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右近衛中将の貞操 その1

 今宵は、満月。  燦々と眩いほどの月明りの中、青年は牛車で想い人の元に向かっていた。  恋文を届けること、1ヶ月。  ようやく、色よい返事を貰えたというのに、母親に引き止められ、すっかり夜が更けてしまった。  腹心の女房を裏口に待機させておくと言っていたが、果たして、こんな時間になっても待っていてくれるのだろうか? 「ご主人様、何やら怪しい気配がします。牛が怯えて動きません」 「餌でも与えて、動かすことは出来ないものか?」 「ダメです。ウンともスンともいいません」  牛車の牛を引く牛飼童が困り果てた声を出した。  青年は、牛車の側面に設置されている物見から、外を覗き見るが様子はわからない。  目的地は、もうすぐ。 「仕方がない。このまま歩きで向かうことにしよう」  青年は、牛車を降りた。  牛は、何故怯えていたのだろうか? 怪しい気配と言っていたが……。  ふと、見上げると、通りの向こうに白い人影が見える。  女のようで、顔を覆ってしゃがみこんでいる。  こんな夜更けに一体、何をやっているのだろう? 「これ、どうした?」 「ううっ、無念です」 女は上質の衣を身に付けている。 しかるべき身分の貴族であることが窺い知れる。 だが、様子がおかしい。 供もつけずに、姫が一人でいるなんて考えられないことだ。 青年は思わず、問いを繰り返す。 「どうしたのじゃ?」 「無念のあまり、あの世から戻ってきたのです。よよよ。この恨み、どうしましょう?」 「え?」 ぎゃーーーー  暗闇に、青年と牛飼童の絶叫が響き渡った。      ◇  ◆  ◇  時代は平安。場所は京の都。  溢れんばかりの美しい桜の花弁に縁取られた池のほとりで、帝は一人、溜め息をついていた。  こんなに綺麗な景色を見ても、ちっとも気持ちが晴れない。  憂鬱の原因は、自分でも自覚していた。  右近衛中将の蓮月が物忌みで参内していないからだ。  蓮月は、名門右大臣の一人息子。  二年前に元服したばかりなのに、すでに右近衛中将なのだから若い公達の中では異例の出世だ。  小柄だが華やかで愛らしい容姿。  弓を引かせれば右に出るものはなく、舞を踊れば白拍子も真っ青な男とは思えない見事な腕前。  蓮月がいるだけで、内裏は華やかに活気づき、帝もやる気に満ち溢れ、気持ちが自然と前向きになる。  そんな人は、都広しと言えども、蓮月ただひとりだけ。  蓮月は、帝の一番のお気に入りだった。 「左近衛中将が出仕されました」 「御前へ」  身の回りの世話をする使用人である女房の言葉に、帝は渋々返事をする。  愛すべき蓮月の代わりにはならないが、暇つぶしにはなるだろう。  この左近衛中将は、当代一の公達と言われ、蓮月のライバルと目されている人物だ。  実直で浮いた噂のない蓮月とは違い、あちらこちらで浮名を流す軟派な遊び人。  中納言の第一子で、母親は太皇太后の年の離れた姪という、こちらも蓮月に負けず名門の血筋だ。  左近衛中将は部屋に坐すなり、言葉を発した。 「主上? 昨夜、また三条の通りに物の怪が現れたのは、お聞きになられましたか?」  帝は、眉を顰めた。  ここのところ、女の姿をした物の怪が都の至る所で出没しているらしい。  悪い噂はすぐに広がるもので、宮中でもその話題で持ち切りで、女御やお付きの女房などはすっかり怯えていた。  しかし、現実主義者の帝は、訝しく思っていた。  人里離れた場所ならいざ知らず、こんな街の中心で物の怪が出没するなど全く怪しすぎる。    「報告は受けたが、真の物の怪だろうか? 悪戯の可能性は?」 「盗賊が世を騒がす目的で演じている可能性もあります。見回りの強化のご命令をたまわりたく参上いたしました」 「では、そちに任せる」 「恐れながら、右近衛中将にも任を命じて頂きたく存じます」 「右近衛中将もか?」 「私一人では、手に余りますので」  なぜ、そこで蓮月がでてくる?  帝は、左近衛中将に気付かれないように、顔色を変えずにうなった。  左近衛中将は、蓮月の親友気取りで、理由をつけては遊びに行き、そのまま泊ることも多いらしい。  いや、別に親友なら、よくあることだろう。  けれども……  知らず知らずのうちに、帝の眉間の皺が深くなる。  この左近衛中将。  帝には、蓮月を狙っている気がしてならないのだ。  蓮月を見るいやらしい目つき、明らかに多いボディータッチ。  前々から、気になっていた。  大体、左近衛中将は仕事よりプライベートを大事にする今どきの考え方の持ち主。  そんな人が自ら見回りを買ってでるのは甚だおかしい。  何か、裏があるに違いない。  この騒動にまぎれて、何か行動を起こす気か?  私の愛らしい蓮月の貞操が危ぶまれる……。  そんなことは、させるか!と気色ばんだ帝だったが、今は人の和を何よりも重んじる、平安の時代。  表立って、事を荒立てることはご法度だ。  全く気乗りがしないが、人前でここまではっきりと表明されてしまえば、帝と言えど無下にはできない。  帝は、なおも抵抗を試みた後、しぶしぶ、二人に物の怪退治を命じることにした。

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