、短時間で覚えた匂いの中に、やはり少し違った甘い香りが混じっている。何か煽られているような、得体の知れない何かを急かす気分にさせた。部屋奥のベッドの脇にある机には大量のサプリメントと思しき錠剤の瓶や袋があった。とにかく殺風景な部屋で部屋を囲うように衣類が掛けてある以外は何もない。特にやることもなくティランに遊んでほしくなってすぐ隣にある研究室へ行った。彼は壊れた機械の前に立ってぼうっとしていた。 「何してんの」 「…部屋にいなさいと言ったでしょう」 「うん…でも暇ぁ」  ティランはうんざりした様子を隠さなかった。 「少し1人にしておいてはくれませんか」  溜息を吐く姿はただならない落胆を示し、ミルフィは立ち尽くしたままでどうしていいのか分からなかった。 「あなたがここにいたいというなら、私が出ていきます。あまり周りの物をいじらないでくださいね」  刺々しく彼はそう言って白衣を翻す。微かな甘い香りが残っていく。彼が放つものだとは分かるのだが、取って付けたような違和感を覚える、彼自身ではない匂い。研究室の自動ドアが横へ素早くスライドする音がしたが、ティランのものではなかった。足音が複数あり、近付いている。 ――よぉ、ティランせんせ。研究は進んでる?おっ。  軽薄そうな男と眼鏡の女だった。2人とも白衣を羽織り、胸元に名札を下げていた。ティランは足を止め、わずかにミルフィを振り返ろうとしたが躊躇して2人へ向き合う。軽薄そうな男はティランへ迫りながら挑発するように頬を撫で、あらゆる方向から眺めている最中にミルフィを見つける。にやついた笑みを浮かべた。眼鏡の女は控えめな態度ではあったが、白衣の男が空けた距離を一気に縮めた。ティランはわずかに後退っている。 ――ティランさん、考えてくださってますか?ただ私、お嫁さんには家庭に入ってほしいんですよぉ。でも後悔はさせませんし幸せな仮定を築いていく自信はあるんです。色好い返事はもらえませんかね?  聞き取りづらい早口で眼鏡の女は捲し立てる。その間にも軽薄そうな男はミルフィに近付いていた。 ――へぇ、これが…の?なんつーか、よくやるねぇ?早ぇとこ、自分の立場(わきま)えとけよ?  軽薄そうな男はミルフィを指差し、眼鏡の女の独り話に付き合わされているティランへ首を曲げた。ティランとは違う眼差しにミルフィは顔を顰めた。男は、よく出来てんなぁと言った。 「ティリーいこ。ここ、やだ」  軽薄げな男から逃げるように、まだ眼鏡の女に一言も返せずにいるティランの手を取って研究室を出る。彼は抵抗をみせたがさらに上回る力で引っ張ると従わざるを得なかった。揃いの白衣の2人へ何か挨拶らしきことをしているのも気に入らなかった。 「なんなんですかっ」 「あの人たち、ヤダ。なんで何も言い返さないの?」 「ヤダとかイイとかじゃないんです。私の上司なんですよ」 「あの人たちが?」  ミルフィが力を緩めると、ティランは手を振り解いた。 「ここでは…色々あるんですよ」 「色々?」  ティランはミルフィを一瞥した。だがその目は伏せってしまう。長い睫毛が上がるのを待っていた。 「…そうです。だから私の指示に従ってくださいね」 「どこ行くの」 「…私の部屋です。あなたにはさっき案内したでしょう」 「うん」  ティランは微かな甘い香りを残して去っていく。    深夜になって、研究室のほうから声がした。啜り泣くような物音でミルフィは起きた。ティランから与えられた寝間着は体毛を押さえ付けごわごわしたがサイズはぴったりで少しティランの香りも混じっていた。自動ドアが軽快な音をたてスライドし、時間帯的には夜中だというのにまだ明るい廊下を少し歩いてティランのもとへ向かう。そこもまた時間問わず薄暗かった。彼はうっうっと青白く浮かぶ姿を震わせ散らかったデスクに突っ伏していた。 「ティリー?」  空調の運転が切り替わり、場に低く響くリズムが一定になった。 「…まだ寝ていなかったんですか」  鼻を鳴らして肩越しに振り向いた。眼鏡が反射しよく見えなかった。 「泣いてんの」 「いいえ…」 「あの人たちにいじめられたの」 「違います」  ティランは眼鏡を外してから目元を雑に拭った。 「ティリー?」 「早く寝たらどうですか」  デスクに散らかった設計図を整え、何度も机面に紙束を叩きつけ威嚇しているようだった。 「うん…そうする…」  ティランを怒らせたいわけではなかったため、腑に落ちはしなかったが了承した。まだ既に整っているだろうにティランはまだ紙束を叩きつけていた。彼は何か思い詰めていた。自分の事かもしれない。ミルフィは両手で頭を抱えた。天井へ伸びていた耳を保っている気力が湧かずに床と平行になった。実験を失敗してしまったのだ。何を作るかは分からないが、きっとそうに違いなかった。でなければ落ち込まない。自分のせいだ!ミルフィは戻った先のベッドでばたばたと暴れた。ティランは泣くほど悔しいのだ。それがミルフィも悔しくてならなかった。ベッドが軋むたび毛が舞う。そのうち眠ったが、長くは続かなかった。弱いものの確かに漂う甘い香りと物音に目が覚めてしまった。闇夜に浮かぶ人影は白衣を身に纏ってはいなかった。ミルフィは目だけ開けて暫く様子を窺っていた。人影は何をするでもなく室内に立ち、辺りを探っていた。それからミルフィの寝るベッドの脇に屈んだ。毛の感触が嫌で放置していた掛布を掛けられる。甘い香りが強まる。ミルフィは下半身を巡る悪寒と、動悸に落ち着いていられなくなり、寝返りをうった。衣擦れの音がする。ベッドがわずかに揺れた。新たな重みによって。甘い香りが近付く。くらくらした。耳鳴りに似た目眩に襲われる。荒い息遣いが聞こえた。 「ティリー?」  大きな物音を立て、体温が離れる。どこか身体を打ったらしかった。 「……起きていたんですか」 「今起きたところ。ティリーは?寝られないの?」  返事はない。黙ったまま部屋を出ようとする。ミルフィが上体を起こすと彼は振り返った。 「もしかしてここで寝るつもりだった?っつーかティリーどこで寝るの?」 「…どこだっていいでしょう」 「これから寝るんだろ?」  ミルフィはベッドの壁際に寄った。空いたスペースを叩く。 「ここで寝ればいいじゃん」 「あなたとは嫌です」  ぴしゃりと言われ、ティランは出て行ってしまう。スライドドアが、明るい廊下に姿をはっきりと浮かんだ後姿を消した。何か怒っているような響きが残っていた。期待に添えた結果ではなかったからだ。瞬時に察した。だから怒っているのだ。謝らなければと思った。まだ追い付くはずだった。悪臭ではないはずだというのに気分の悪くなる淡い香りを辿る。カーブした長い廊下だった。勢いのまま前足を着きそうになったが違和感がそれを阻んだ。白衣の人々が何人か深夜帯にもかかわらず忙しそうにバインダーを持ったり資料の入った袋を下げていた。香りの軌跡はすぐ近くでミルフィが案内された部屋のドアより少し大きく思えた。観葉植物が目印で、ネームプレートを差し込む口があったが外されていた。そこから確かに泣くような呻くような声が漏れていた。声は2つ。感知式のノブに手を翳す。スライドドアが開いた。拍手に似た音に包まれる。広い部屋だった。二段構造になり、壁中が本棚で移動式の梯子が二階から掛けられている。そのティランは入って右側の奥まったベッドの上にいた。シーツの上には何着もの衣服が散乱し、靴下の片方が落ちていた。ティランはそこにいた。さらに上半身裸の男がその上で馬乗りになってミルフィのほうを見ていた。 「何してんだよ!」  瞬間的に燃え上がった。頭が真っ白になり、ティランを押し潰さんばかりの上半身裸の男へ駆け寄り、殴った。視界に入った自身の短な体毛に覆われた腕に驚く。しかし考える余裕はなかった。ティランを助け起こすことが次の優先事項だった。 「ティリー」  なめらかな素肌を晒した姿にふわっとした熱風が体内に吹いた。目を見開いてミルフィを向くティランは、はっとしてベッドの下で痛がる男を気にした。大丈夫ですか、怪我はしていませんか、と血相を変え、すっかりミルフィのことなど忘れているようだった。 「ティリー…?」 「部屋に戻っていてください!」  叱られる。ティラン自身もどこか余裕がなかった。ミルフィはしどろもどろになりながら理由を話そうとする。 「三度目はありません。部屋に戻っていてください。後ほど伺います」  強い口調で言われると従うほかなかった。耳がぺたりと下がった。ばつの悪そうな顔が逸らされる。 「ごめん」  謝って部屋を出る。ボトムスをずり下げて露出していた尻尾がへたる。耳や尻尾は気力が尽きてへたる。失敗作として生まれただけでなく、命の恩人を怒らせてしまったのだ。隣の檻のいた同類(なかま)たちのように帰ってこられなくなるのだ。あれはガス室という場所に送られ、眠るように死んでいくという噂なのだと今ならば理解できた。ティランが来たらきちんと謝らなければならない。ふと頭を過った隣や同室の奴等。幼少期から放置されたせいで縄の食い込んだヤツ、興奮の末に人を食い千切ったヤツ、病で端麗さを失ったヤツ、色々いた。今なら分かる。奴等は己の行く末を知ってはいなかった。落ち込みながら与えられた部屋に入る。ベッドへダイブし、頭を抱えた。ティランは怒らせると長いのだ。どうやって機嫌を取っていただろう。怒らせると長いのではない。感情的に怒った後にそれ気にして距離を置こうとするのだ。かといって見え透いた機嫌取りはさらに損ねるだけだった。それとなく。思考を巡らせ、ふと至った妙な感覚に気付いた。犬舎の光景とティランを前にワイングラスを傾ける光景が綯い交ぜになる。彼の照れた顔を知っている。しかし実際見たことはない。短い眠りの中で作られたもの以外になかった。慌ただしさに戸惑い、悶々とベッドの上を転がった。仰向けになった時の尻尾の痛みに慣れない。衣服のごわつきは何故だ。そもそも服など着ていたか。着ていなかった。犬舎ではみな裸だった。しかし派手なフリルを身に付けた毛並みのいい犬もいた。しかしそれは青々と芝の生い茂る広場だったはずだ。その鮮やかなショッキングピンクと芝生のコントラストが印象的でよく覚えているのだから。短時間にみた夢幻に翻弄された。暫く痛むほど働いた頭を御せずにいるとドアが俊敏に開いた。ダウンライトが灯った。ふわりと漂う甘い香りにキンキンとした頭がさらに疼く。 「寝ましたか」 「あっ、ティリー!ごめんなさい!ごめん、ティリー。許して」  両手を合わせて、自身の掌の弾力にびっくりした。薄明かりの中でティランはミルフィをじっと見ていた。 「一体どうしてあんな真似を」 「分かんない」  選択を誤ったらしかった。不信感を露わにされる。ティランは顔に出るのだ。短かな夢では。 「分からないって…あなた…」 「だって…だって…ティリー、いじめられてるの?」  そうだ。ティランは紙束を投げ付けられたりしていたではないか。論文や設計図が舞う中で呆然と立つ姿を見たではないか。そして周りの輩に笑われ、いつでもひとり、機械の整備をしていたはずだ。しかしこれも。 「あなたには関係のないことです」  関係ない。何度も言われた。何度も言われ、やっと関係したはずだ。段々と夢にも記憶にも自信がなくなる。 「関係…ないのかな?オレ、ティリーに関係、ない?」  ティランのほうが傷付いた顔をする。目が合うと逸らされ、泳いだ。前に立ってすらいたくないと言われているような避けられ方だった。 「ティリー、ちゃんと成功出来なくてごめんね。失敗作でごめん。悪かったよ。許して」  口を開くだけティランは沈んでいく。美しい眉が歪み、唇を噛むのだ。だがミルフィに残された道は謝ることだけだった。 「…あなたは私を恨まないんですか」 「どうして?なんでティリーを恨むんだ?オレに何かしたかよ?」  肩を震わせ絞り出さるた声。意味が分からなかった。彼の顔を覗き込もうとすると身を翻される。 「何でもありません。いいですか。どんなことがあっても、ここにいる人たちを殴ってはいけません。絶対ですよ。どうしてもというなら私にしてください。殴られても、です。私が代わりに受けますから」  内容の割りに卑屈なものはなかった。だがどこか諦めや虚しさが代わりにそこにある。 「なんで…?」 「なんでも、です。分かりましたね」 「…うん」  甘い香りに牽制される。あまり深く物事を考えられなくなった。 「おやすみなさい」 「…うん、おやすみ…」  ドアに消えていく。 ◇  話し声が聞こえ個室を出ると、部屋の真前にはティランがいた。早口の白衣の女に言い寄られて困惑していた。ドアの音にティランがミルフィを見たが、ミルフィは早口な女と目が合った。女は気まずそうな顔をする会釈して立ち去った。そのためティランに意識を戻すと、彼は小難しく眉間に皺を寄せていた。 「おはようございます。あなたに用があったんです。ちょうどよかった」 「うん、おはよう。オレに用?何なに?」  ティランが自分に用がある。それがひどく特別なことに思えた。前のめりになり、迅る気持ちを尻尾で解消していく。よく聞こえるように、彼の息遣いまで拾えるようにと耳をぴんと立てた。明るく楽しく、嬉しいことだと決めてかかっていたがティランの表情は重苦しくなかなか口を開こうとはしない。 「ティリー?」 「……元の姿に戻りたいでしょう?」  下手な笑いを浮かべ、ティランは問うた。この人は作り笑いがとにかく下手だ。手料理を食べさせた時にもこのように笑い、美味いと言った。短く深い眠りの中でみた夢の話に違いなかった。 「ティリー?」 「かわいい仔犬の姿に…」 「ティリー、さっきの人にいじめられたのか?」  強張っている顔に手を伸ばす。しかし触れた瞬間に(はた)き落とされた。 「…よしてください」  少し黙ってからすまなそうに謝られる。被害者であるはずの彼を加害者にしてしまったことがミルフィの胸の内を苛む。 「ごめん。爪とか危ないもんな」  丸い指から鋭い爪が伸びている。自らの意思で収納は出来たし、力まなければ指の間や毛に埋もれてしまう。だが相手にそのような都合は伝わらないのだ。 「いいえ。叩くのは、やり過ぎでした…こちらこそ、すみません」  この人は謝られることに弱いのだ。大きな遅刻をして迷惑をかけた時に泣いて謝ると彼もまた泣きそうな顔をしていた。これもおそらく夢だろう。 「ティリーはオレが仔犬のほうがいい?」 「私の意見はどうだっていいんです。あなたの意見を聞いているんです」  狼狽えていた。ただ意見を聞くだけだというのに。普段の彼はもっとはきはきしていた。普段の彼などミルフィは知らないが、知った気になっていた。 「オレは、ティリーの好きなほうがいい…」  俯きがちな彼は、来てくださいと小さく言った。腕を掴まれティランの研究室へ連れて行かれる。相変わらず夜のように暗い室内に足音が響いた。大破した機械は囲いが作られていた。照明器具にするには頼りない機材の光も届かない暗がりにある奥に重厚な扉があった。朱色の塗装が剥げかけている。真上から少し強いが小さなライトでその扉だけが浮いて見えた。腕を掴んだまま片手で重い扉を開けようとするため、ミルフィも手伝った。思ったよりも軽かった。 「初めての協同作業」  頭に浮かんだフレーズを考えなしに口にした。反射のように素速くティランの目に捉えられる。眼鏡が照り、びっくりして仰け反った。 「ミルフィ…あなたは…」  歪んだ表情には悪い予感しかしなかった。何か大きな罵倒や揶揄の意味合いがあったのかも知れない。 「ご、ごめん!よく意味も知らずに言っちゃって…」 「…そうですか」 反応は意外にも冷めていた。しかしまだ悲痛な面持ちは保たれたままで、眉間の皺を取ることはあまりにも難しかった。重い扉の奥はコンクリート打ちで黴臭かった。大きな装置が様々に並び、それらを間を通って奥へ入っていく。小さな窓の付いた装置の前で止まった。 「仔犬の姿に戻ったら、まずは何がしたいですか」  ミルフィはきょろきょろと辺りを見回した。不安を覚えさせるデザインのロゴマークが機械の近くに大きく貼られていた。この中から鉄板の上でぐったりした猫や犬、うさぎや猿が出てくる。中に入れるものの大きさによって底部と天井部が調節されるのだった。ティランを確かめる。ぼうっと装置を見ているだけだった。 「ティリー」 白衣の肩が大袈裟に跳ねた。 「はい…?」」 「…仔犬に戻ったら、抱っこしてほしい」 「はい…」  ミルフィは自ら装置の取っ手に手を掛けた。丸い指ではやりづらかった。四指で内側から上部にあるスイッチを押しながらでないと開かない仕組みになっている。 「ミルフィ」 「仔犬になったら可愛がってね。きっとオレから何も言えないから」  内部は金属でできている。隅は変色していた。煤けてもいた。両端にいくつも穴が空いている。スピーカーのようでもあったし排気口にも似ていた。決して小さい装置ではなかったが、ミルフィが入るには腰を屈めるか、背を丸める必要があったため測定器になっている底部へ座った。内側からは閉められず、少し待っていると扉が閉まり、暗くなった。生々しい光が窓から射し込んでいた。その窓も薄汚れていた。それから思い出す。この窓の中からみた様々な被験体を。体内を薬液汚染された犬や猫たちが窓から外を見ているのだ。初めて彼と話したのは、この毒ガスのスイッチが入れられなかった姿を見た時だった。同時に押そうと発案した。涙ながらに押した彼が痛ましかった。この機械はガス室だった。膝を着いて窓の外を見る。スイッチの前に佇み、両手で顔を覆うティランが見えた。長く見ているのはつらくなり、膝を抱えた。体毛に顔を埋める。他人事のように、彼との初めての共同作業は助手になった時の研究ではなかった。いつの話なのか思い出せない。これもおそらく夢の話だった。無音だった。己の息遣いと耳鳴り、治まればホワイトノイズに支配される。いつまで経っても毒ガスは流れてこない。機械の運転音も聞こえない。だが扉がドン、と鈍くなった。窓の外の光が動く。頑丈な装置がきしきしと鳴いた。地震だろうかと窓の外を見る。窓に腕が付いている。ティランの手だとなんとなく思った。感触も温度も覚えている。何度も重ね合った。深爪気味な指の加減も。掌の肉感が強化ガラスに潰れる。堅牢な装甲が小さく軋む。目を見開いた。爪がガラスを引っ掻いた。声はない。曇った微かな金属同士の摩擦しか聞こえなかった。角度を変えるとティランではない男がいた。昨晩殴った男だった。窓の中からの視線に気付いたらしかった。掌が剥がれていく。窓からよく見えるマニュアルや資料が保管されたデスクへ移動し、ティランはその上へ突っ伏される。スラックスを下げられ、素肌を晒され脚が縺れまるで投げ飛ばされたみたいだった。男の下半身がティランの臀部に密着し、激しく前後に揺れた。ティランは背を反らし、上体を懸命に起こそうとしていた。捲られた白衣が揺れる。男と目が合う。陰湿な笑みが浮かび、その口元が何か言った。ティランは首を振る。男の手がコンクリート打ちの柱に付けられた毒ガスのスイッチへ伸びる。何が起きたのかは分からなかったが、男の様子からティランが何か言ったらしかった。男はティランから離れ、するとぶるりと現れた赤黒い屹立が濡れて光っていた。ティランは肩を荒々しく掴まれ、向かい合わされるとデスクに乗せられた。白くしなやかな脚が伸びていく。スラックスと下着が汚れたコンクリートへ落ちる。繋がれた両手が仲睦まじい関係を思わせる。心臓が激しくなった。暑くなる。汗ばんだ。 『いやっ…やめてッぁぁあ!』  彼は常に周りから見下されていた。それが何故だか分からなかった。学力も教養も機材の取り扱いも舌を巻くほどだった。だが上司はそれを認めはしなかった。助手にしたいと申し出たとき、周囲から反対されもした。あれはそういうのではないんだよ、と助言まで受けた。君の周りにはいないから、珍しいのかも分からんね。博士はそう言って笑った。 『あっ…いやっ、中はダメっ、おねがァっ!』  彼は淫売なのだそうだった。周期によって陰茎を求め狂い、周りを誘い込むのだという。だが勤勉で律儀な彼をそうは思えなかった。仮にそうであっても、研究に打ち込む姿は素直に認めざるを得なかった。私生活には興味がなかった。彼と生身で話し合うまでは。 『ティラン?なんなんだよこれ!説明しろ!』  初めて目にしたときは噂の破片を間に受け、ひどく傷付けたものだった。好き放題に身体を暴かれ、歯型や引っ掻き傷が残っていた。上司に抱かれ、今の地位に就いた卑しい出の者だという話が現実味を帯びて迫ってきた。 『あなたには関係…ありません…』 『あるだろ!あんたもうオレの助手なんだからな』  彼は泣いた。まるで知らない世界が広がっていた。発情期がある者はこうなる定めにあるという。どうにか薬で抑えても、限度があるのだという。一度知られてしまえば社会的に終わるらしい。身を捧げねば働く口もないと言った。それでも努力を重ね、研究所の所属まで上り詰めたところで与えられる仕事は身体の相手か雑用なのだと彼はすべての鬱憤を晴らすがごとく話した。進学にも就職にも一切困ったことはなかった。周囲の人々もそうだった。 『あなたに知られてしまっては…私はもう…』 『う~ん、でもあんたの姿勢にはオレも参ってんだよな。やりづれぇかもだけど、もうちょっと付き合ってくれねぇかな?』  初めて見た表情に驚いたのはよく覚えていた。

ともだちにシェアしよう!