1 / 9
1.運命の福音
こんなにも、欲しいと思うことがあるのかと。
ハトリはとても驚いたものだった。
出会いは十三年前に遡る。
薬師であった彼にとって、薬草探しは日課だった。いつもの通りに里の近くで採集に勤しんでいたところ、ある日見つけたのが、薬草ではなく子供の獣人。
聞こえたのは甲高い叫びのこだまだけで、人の悲鳴と判断するには覚束ない。それでも、何故かわかってしまったのだ。行かなくてはと。
そうして必死に山野を駆けてみれば、狼に襲われる小さな人影を見つけたわけだった。
本能が告げていた。あれは自分のものだと。
葉陰に潜んだ時には、脂汗滲む手を震わせて、緊張で息が浅くなっていたのを覚えている。
武の才には恵まれなかった彼にとって、その場で頼りになったのは腰に下げた短刀ではなく、懐に忍ばせていた吹き矢ひとつ。強力な毒矢が仕込まれていたが、猛獣を昏睡させられるほどとなれば貴重な品だ。
幸いにして狼は痩せこけた一匹だけ。群れを出たばかりの若い雄だろう。うまくいけば倒せるだろうが、手持ちの矢の数は限られている。
間違いなく仕留めなければならないというのに、動揺で肺にも腹にも空気が入っていかない。
気持ちを落ち着かせなくてはと自分に言い聞かせながら、この時になって自問の思考に至る。
何故? と。
獣が獣を喰らうのは自然の世界において当たり前のこと。では目の前で襲われているその黒い毛玉は、獣であるか人間であるか。
そんなことすら把握していないまま武器を構えてしまったのだ。茫然自失もやむを得まい。
キャウキャウと人語を発する気配がないまま威嚇して、未熟な牙と爪で懸命に身を守ろうとしているが、その黒毛玉の挙動からはおよそ人らしさは認められなかった。
ボロ布同然の服さえ纏っていなければ、助けるに値したかは怪しいところ。よく見れば片耳には金の耳飾りも付けている。
山向こうの砂漠に住むキャラバンにはこういう毛色の戦闘部族も混じっていると、ずっと昔に里長から聞いた覚えがあった。その獣人部族の幼体なのだとすれば合点がいかないこともない。
獣人であるならば、姿は自分と違えどもその存在は人という枠組みの中にある。
あの毛玉は助けなければならない対象、そのはずだ。
しかしハトリも里の人間も、よそ者は好まないのだ。
(運命、か……。)
もうこの時には、吹き矢を握るハトリには自分の中で燻る衝動の正体が嫌というほどわかっていた。
あの幼い獣人はきっと、助けたところですぐに身ひとつで追い出されてしまうだろう。そして遠からず孤独にどこかで野垂れ死ぬ。
しかしその死は、ハトリにとってもまた許容しがたい死。
ならば自分が里を出るしかないだろう。
こんなにもすんなりと故郷を捨てる日の訪れを受け入れてしまえるとは。
ひとたび里を出て行けば、戻ることは二度と許されなくなる。
亡き両親は草葉の陰で嘆くだろうか。怒るだろうか。仲間たちは愚かなことをと憤るだろうか。
そんなものは全て、運命を知らないから言えることなのだ――!
「ギャッ!!」
茂みに潜み吹き矢を構えたまま静止していたハトリの目の前で、黒い毛玉が哀れな声を上げついに狼に組み敷かれた。
獰猛な餓狼の牙が黒毛の喉笛に噛みつこうかという刹那こそ好機。彼は大きく息を吸う。
一匹狼も険しい自然の掟に窮した弱者である。息吹の音には敏感だったか、鋭い視線は臆したように草陰越しにハトリを射抜く。敵を見据える目で。
仕損じれば次は自分が殺される。そうとわかっていながらもこの時、ハトリには恐怖はない。
目の前で運命を絶やされるよりは、よほど。
「――フッ!!」
スタンっ!
小気味好いくらいの音を立てて、ハトリの吹き放った毒矢は真直ぐに狼の喉笛に刺さったのだ。
――とは、いえ。
(運命、ねぇ。)
今のハトリには、あの日の運命の意味がよくわからなくなっている。
かつては黒毛玉であった、ハトリがシグと名付けた黒豹寄りの姿をした獣人の、こんなあどけなすぎる寝顔を見ている時なんか、特にだ。
「くかぁああ、グルルル……。」
早熟な種である獣人のこと、十三にもなればそろそろ身体は大人の仲間入りを果たしたと思っていいだろう。
手足は立派にすくすく伸びたが、では中身がいくつになったのかと考えてみると、ハトリは頭が痛いばかり。なにせまだまだ子供なのだ。
二十八になる彼はといえば、そこそこ名の通った旅の薬師となった。今は世話になっている商会が手配してくれた宿屋で注文の薬を拵えていたところ。
まとまった旅銀を得る少ない機会とあり、ハトリはこの街に寄るたび数日は引き籠もりがちになる。今では用心棒も兼ねてくれているシグの存在は旅の空の下では頼もしいが、育て親が仕事に明け暮れているとなればやることはなし。退屈この上ない。
遊びたい盛りの若い獣人には日がな一日屋根の下なんて耐えられっこないのだ。なので駄賃を持たせて気晴らしの買い物に出してみれば、肝心の物資を買い忘れたまま露店の串焼きやらを食い漁るだけ食い漁って、帰ってくるなりこれである。
まったくもって、運命とは、いったいぜんたいなんだったのだろう。
(今更そんなこと考えても仕方ないのだけれど。)
苦笑しながら、ベッドで大の字になっているシグに毛布をかけてやる。獣人でも放っておけば風邪を引くと、ハトリは既に熟知しているのだから。
思い返せば、旅の初めは本当に大変だった。
一人で山をさまよっていたらしいシグはハトリに保護された時には酷く衰弱していた。その上言葉もわからない。薬師といえども人間しか相手にしたことがなかったハトリには何を食べさせれば良いのかさえわからず、黴臭い文献を数多く漁ったものだ。
ある程度元気になってからは寝相の悪さが明らかになり、布団は蹴るわベッドからは落ちるわ。
もしかすると毛皮があるのだからそもそも布団がいらないのでは? ハトリがそんな勘違いをしてしまうくらいには、激しく荒々しい寝相。試しに実際放置してみれば、見事一晩で風邪を引いてしまった。
ハトリの生まれ故郷であった隠れ里は極度のよそ者嫌いだったが、衰弱していた獣人の幼体を慮ってくれる程度の優しさは持ち合わせていたようで、覚悟したほどすぐ追い出されることはなかった。しかしそれとて一ケ月ほどの話。
実際にはハトリに考え直す時間を与えるためだったのだろう。何度も何度も説得されたが、里の者たちの努力は結局報われなかった。
百五十年ばかり昔にひっそり作られたという隠れ里は長閑で豊かで良い環境ではあったが、年々人の数が減り、ここ三世代ばかりで比べても半分は落ち込んでしまっている。
若い上に薬師の知識も持ち合わせていたハトリを失うのは、彼等もさぞ手痛かったに違いない。
里の仲間たちが今どうしているか、ハトリには知る由もない。二度と戻ってはならないという鉄の掟があるからだ。
夕星 の架かる宵入りの空は故郷で見ていた色とさして変わりない。しかし下界には、火打ち石の代わりにマッチがあり、灯すのは油皿ではなく硝子張りの角灯。
かつて確信した運命の衝撃も、下界に下りて初めて知った近代的な文化も、ゆっくりと色褪せ……やがて当然のものとなっていく。
子供の頃から嗅ぎ慣れた薬の匂いに染まっていく。
(故郷を捨てるほど、欲しいと思ったはずなのにな。)
薬研 に向かいながら夜なべの覚悟で作業を続けつつ、ハトリは今日も生ぬるい感傷に浸るのだ。
ともだちにシェアしよう!