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第2話 十二歳の君
言わずにはいられなかった。
だって、郁の手はとても強張って、あのまぁるいあったかい手とはまるで別ものだったから。
「どうぞ、適当にそこら辺に座って?」
「……あ、はい」
うちに来る? なんて、言ってしまったけれど、でも、後悔はなかった。親戚が少しホッとしたような顔をしたのが、なんだかおかしかったな。中学生になる親戚の子ども、か。たぶん、りょうちゃんはそんなにお金残してなかったんだろう。病死と聞いてる。中学高校、これから学費がたくさんかかるだろう親戚の子どもを好き好んで引き取りたいっていう人はあまりいないかもしれない。
引き取るって僕が言った瞬間、親戚が学校の手続きやらなんやら、全てやると言ってくれた。でも、たしかに助かるけどさ。
「あの……」
「あ、ごめんね。麦茶飲む? 葬儀で疲れたでしょ? しばらく落ち着くまではあれだけど、学校とかもこっちに編入できるように、親戚の青木の叔父さんがしてくれるから」
「……」
「いたでしょ? あー、わかんないよね。皆、喪服だし、区別なんてつかないよね」
青木の叔父さん。こういう親戚集まりの法事とかで仕切ってくれる人なんだけど、七三、じゃないんだよね。九一って言っていいのか。あれ、きっとシャンプーしたら片方ロンゲだなぁって、昔から思ってたんだ。でも、昔からあの九一で変わらない。十ゼロにならないんだ。
「…………」
「って、ごめんね、そんなの笑える心境じゃないよね。はい。麦茶」
バカ、だなぁ。十二歳の子にはたったひとりの肉親がいなくなってしまったって、どれだけ心細いか。
入学したてだったのに、まだ学校に慣れてもいなかっただろう。少し友だちができ始めた頃だったかもしれない。それなのにまた編入だなんて。都会の学校に行ってたんだっけ。春にりょうちゃんが来なくなったのは大きな劇団に入れて、そこで踊るからって言ってた。なら、こんな田舎はさ、生活環境からしてがらりと変わってしまう。
「あの……えっと、文彦、さん」
「ぶっ、げほっ、ごほっ」
「……」
「ご、ごめん。まさか郁にそう呼ばれるとは予想外だったから」
「……」
目を見開いてた。大きな黒い瞳をいっぱいに開いて、僕を見てる。葬儀の間はずっと閉じていた唇を薄っすら開いて、ぽかん、ってしてる。
「えっとね、僕は君のこと赤ちゃんの頃から知ってるんだ」
「……」
毎年、うちの桜を見にりょうちゃんと来てたって言っただろう?
「待ってて?」
茶の間の大きな窓。軒先に夏はすだれをかけるけれど、今は春だからすだれも邪魔をしない。ここからだとむしろ見づらいかな。
「もう散りかけだけどね」
窓を開け放つと、春の風が地面に落ちてた桜の花びらさえ躍らせる。
「ほら、こっち来てごらん?」
君とは生まれてから半年まで一緒に暮らしてたんだよ? まあるいお手手をいっぱい広げて、僕が君を覗き込むと、嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして笑うんだ。まだ、歯すら生えてないピンクの口を大きく開けて、きゃっきゃきゃって笑ってくれるの。その笑顔を見るとたまらなく嬉しかった。
「桜がよく見えるよ」
半年経って、君はりょうちゃんと二人での生活を始めることになった。それでも春になると来てくれる。
一歳の君は、何でも興味津々で、よたよたとおぼつかない足で、今、スミレが咲いている辺りまで歩いていくんだ。裸足で。泥だらけになっちゃうよって、僕が慌てて庭に出ようとすると、りょうちゃんが「いいの。裸足は土を感じられて気持ちがいいのよ」って笑ってた。テクテク、テトテト、裸足の君はスミレのところまで辿り着いたら、座り込んで、草花をくしゃくしゃに鷲掴みにして笑ってた。足元と同じくらいおぼつかない言葉で「うー」って呼ぶんだ。僕のことを。そして、まあるい手をパッと広げて、むしった草花をひらひら落っことした。
二歳の君は、もう少しちゃんと話せて、もう少しちゃんと歩いて、なんでも興味津々だった。危なっかしくて、のんびりしているりょうちゃんは笑っていたけれど、僕は怪我でもしやしないかと気が気じゃなくて。
三歳の君は、走り回ってばかりだった。虫が苦手なのはりょうちゃんに似てた。動物が好きなのもりょうちゃんに似てた。近所で子猫が生まれたと一緒に見に行ったら、目を輝かせてたっけ。
四歳の君とは歌を歌って、川で遊んで、虫に大声を上げて逃げ回っていた。田舎だからね。春になったら虫がわんさかあっちこっちに。まだ苦手なの? って聞くと、苦手じゃないって半泣きしてた。
五歳の時は、その前日に公園で思いきり転んだらしく、膝小僧に大きなガーゼを貼っていた。痛かっただろうにって言ったら痛くないって。でも、お風呂では沁みるから入りたくないって駄々を捏ねてた。
――じゃあ痛くないように、全部吸い取ってあげよう。
本当に傷に口をつけたわけじゃない。口元を近づけて、すうううううって、思いきり吸ってみせるだけ。
びっくりした顔をしてた。やっぱり痛かったぁって泣く郁を抱っこしてあげたら、とても重たかった。
六歳の君は、小学校に、あがるんだよって嬉しそうにしていた。大きな桜の木がある学校に通うんだと話してくれた頬が桜みたいにほんのり色づいていた。
「桜、ちょっと散りかけだけどね」
「……」
十二歳の君は、悲しみのどん底にいた。手がとてもこわばっていた。だから、手を繋いだ。
「あの、おじさんとおばさんは……」
「あー、実は事故で亡くなって」
「え……」
「少し前だよ」
葬儀にりょうちゃんも郁も呼ばなかったね。俺もバタバタしてたし、悲しみが深かったから、そこまで考えられなかった。青木の叔父さんが呼ぶ人に声をかけてくれた中に、りょうちゃん、入ってなかった。僕は始終俯いていて、それに気がつけなくて。ごめんね。
きっと、親戚の中で、りょうちゃんは浮いていたんだろう。葬儀の間中、耳障りだった噂話の声たちだけでもそれは感じ取れたけれど。
「だから、俺が君の親代わり」
「……」
「って、あんまりしっかりしてないかもだけどさ」
十二歳の君は。
「わっ!」
風が吹いて、満開をすぎた桜の花びらが音もなく雪のように舞い散っていく。
そうだ。
六歳の君は動きも活発で、さすがダンサーの息子らしく、ほらちょうどそこの庭先のところで舞い落ちる花びらを掴んで遊んでた。ひらり、ひらりって、不規則に揺れながら落ちる花びらを地面に辿り着く前に掴もうとして。至難の業だけれど。
――見て! 文にいちゃん! 取ったよ!
でも、君は桜色のほっぺたで笑いながら掌から一枚花びらを僕にくれたんだ。
「っぷ」
「? 郁」
「鼻のとこ、付いてるよ」
「?」
まあるくて小さかった手は。
「桜の花びら」
「……」
もう丸くない。
「文彦さん」
けれど、さっき葬儀の時とも、もう違う。今、桜の花びらを取ってくれた指、鼻先にちょっとだけ触れたその指は六歳の君と同じに優しくて、あったかかった。
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