1 / 9
右近衛中将の貞操 その1
今宵は、満月。
燦々と眩いほどの月明りの中、青年は牛車で想い人の元に向かっていた。
恋文を届けること、1ヶ月。
ようやく、色よい返事を貰えたというのに、母親に引き止められ、すっかり夜が更けてしまった。
腹心の女房を裏口に待機させておくと言っていたが、果たして、こんな時間になっても待っていてくれるのだろうか?
「ご主人様、何やら怪しい気配がします。牛が怯えて動きません」
「餌でも与えて、動かすことは出来ないものか?」
「ダメです。ウンともスンともいいません」
牛車の牛を引く牛飼童が困り果てた声を出した。
青年は、牛車の側面に設置されている物見から、外を覗き見るが様子はわからない。
目的地は、もうすぐ。
「仕方がない。このまま歩きで向かうことにしよう」
青年は、牛車を降りた。
牛は、何故怯えていたのだろうか? 怪しい気配と言っていたが……。
ふと、見上げると、通りの向こうに白い人影が見える。
女のようで、顔を覆ってしゃがみこんでいる。
こんな夜更けに一体、何をやっているのだろう?
「これ、どうした?」
「ううっ、無念です」
女は上質の衣を身に付けている。
しかるべき身分の貴族であることが窺い知れる。
だが、様子がおかしい。
供もつけずに、姫が一人でいるなんて考えられないことだ。
青年は思わず、問いを繰り返す。
「どうしたのじゃ?」
「無念のあまり、あの世から戻ってきたのです。よよよ。この恨み、どうしましょう?」
「え?」
ぎゃーーーー
暗闇に、青年と牛飼童の絶叫が響き渡った。
◇ ◆ ◇
時代は平安。場所は京の都。
溢れんばかりの美しい桜の花弁に縁取られた池のほとりで、帝は一人、溜め息をついていた。
こんなに綺麗な景色を見ても、ちっとも気持ちが晴れない。
憂鬱の原因は、自分でも自覚していた。
右近衛中将の蓮月が物忌みで参内していないからだ。
蓮月は、名門右大臣の一人息子。
二年前に元服したばかりなのに、すでに右近衛中将なのだから若い公達の中では異例の出世だ。
小柄だが華やかで愛らしい容姿。
弓を引かせれば右に出るものはなく、舞を踊れば白拍子も真っ青な男とは思えない見事な腕前。
蓮月がいるだけで、内裏は華やかに活気づき、帝もやる気に満ち溢れ、気持ちが自然と前向きになる。
そんな人は、都広しと言えども、蓮月ただひとりだけ。
蓮月は、帝の一番のお気に入りだった。
「左近衛中将が出仕されました」
「御前へ」
身の回りの世話をする使用人である女房の言葉に、帝は渋々返事をする。
愛すべき蓮月の代わりにはならないが、暇つぶしにはなるだろう。
この左近衛中将は、当代一の公達と言われ、蓮月のライバルと目されている人物だ。
実直で浮いた噂のない蓮月とは違い、あちらこちらで浮名を流す軟派な遊び人。
中納言の第一子で、母親は太皇太后の年の離れた姪という、こちらも蓮月に負けず名門の血筋だ。
左近衛中将は部屋に坐すなり、言葉を発した。
「主上? 昨夜、また三条の通りに物の怪が現れたのは、お聞きになられましたか?」
帝は、眉を顰めた。
ここのところ、女の姿をした物の怪が都の至る所で出没しているらしい。
悪い噂はすぐに広がるもので、宮中でもその話題で持ち切りで、女御やお付きの女房などはすっかり怯えていた。
しかし、現実主義者の帝は、訝しく思っていた。
人里離れた場所ならいざ知らず、こんな街の中心で物の怪が出没するなど全く怪しすぎる。
「報告は受けたが、真の物の怪だろうか? 悪戯の可能性は?」
「盗賊が世を騒がす目的で演じている可能性もあります。見回りの強化のご命令をたまわりたく参上いたしました」
「では、そちに任せる」
「恐れながら、右近衛中将にも任を命じて頂きたく存じます」
「右近衛中将もか?」
「私一人では、手に余りますので」
なぜ、そこで蓮月がでてくる?
帝は、左近衛中将に気付かれないように、顔色を変えずにうなった。
左近衛中将は、蓮月の親友気取りで、理由をつけては遊びに行き、そのまま泊ることも多いらしい。
いや、別に親友なら、よくあることだろう。
けれども……
知らず知らずのうちに、帝の眉間の皺が深くなる。
この左近衛中将。
帝には、蓮月を狙っている気がしてならないのだ。
蓮月を見るいやらしい目つき、明らかに多いボディータッチ。
前々から、気になっていた。
大体、左近衛中将は仕事よりプライベートを大事にする今どきの考え方の持ち主。
そんな人が自ら見回りを買ってでるのは甚だおかしい。
何か、裏があるに違いない。
この騒動にまぎれて、何か行動を起こす気か?
私の愛らしい蓮月の貞操が危ぶまれる……。
そんなことは、させるか!と気色ばんだ帝だったが、今は人の和を何よりも重んじる、平安の時代。
表立って、事を荒立てることはご法度だ。
全く気乗りがしないが、人前でここまではっきりと表明されてしまえば、帝と言えど無下にはできない。
帝は、なおも抵抗を試みた後、しぶしぶ、二人に物の怪退治を命じることにした。
ともだちにシェアしよう!