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第2話

 激しい咳で目が覚めた。口元に付けられた器具を取り外す。飛び起きた。 「ティリー!」 「ミルフィ。ここにいます」  顔中に痣が散る痛々しい姿のティランがすぐに視界へ入ってきた。細い首には手形が浮かんでいる。びっくりして息を呑んだ。 「どうしたんだよ、その傷」  彼は質問には答えなかった。ふわりと甘い香りに包まれ目の前は薄暗くなる。 「ごめんなさい。ごめんなさい、ミルフィ」 「ティリー、つらかったろ」  震えた声が頭の上で聞こえた。薄い背中に手を回す。 「私は何も…あなたを殺そうとしたんですよ。責められたっておかしくないんです」  背中を摩った。初めて会った頃から痩せていた。 「そんなことはいいって。誰にやられた?」  やはりティランは答えなかった。もういいんです。小さく呟いた。彼はいつでもそうだった。相手を言わない。どれだけ散々に扱われようとも。 「あなたが生きていられたなら、それでいいんです…」 「ティリー?」  ゆっくりとティランを剥がす。潤んだ目と視線がかち合う。強気な態度に踏み込めば、彼は随分と繊細な男だった。知った時からもっと知りたいと思った。だが彼は腕からすり抜けていくみたいに下手な笑顔と優しい仕草で逃げ、惑わせるのだった。 「ティリー。オレはもうこんなだけど、まだ君のこと好き……でもいい?」  仔犬になど戻れない。プディングを卵と牛乳に戻せないように。気付いてしまった。小さな頃の試みが、こなしていった研究が、段々と証明になっていく。 「当たり前です。あなたこそ…」 「うん、大好きだよティリー。忘れてて、ごめんな」  最後まで言わせなかった。もう一度自分からティランを抱き締めた。点滴のチューブが引っ張られる。卑屈と自罰が身に染みている。その社会構造を変えたかったのだ。じわりじわり、埋もれていた記憶が現れていく。 「いいえ…嬉しいです。覚えていてくださって…恨まれたって仕方がないのに」 「恨むわけない。ありがとな。ちゃんとオレの遺言、守ってくれたんだな」  自身の言葉に思い出す。助手を務めていた研究室で起きた事故から助け出されたはいいが、搬送先で。助かったとしても。自ら無理だと悟ったのを覚えている。そして付き添う彼の手を握り、彼のことも考えず、譫言(うわごと)扱いされかねない計画を口走った。 「あなたにまた会えて、よかった」  彼は胸の中で泣いた。爪を噛み、ひとりで泣かない彼は少し幼く嗚咽する。  退院し、懐かしすら感じられる自室に帰る。ベッドには見慣れた私物が積まれていた。焦って赤面する彼を求めずにはいられなかった。散らかる寝間着や私服の上に押し倒し、キスする。しかし痛々しい痣や咬み傷が一線を守る。それがティランを不安にさせたらしかった。 「嫌、ですか」  彼は様々な人に抱かれた。のし上がるため、研究案を通すため、事を円滑に進めるため。ミルフィの知らないことだった。成果さえ出せば文句もなく手に入ることだった。それが彼だけは違った。発情し、血を流し、子を成す卑しい出だから。ただそのために。 「嫌じゃない。ただ、ティリーはいいのか」  彼からキスした。そしてミルフィの衣服に手を掛ける。ごわついた体毛が解放された。 「私はあなたに…」  ふわりと香った甘い香りにくらくらした。踊らされるように彼の肌を暴いていく。歯型と鬱血痕の散るなめらかな素肌を労わるように舐めた。時折彼の放つ鼻を刺すような甘い芳烈に噎せ返り、半狂乱になりながら抱いた日々が懐かしくなった。そのたびに彼は怒ることも拒むこともなく申し訳なさそうにしていた。あの頃に牙や爪がなくてよかった。 「あ…っ」  少し腫れた胸の突起を柔らかく指で撫で、毛先で焦らす。 「痛い?」 「きも、ちい…い…」  身を強張らせ、か細い声で言った。舌で周囲をなぞった。抓られでもしたのか肉粒は赤くなっていた。粘膜を焦らすと腰を捩った。わずかに膨らんだ下腹部を撫でた。 「んん…っ」  甘やかな声とともに肩が跳ねた。気難しく神経質なものとは違う皺が眉間に寄っている。火照り、染まる頬にキスする。肉球で彼の芯を確かめた。人とは少し違う指先では、簡単だった作業が上手くいかずに戸惑った。不安を浮かべた恋人に笑いかけ、キスして下半身へ顔をずらした。スラックスのホックやファスナーを両手でゆっくり外し、下ろしていく。 「怖い?」  ティランは手を伸ばした。ミルフィはその手に応えた。指が絡みそうで、変形した指では届かなかった。長く細い指に包まれる。柔らかなその感触にミルフィは涙が溢れそうになった。その表情を隠すように歯に挟んで下着を下ろす。ティランの茎が揺れた。牙を当てない自信がなかったため、舌を伸ばして根元から先端までを何度も舐め上げ、口先で辿った。 「あ…っ、んン、」  質量を増していく。手を包む彼の掌が震えて汗ばむ。 「ミルフィ…あなたは…っ?」  熱く息を吐きながら潤んだ目が訊ねた。毛だらけの己の局部をその口に入れることは躊躇われた。 「大丈夫」 「嫌です、ひとりだけ気持ちいいのは…」  ティランは起き上がった。ミルフィの前によろよろと近付き、下半身へ顔を埋める。 「ティリー…!」  期待と彼の姿に緩やかに反応しているそこを露わにされ、彼の薄い唇が触れた。ヒトとほぼ変わらない形ではあったが中間部に見知らない平たく潰れた瘤と似た隆起があった。 「…っ」  温かく湿った感覚が敏感な器官を覆う。痺れが広がり、力が抜けた。硬くなっていく茎を口に含み、喉奥まで咥えた。髪を耳にかける仕草にまたずくりと質量を増した。口腔が激しく動く。喉が締められる。数をこなすしかなかった彼の慣れた舌遣いに限界を悟る。ティランの頭部を押さえ、遠ざける。 「ティリーの中でイきたい…」  無防備に開いた口から大きくなった屹立が吐き出され、薄い唇から銀糸が揺らめいた。彼はベッドに俯せになると、腰を高く上げた。そしてシーツに散らばる恋人の寝間着へ顔を埋めた。 「ティリー。本物がここにいるよ」  わずかな不安が過った。だが口に出せなかった。彼はきっと気遣う。無愛想で警戒心の強いその奥は優しすぎた。不安になるほどに。覚え込まされたり妥協と諦めが滲み、それがミルフィを押し込めた。 「ミルフィ…来て、くれますか。もう一度、抱いてくれますか?」  彼は寝間着を胸に抱いた。過去の自分が突然憎くなる。彼を独占している過去の自分が。まるで違う存在みたいだった。 「うん。でも、オレを見て。お願い」  ティランの肌に触れる。痣の浮く丘を割り開いた。窄まりは腫れていた。 「あっ…ぁ、」  ひくついた蕾に口先を当てた。ひくりひくりと求ているようだった。舌で伸ばすように中心からなぞった。 「だ、め…汚い、から…」  他人のものが出入りした。その一点に限ってはそうだった。だが彼の耐えなければならなかった時間を考えれば比べるまでもないことだった。 「ティリー、好きだよ」  舌を尖らせ、蕊へ挿し込む。腰がかくんと下がったために支えた。 「はっぁんぁ、あぁ…ッ!」  皺まみれの紺色のシャツの上に白濁が噴いた。舌が輪状の筋肉に締められる。 「気持ちよかった?」  こくこくとティランの頭が恋人の積まれて散らかる衣類へ沈む。自身の指を見て、どうするか考えていた。 「ミルフィ」  蕩けた声に呼ばれる。 「何?」 「ください…」  不安を隠せない声音が消えていく。 「ティリー…」  自信がない。だが今は彼を愛したい。そのことに変わりはなかった。楔を蕾へ突き立てた。 「あっ、ああ…ッ」  彼の中に埋め込まれていく。収縮した内膜に目の前がちかちかした。溢れた激しく感情を留めておけなかった。 「好き、ティリー…好き…」  肩に残っている歯型や瘡蓋へ口付ける。ここにあった痕は自分のものだとばかりに執拗に舐め、甘く噛んだ。内壁へ擦り付ける。想い人の弱い場所を身体が覚えていた。激しくそこばかりを穿つ。 「あっ、あぁ…あ…っ」  がくがくと汗ばんだ身体が引き攣っていた。片腕で力強く抱き込み、もう片方の腕は、過去の男の残り香に縋る手へ重ねた。 「ティリー…っ」  止め処なく湧き出す慕情は息苦しさに似ていた。脳裏を駆け巡る彼との思い出は快感の裏で渦巻き、腹痛に近かった。 「あっ、ミ、ルフィ…っあ、んぁあ、!」 「好きだ、大好き…ティリー…」 「あっ…す、き…ミルフィっ!すき、あっあっあっあぁッ!」  片腕で押さえるのが難しいほどティランは暴れた。腰が自らミルフィを求め、悶える。泣き叫びながら喘ぎ、嬌声を上げる。 「かわいい…ティリー、愛してる」  耳元で低く囁いた。抱き締めた肉体が強く波打つ。 「あっああ!イく、イ、くンぁっあ、!」  内壁が痙攣し、奥へ奥へと引き絞られる。射精感が強まった。陰茎にあった瘤が膨らみ、動けなくなる。爆発的な絶頂にティランの四肢が伸びた。片腕に彼の身長や体格の割りには軽い体重がかかった。結合部が脈打ち、直腸へ精が送り込まれる。そのたびに彼は悦楽を覚えているらしく、身をのたうたせた。彼は妊娠する。だが彼との子を授からなかった。避妊薬を飲んでいたからだ。それは恋人との子を望んでいないからではなかったことも知っていた。  妊娠した。彼はそう告げた。彼は妊娠するのだ。見せられた妊娠検査薬は確かに陽性を示していた。それを告げただけで、それ以上のことをティランは何も言わなかった。ただ何か、言葉を待っているらしかった。凍り付いたような無表情が恐ろしかった。癖になっている眉間の皺もなかった。ここ数日、ミルフィはティランの研究室で機材をいじっていた。体毛をなるべく落とさないように手袋やマスクも付けていた。途切れた日常に戻った。そんなつもりでいた。だがその告白だけが違っていた。瞬くことすらしかできなかった。どれだけの研究成果を残せても、実力実績があろうとも、難無く数々の課題を解決しても、気の利いた言葉は浮かばなかった。 「少しだけ、休みます」  ミルフィからは何も言葉を得られないと察したらしい彼はぎこちない笑みを浮かべて研究室を出ていった。スライドドアの音に叱責されている気分になった。誰の子だろう。機材をいじった。背を押してやれなかった。所長の娘はティランを狙っていた。恋人関係を公表した後も彼女の眼光はティランを諦めてはいなかった。この前も求婚していた。力尽くで迫り肉体関係を結ぶ他の者とは違っていたが彼女ならばティランも断れなかった。実際押され気味ではなかったか。彼女の提示する条件はひどく彼には甘やかに響いただろう。だがそれでも苦難の道を選んだのだ。恋人が死ぬまでなら。ガス室の前で交わった男は。あの男はティランを時には雑用として、大概は都合のいい性欲処理として扱っていた。嫉妬深い羨望家であることも身を以って知っている。可能性のある男は沢山いる。どれだけの人々とどれだけまだ関係を持続しているのか把握出来ていなかった。頭に浮かんだ輩でない可能性も十分にあった。機材をいじっていく。薬液を中和していく機械の運転音が唸る。どいつもこいつも彼をいたぶり、どいつもこいつも彼を苦しめる。そしてそれがミルフィを苦しめる。作業が手につかなくなった。資料室へ場所を変え、膨大な量の文献を漁る。目を覆いたくなる内容ばかりだった。人間牧場を設け、そこに収容すべき人種。血を流す穢らわしい種族。断種し出産に専念させるのが文化の発展。知ろうとしなかった世界が古くもない紙面に広がっていた。作成者の私見だらけの参考にならない論文ばかりで研究所の落ちぶれぶりまで知ることになる。調べたいことはこんなことではなかった。彼はこういう世界で生きていた。どれだけ身体を重ね、想いを伝え、分かった気になり、理解した気になっても何かが隔てている。それに気付きもしなかった。鼻のずっと奥が沁みた。目の裏が炙られているみたいだった。資料を探していく。自由に使える検索エンジンの入ったコンピュータは手元になかった。まだ自由にキーボードを扱えた頃も、虚実錯綜した見出しに辟易したものだった。数時間、紙とインクの香りに包まれていた。そのうちぽたりと雫が落ちた。瞬くともう片方の目からぽたりと涙が滴る。目元を擦った。調べれば調べるだけ意に反していく。脳に叩き込まれていた知識や情報が危惧と煩慮(はんりょ)を確実なものにし、気休めや淡い期待を論破していく。資料ファイルを持っていられなかった。派手な音を立て、ミルフィは顔を覆った。凹凸さえも慣れた感触と違った。 ――妊娠したってことはよぉ、いくらヤっても俺の子は孕まねぇってことだよな。  過敏になった耳は都合の悪い声まで拾えた。最悪のタイミングだったのが、最良のタイミングだったのかは分からなかったがすでに遅いことだった。スライドドアが閉まる直前で実績問わず小さな個室に押し込められた健気な研究者へ、白衣を羽織った男は言い捨てた。反対側からやってくるミルフィに気付くとばつの悪そうな顔をし、肩をぶつけてすれ違った。バケモノめ。そう吐き捨てられる。あの男は特にティランの肉体にこだわった。怪我までしたため一度大喧嘩になり、数日謹慎になった。後にティランから苦言を呈され、口先だけの和解をしてスルーを決め込んでいた。  個室のスライドドアが開く。全裸に剥かれ、ベッドの上に横たわっているティランがすぐに目に入り、身体中の毛が逆立った。纏わりつくヒトのオスの精の匂いが充満していた。 「ティリー!」  すぐさま駆け寄った。口元には真新しい傷がある。片方が真っ赤に染まった虚ろな目が焦点を取り戻し、ミルフィを映した。精液があちこちに付き、抜けた髪が散っていた。今まで誰と身体を重ねてもここまで露骨な暴力はなかった。ティランが従順だったからだ。体格差や立場の危うさを知っていたからだ。権力差を身に染みて知っていたからだ。 「ミルフィ…っ」  涙を滲ませる。布団を彼に掛け、そして抱き締める。何故彼ばかりがこうなるのか。この身の変貌はそこにあった。 「ごめんなさい…」 「タオル持ってくる」 「待ってください。待ってください…ここにいて…」  手を掴まれる。 「うん。ここにいる」  殴られたらしい口元を舐めた。血の味がした。掴まれた手が彼の頬に当てられる。肉球が滑らかな肌に当たった。心地好さそうに長い睫毛が伏せる。 「あなたの手はいつでも温かいんですね」  微笑まれるとただ目を逸らすことしか出来なかった。守れなくてごめん。何度も言いかけ、結局謝るだけになることは分かりきっていた。それが虚しくなりいつでも呑み込んでしまう。だがもう我慢ならなかった。強く強く抱き締める。参考資料の忌々しい文字の羅列がすぐ傍にある。 「大好きだよ、ティリー。どんなことがあっても、ずっと」  これからはひとりで耐えなければならない。2人分の命を背負って。その子も可能性的には高くティランのような生活を余儀なくされるだろう。場合によっては。しかし。 「どうしよう、ミルフィ…この子を、どうしたら…っ」  背を鼓動に合わせて軽く叩いていると、彼は詰まりながら問うた。胸が張り裂けそうだった。その声にも、何と答えるのか分からない自身の不甲斐なさにも。不安を煽らせることを分かっていながら、押し黙り背中を叩くことしか出来なかった。弾き出された答えは残酷で、ティランを追い詰め傷付けるだけなのだ。突き離したいわけではないのだ。骨の浮く背中を撫で摩り、髪を梳く。 「落ち着いて、よく考えてからお互いに答えを出し合おう?」  彼は力無く頷いた。 ◇ ――アイツはお前みたいなバケモノ生かすためにヘコヘコ腰振ったんだよ!下等なやつは下等なやつなりにお前みたいな失敗作を守ってやったってわけだ!生産性がなくて、地獄みたいな図になってるわけかよ? ――奴等みたいな畜生の生活を支えているのが俺たちだってお前は犬になって分からなくなっちまったのか?いや、犬になる前からお前はあの肉便器に参ってたな。どうせ優越感にでも浸っていたんだろう、底辺と関わって?お前は誰より優秀だったからね。 ――貴方の目指す理想郷はご立派ですが、遺伝で決まっていることですよ。どれだけ平坦な扱いを社会が目指そうと、そこからまた格差が生まれてくるのは多くの遺伝的自然の摂理なんです。だから私も、結局功績が貴方と並んでいたって「所長の娘」止まりなんですよ。ああ、貴方があの人を譲ってくれたらなぁ。 ――生まれを省みろって。どうしてああいう下等な奴等に免税のうえ給付金があって、俺たちはバリバリ仕事してんのにかったるい課税なんてあんだ?奴等無能どもを養うためだろ?決められたとおりに人口増やしてりゃいいんだよ。そのうち鳶が孔雀を産むぜ? ――お前の唯一の失敗はあのつまらない男に免疫がなかったことだ。外に出て投網すりゃそれなりに捕まる。俺やお前みたいな優秀なやつが2割、バカな局長どもみたいな平凡な奴等が5割、あの男みたいな奴等が2割。あと1割はなんだと思う?無能の生まれを知った無能どもの自殺者数だよ。  毛が固まった。赤くこびり付き、ぼろぼろ落ちていく。これから想い人に触れるだろう手は汚れていた。己の無知を知る。表彰を全て突き返したくなるほどだった。カメラのフラッシュやマイクの前で深く謝罪したいくらいだった。知らなかったのは自分だけだった。何の権利もないまま彼等を殴り、痛め付けた。生まれに頼った肉体と腕力で。泣き叫びそうになりながら彼に会いに行く。  耳を掠めるスライドドアの音に覚悟が決まらなかった。ベッド以外は生前そのままの自室が敵意を向けているみたいな心地がした。彼が気を休めて本を読む姿が今ならば容易に思い描ける。あの日々に戻りたい半分、今生きている状態がおかしいことに気付く。首を曲げれば思い出ではない本物の想い人の姿が目に入った。予想に反し片付けられたベッドの上に座っている。落ち着いた優美な姿に再び彼に恋してしまいそうだった。 「ティリー」  自然と声音が優しくなった。不安に惑った目は何度かちらちらとミルフィを捉えては逸らされ、無機質な床を彷徨う。しかし腕を見られ、彼は腰を上げた。 「怪我したんですか」 「違う…汚いから触っちゃダメ」  手を握られそうになったため、払った。代わりに汚れの少ない片手を差し出す。ティランはまだ血のこびりついた腕を気にし、ミルフィの顔を見上げる。 「ミルフィ…?何かあったんですか」  首を振る。何もないよ。誤魔化せたのか分からない。 「でも…」 「ティリー、座ろう」  甘えた声で呼ぶと彼は引き下がる。肩を抱いてベッドへ促した。まだ外観から妊娠は分からなかったが、未知の不安があった。 「ミルフィ…」  何の話をしに来たのかは互いに分かっている。互いに分かっていることすらも、互いに知っている。それが尚、気拙くさせた。切り出し方が分からなかった。交際の申し込みをする時とまったく違う緊張感が伴った。 「結論から言って…」  自身から口を開き、息を呑む。結論から述べる癖があった。相手を焦らすのが好きではなかったから。しかし言葉を切ってしまい、結局焦らすことになる。言えなくなってしまった。決まった言葉を吐くだけだったが、どこか反対している胸中が阻害する。 「私から、言います。私は…、私はあなたの子でないなら…愛せる自信が、ありません…」  口をはくはくさせ話せなくなっているミルフィから発言権を引き取る。その気丈さが切なかった。つらくなる。情けなさにどうしようもなくなった。彼の強さに、何故人類は平伏さないのだろう。きっと短い残りの命では知り得ない。きっぱり言い切りはしているものの、その内容からか彼は辿々しかった。 「うん」 「誰の子なのかも…見当がつきません」 「うん」  目の前が明滅する。こんなに無力感に襲われたことがあっただろうか。ただ聞いていることを伝えることしか出来ない。 「ごめんなさい、ミルフィ…」 「どうしてティリーが謝るの」 「あなたを裏切って…あなたを弄んで、心配ばかりかけて、私は…っ」  はじめは淡々としていたが話しているうち彼の感情は起伏する。 「私は、どうして、どうやったってあなたに迷惑をかける!あなたを愛したって結局は…私はあなたに相応しくない。私とあなたの間にはもう覆せないほどの壁があるんです!」 「…ティリー…?」  同じことを思ったがおそらく意味合いは正反対だった。それを上手く伝えられなかった。ただ名を呼ぶことしかもう出来ずにいた。彼は激しく頭を振る。何も聞きたくないと言わんばかりに。現実を否定するように。 「オメガなんかに産まれたくなかった!」  時が止まる。両手で頭を抱え、ティランは(ふさ)いだ。沈黙が針となって身を苛む。まだその悲痛な叫びが室内に響いているような気がした。知らずにいた陰の悲鳴。ミルフィの世界には存在しなかった苦悩、否定、嫌悪。息遣いや鼓動まで聞こえるのではないかと思うほどの静寂。聴覚を失ったのかとすら思った。 「それが、答えだと思う」  全身を寒さが襲った。それが、答えだよ。もう一度言った。 「もしオレの子だったとしたら、今のこの姿のオレの子だよ。犬の遺伝子まで持ってる。どんな風になるかまるで、分からない」  自身の研究案のおぞましさを初めて知った。 「どんな容貌なのかも。どんな病気や障害を持ってるのか、それに現代科学がついていけてるのか、それも分からない。生きられるのかも、分からない」  彼は両手で顔面を覆う。手を伸ばしかけ、彼に触れる資格がないことを実感する。 「ティリーのさっきの言葉が、その答えだと思う」  それに。言うか迷えるだけ救いがあると思ったが、生憎なかった。 「オレの子じゃ、ないよ。だってこのカラダ…生殖能力、なかった、よ…」  最後まで言い切る前に瓦解する。涙が止まらなくなった。 「産まない、で…産まないで、ティリー。お願い、嫌だ…嫌だよティリー、産まないで…」  膝から力が抜けた。幼子のように泣き喚いて、精一杯な彼の膝に縋り付いた。 「お願い、嫌だよ…死んじゃうんだよ、ティリー!男性の出産死亡率は85%なんだよ、高過ぎるよティリー、お願い、産まないでよ…っ」  大声を上げて喚き散らした。膝へ縋る。まだ追い討ちをかけねばならないことがある。だが言えなかった。もう十分だった。彼の心身を嬲ることも、己を刺さねばならないことも。 「堕ろして…、堕ろして…子供に罪は無くても、きっとオレ、恨むから…お願いティリー…お願いぃ…」  沈黙はこれほど恐ろしいことだっただろうか。嘲り、蔑まれる生活で彼は何度こんな気持ちになったのだろう。 「ミルフィ……分かりました。そういうことなら」  見上げたティランは唇を噛み締めていた。涙が今にも滴りそうで、だが堪えていた。非力さを通り過ごすと開き直って現れる絶念に、告げねばならなくて告げられないことを口走りそうになった。だが直前で形が変わる。 「ねぇ、ティリー…死んじゃおうか、2人で」  長い睫毛が丸くなる。濡れて大きく光る瞳が何より美しく感じられた。心臓の音が激しかった。息遣いも尋常でなかった。おそらくほんの数秒だった。 「いいですね」  彼は笑った。柔らかに綻ぶ口元にまた恋に落ちてしまう。 「もう本当にオレだけを見て。オレだけ…オレのことだけ想って…オレのことだけ…」  彼は涎と鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった獣人の顔を掬い、キスしてまた微笑んだ。 ◇ 『犬に、してくれ…番犬になる、から…』  牙と爪を持てるから。 『仔犬が、いい…かわいがられたい』  弱ければ弱いほど、記憶を呑まれずに済む。 『お前を傷付けるもの全部から…』  守れるバケモノになりたかったよ。  機械をいじる。彼が小さなビニール袋を持ってやってきた。好きだったでしょう、プリン。彼は笑って皿にあける。好きってわけじゃないよ。決まってそう答え、じゃあ要りませんか、と彼は束の間の安息を見せ、そして向き合いプリンを食べる。結局卵と牛乳を別けられなかったよ、と何度も小さな頃の話をして彼は何十回、何百回と聞いた話を笑ってくれる。  初めての共同作業覚えてる?。ミルフィは呟いて散々いじり回した繭型の装置を開いた。覚えてますよ。答えに満足した。設計と構想に狂いはなかった。想い人は笑い、中へ入っていく。手を差し伸べられ、肉球が柔らかな手に乗った。扉が閉まった。2人並ぶと初心に惑う手を繋ぎ直される。少し広かった。もっと大きな怪物になるものだと思い、製図していた。そしておそらく、すぐには成功しないものだと思っていた。開口部の上内部にあるレバーへ手を掛けた。 「最期の共同作業、やってくれる?」  彼は笑って頷いた。毛だらけの手の上に薄い手が重なる。何度目かも分からず、また恋してしまう。目が合って、レバーが軋みながら落ちた。大地が軋み、小窓の奥が真っ赤に光った。残りわずかな寿命で足掻けたのはこれだけだった。ふわりと漂う甘い香りと、心地良い眠気に包まれる。おやすみ。彼の穏やかな口元がそう動いた。2人で夢をみにいく。

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