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第1話 桜舞い散る、春の雪
――うちに、来る?
そう言ったのは僕だった。頷いて温かい手を繋いだのは、郁だった。
花のような人。郁の母にはそんな印象がある。
ちょうど、桜が満開になる頃、日向のような笑顔、すらりとした細い腕をこれでもかってくらいブンブンと振りながら「おーい!」と春の青空のように澄んだ声で呼んでくれる、花のように美しい人だった。
僕の母の遠い親類だと言っていた。
郁の母は秀でて容姿端麗な女性だった。明るくて、屈託なく笑う、太陽みたいな、とても優しく柔らかい雰囲気を持った人。
男性とも女性ともとれる「りょう」と言う名前がとてもよく似合っていた。
――文彦(ふみひこ)、今日、りょうちゃん、来るよ。
僕の母がそう教えてくれたら、朝から胸を高鳴らせてしまう。そんな人。
染色業を生業にしていた僕の両親が住む田舎町の片隅じゃ出会うことのない楽しい話ばかりをたくさん聞かせてくれた。
海に向かって一斉に駆け出す蟹の群れの話。夜、突然現れる青く光る海の話。海上で花開く花火の美しさ。カラフルなランタンが妖艶に漂う祭りや太鼓の音が自分の内側を壊す勢いで鳴り響く夜祭り。どれもこれも刺激的で。
りょうちゃんの両親はもうおらず、うちの実家が里帰り代わりになっていたようだった。
桜を見たいと、毎年春にやって来て、僕にたくさん話をしてたくさん笑って、そして、またどこかへ帰っていく。ダンサーをしているって母が教えてくれた。けっこう名のあるところで踊っている、その界隈では有名なダンサーだった。
まだ子どもだった頃、春にだけ現れるりょうちゃんを、本当は桜の精なんではないだろうかと本気で思ったこともあったっけ。
そのくらい、綺麗だった。
だから、その綺麗な人が赤ちゃんを連れて来た時は本当に驚いたんだ。
まあるいほっぺたに、甘いミルクの香りをまとった、薄ピンク色の赤ちゃん。
その赤ちゃんがりょうちゃんの腕の中から、やっぱりまあるい手を僕のほうへと伸ばし、あーとか、うーとか、ちっともわからない、言葉にもなっていない声を発した。
とても可愛い声だった。とても綺麗な瞳をしていた。
『あっ! すごい、郁ってば、文(ふみ)くんのこと気に入っちゃったみたい』
郁、という名前の赤ちゃんを恐る恐る抱っこした時のことはよく覚えている。漂っていた甘い甘いミルクの匂いに包まれるような感じ。驚くほど柔らかくて、あったかくて、そして、少しだけ感じる重みは独特だった。なんだか不思議な重さだと思った。
郁と出会ったのはそんな桜が満開の下、僕が十六歳になった頃だった。
まだ少し寒いけれど、花の蕾が膨らみ始めた頃に生まれた赤ちゃんは、そのまま半年くらいうちで暮らしていた。両親のいないりょうちゃんと一緒に、秋から冬になりかけた頃まで。
『本当に郁は文くんが好きだねぇ。ほら、もう泣き止んだ』
『見て見て、郁がまた文くんを見て笑ってる』
『文君に抱っこされたいんでちゅか?』
『文君』
すごく楽しかったんだ。春にしか現れない花のようなその人が毎日うちにいて、赤ちゃんの甘い香りがいつでもして、いつでも青空みたいに澄んだ声が笑ってる。夏でも秋でも、春がずっとうちに留まってくれているみたいな。
けれど、花みたいな人だ、桜みたいに綺麗な人だ、そう思っていたからかもしれない。
あれは僕が二十八歳、両親を不慮の事故で亡くした年に、りょうちゃんも、本当に桜のように命を散らせてしまった。
一人で郁を育てたりょうちゃんの葬式それは寂しいものだった。花が散ってしまう時というのはこんなにあっけなく、こんなにも物悲しいものなのかと思った。
それは、郁が十二歳になった、桜が終わりかけの四月十五日、桜の花びらが雪のように降り注ぐ日のことだった。
可哀想にねぇ。まだ息子さん、十二歳でしょう?
どこからともなくそんなヒソヒソ声が聞こえる。どうして、ひっそりしているくせに、こんなにはっきりと聞こえてしまうんだろう。
親類がお金を出し合ってあげた形ばかりの葬式、その寂しい場所の真ん中にぽつんと郁が座っていた。
ねぇ、旦那さんは誰なのかしらね。
さぁ、踊り子だったんでしょ? どんな人が相手なのか、だぁれも知らないらしいじゃな? あの子だって、ねぇ……ずいぶん目鼻立ちが整ってるし。どっかの……ねぇ。
美人だったものねぇ。
あの子、どうなるのかしら。
……さぁねぇ。
ホント、これっぽっちも静かじゃない。むしろうるさいくらい。
濁ってざらついた、耳障りな声ばかり。
好奇とも取れる視線ばかり。
つい数ヶ月前、僕のあの真ん中に座っていたけれど、でも、僕は成人していたからだろう。こうじゃなかった。
それでも耳の周りで小うるさく飛びまわる声たちを邪魔だと思った。だから、今、あの子はさぞかし辛いだろう。
たしかに、りょうちゃんに似て端整な顔立ちはしていたけれど、それでも子どもだ。十二歳で一人ぼっちになったただの男の子だ。
きっと郁にはヒリヒリズキズキ、そこに座っているのすら痛むだろうに。
だから声をかけずにはいられなかったんだ。
「ねぇ、郁、僕のこと、覚えてる?」
郁は動かず、誰とも話さず、俯いたまま、ただ座っていた。その郁の前まで行き、膝をついて見上げると、真っ黒な瞳に光はほんの少しも差していなかった。
郁とりょうちゃんが毎年春に来ていたのは郁が小学校に上がる直前まで。それからは電話や手紙は来ていたけれど、うちを訪れることはなかった。
母に「ねぇりょうちゃんと郁は来ないの?」と桜が咲く前に訊いたことがあったけれど、とても有名な劇場に招かれたから忙しくなってしまったんじゃないかしらと言われ、とても残念だった。
約五年も会っていなかった。六歳だった郁はまだ幼児らしくふっくらしていたけれど、今、目の前の彼は、ずいぶんと大人びて、僕の記憶の中の彼とはまるで別人みたい。だから、それこそ君はもう僕のことなど覚えてないかもしれない。
それでも声をかけた。郁の膝に置いた手はどこか不安げにそこにあったから。だから、思わずその手に手を重ねた。黒い瞳がゆらりと揺れたのがわかった。ゆらりと揺れて、そして黒い瞳に小さく細く光が宿る。
「君が君のお母さんと毎年、春にうちに遊びに来てたんだ」
「……」
「うちの庭にね、大きな桜の木があって、そこで君とお花見を毎年してたんだよ」
あれは君に会えた最後の年。
『俺、来年から、小学生になるんだ! 大きな大きなおおおおおおきな学校なんだって。お引越しもするんだよ。大きな学校で、大きな庭があるんだって』
「桜の花、覚えてる?」
『文にいちゃんのとこの桜の木よりも大きいかも! ねぇ、そしたらっ』
「郁とおにぎりを食べたりしたんだよ?」
『そしたら、文にいちゃんも一緒に見ようね』
「ね、郁……」
「……」
「うちに、来る?」
そう言ったのは僕だった。頷いて温かい手を繋いだのは、郁だった。
それは、僕が二十八歳、郁が十二歳の、桜の花が雪みたいに降り注ぐ、少し肌寒い日だった。
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